「人間の姉と、機械の妹」
リルルは、夢を見ていた。
それは、長く多い
自分がこの世に誕生した時から始まって今に連なる、その全ての記憶をたどる夢だったのかも知れない。
顔も覚えていない、屋敷に写真としてしか残っていない母が自分を抱き上げてくれた時の、悲しそうな顔から始まり――乳母であるソフィアが初めて乳をくれた時のこと、まだ
最初の方は記憶として残っているはずもなく、
それでも、その全てが、今のリルルを作ってきた記憶だった。そのどれかひとつが欠けたとしても、今のリルルは
王都の
行方不明になっている、男の子の姉。そんな彼女を
掛け合った彼等から差し述べられたのは、救いの手ではなく、
役所と悪人は
絶望しきった男の子を、同じ想いの中から抱きしめ、
この子を救おう、と。
だからリルルは、薄桃色のドレスをまとった。
不安げな顔を見せながらも、力を与えてくれる道具をフィルフィナは貸してくれた。この世の
人々の心を悪意で
少なくない善意と、頼りになる仲間もリルルの支えとなった。
自分でも
かつて経験したことのない、長時間の激闘。常に頭にのしかかる制限時間の
◇ ◇ ◇
横たえた体をやわらかな
「ここ……は……」
一瞬空白になってしまった心、自分が誰かも思い出せないくらいに疲れ切って空転する心を抱え、まだ疲労が骨と肉にたっぷりと
意識が戻った直後に
「――サフィーナ?」
隣の寝台にサフィーナがいるはずだと思い出してリルルは視線を向けたが、そこは
「フィル? フィルはいる?」
「――誰もいないの……」
王都の高級ホテルなど、
これ以上そこで寝ていれば、一生そこから抜け出せられなくなる――そんな予感があったから、リルルはまだ十分に疲労が抜けていない体を
「――まさか、私を置いて誰もいなくなったわけでもないでしょう」
リルルは立ち上がった。
寝る前にフィルフィナが湿布を貼ってくれたので、右足首の
◇ ◇ ◇
ニコルもまた、リルルの
「う……ん……」
頭の中で
「あ……ああ……。いけない、いけない……」
起き上がろうとして、ロシュの右手を
よくも寝ている間に放さなかったものだ、と思ったが、放されていないわけはすぐにわかった。ロシュの方からも、握り返してくれていたからだ。
「――ニコルお兄様、おはようございます」
飾り気の一切がない、体の線がぴたりと浮き出る衣服。肌の色を変えているだけではないかという奇妙な服の上に毛布がかけられているロシュが、首だけをニコルの方に向けていた。
「ロシュ? ああ……ちゃんと動けるんだ。じゃあ、手術は成功したんだね……」
「はい。ロシュは現在正常稼働中です。全ての機能に問題を確認できず」
「――ロシュ、その目は……」
「はい、ニコルお兄様」
大きく開いた可愛い目の奥で、
「これがロシュの、新しい色の目です」
「それは――」
ニコルはいわれずとも思い出していた。想い出の愛馬・ロシュネールの目にそっくりだった。
「
身を起こしたニコルが振り返ると、神官衣の
「ニコルくん、よくロシュについていてくれたね。彼女は正常だ。安心したまえ」
「本当にずっと手を握ってあげるなんてね」
「ロシュと、約束しましたから……眠ってしまったのは不覚でしたが」
「本当にキミはいい少年だね、ニコルくん。ボクは、キミを手に入れられなかったのがとても残念だよ――それは別の話としておいておいて、今夜どうかな?」
「ニコルお兄様、ロシュはお願いがあります」
「なんだい、ロシュ」
フェレスの言葉を完全に無視したニコルに、ロシュはいった。
「リルル様に、ご
◇ ◇ ◇
「リルル様」
「あ…………」
亀のような動きで洗顔をすませ髪を整えたリルルが、ため息が出るほどの
「おはようございます、リルル様。――
リルルはその『ご迷惑』に想いを
「……一昨日? 私、そんなに寝ていたの?」
「バイタルゲージから予測される睡眠時間は二十七時間ほどです。脈拍、血圧、脳波、体温、代謝機能オールグリーン」
「……ごめんなさい、意味が半分わからないんだけど」
「若干の疲労が認められますが、
「……ありがとう。あれ、あなた……」
リルルも気づいた。まっすぐに見つめてくる少女の瞳の色が、特徴的でないということに。
「ニコルお兄様のお側にいるためにはこちらの方が都合がいいということと、それと――」
「……ロシュネールの目にそっくりだわ」
「リルル様、ロシュネールをお覚えですか」
「覚えているわ。小さい時にニコルにお願いして乗せてもらおうとしたら、私を振り落とそうと
「それは大変申し訳ありませんでした」
「あなたの責任じゃないでしょ?」
「ロシュは、ニコルお兄様の心を全て読み取りました。ニコルお兄様の心にあるロシュネールの想い出も含めてです。ロシュネールの心を理解していたニコルお兄様の心には、ロシュネールの心の写しがありました。今のロシュは、そのロシュネールの心を元に人格を構成しています」
「……こんがらがりそうだけど、いってる意味はなんとかわかるわ……」
「――同時に、ニコルお兄様の心にあるリルル様のことも、理解しているつもりです」
リルルの口が開いたが、言葉は出なかった。出せなかった。
「リルル様。ロシュはニコルお兄様と共に暮らします。妹として生きていきます。ですが、ニコルお兄様の周りにロシュのような
ロシュの腰が前に折られ、直角よりも深く頭が下がる。首筋にかかっていた髪の
「ロシュはリルル様のご
「……あなた、
リルルは深い息を
「ニコルは私の双子の兄弟のようなものよ。同じ日に生まれ、赤ん坊のころから並んで生きてきたわ。……あなたがそのニコルの妹なら、あなたは私の妹でもあるのよ。そんな
中枢の命令よりも先に、ロシュの頭が上がった。黒い瞳がアイスブルーの瞳をのぞき込んだ。
「いいことを教えてあげるわ。――私、妹が欲しかったの」
鏡のように光る黒い瞳の真ん中で、小首を
「フィルは、どちらかというとお姉さんだからね……。――さ、おいでなさい」
ロシュが歩み寄る前に、リルルが
「私のことを、リルル様だなんて呼ばないで。そうね――リルルお姉ちゃん、でいいわ! 私、ずっと前から無責任に可愛がられる、甘やかせる妹がいたらいいな、と思っていたの。ロシュも私に甘えてくれていいのよ。フィルったらお姉さんでいないといけないとって突っ張って、
「リルル――リルル、リルルお姉ちゃん……」
勇気に似たものを消費してロシュは口の中で
「いえ、やはり、リルルお姉様、と呼ばせていただきます。ニコルお兄様と対になっていた方がいいと思うので……」
「そう? それは残念だなぁ」
それほど残念そうではない声でリルルはいい、新しく手に入れられた『妹』をぎゅっと抱きしめた。
「あなたは機械なんだろうけれど、私の大事な妹よ。妹に機械も人間もないわ――いつまでも私の妹でいてくれれば、それでいいの。ね?」
姉の気持ちが音となって
「改めて自己紹介するわ。私はリルルよ。ふつつかな姉をよろしくね」
「はい、リルルお姉様――」
おずおずとロシュの手がリルルの背中に当てられる。その心を
その身も心も、自分の中に取り込むかのようだった。
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