「人間の姉と、機械の妹」

 リルルは、夢を見ていた。

 それは、長く多い演目えんもくが重なる夢だった。

 自分がこの世に誕生した時から始まって今に連なる、その全ての記憶をたどる夢だったのかも知れない。


 顔も覚えていない、屋敷に写真としてしか残っていない母が自分を抱き上げてくれた時の、悲しそうな顔から始まり――乳母であるソフィアが初めて乳をくれた時のこと、まだ乳児にゅうじだったニコルとの出会い、汚れきった街角で、汚れきったエルフの少女に触れた時のこと――。


 最初の方は記憶として残っているはずもなく、あとの方になってもその映像の色はせて輪郭りんかくもぼやけ、霧のスクリーンを何枚か通した覚束おぼつかないものになっている。


 それでも、その全てが、今のリルルを作ってきた記憶だった。そのどれかひとつが欠けたとしても、今のリルルはたもてない。リルルと同じ顔をした、ちがう人間を作ってしまうことだろう。


 王都の往来おうらいの真ん中で泣いている一人の男の子に声をかけた時、自分はまだ薄桃色のドレスとは無縁むえんだった。

 行方不明になっている、男の子の姉。そんな彼女をとぼしい手がかりをたよりに探し、合法ですらない売春宿でやつれにやつれきった姿になっているところを見つけ、救い出そうとその地域の役所に掛け合った。


 掛け合った彼等から差し述べられたのは、救いの手ではなく、口封くちふうじのための暗殺者だった。

 役所と悪人は結託けったくしていたのだ。命をねらわれたのを必死の思いでかわし、恐怖の中で少女は思い知った――この世には、法律ではさばけない存在があるのだということを。


 絶望しきった男の子を、同じ想いの中から抱きしめ、戦慄わななく彼の瞳から流れる涙を震える指でぬぐった時、リルルは決意した。

 この子を救おう、と。


 だからリルルは、薄桃色のドレスをまとった。


 不安げな顔を見せながらも、力を与えてくれる道具をフィルフィナは貸してくれた。この世のかげではびこる理不尽りふじん矛盾むじゅんかたまりと戦い、男の子の元に姉を取り戻してあげた時から、今に続くリルルの戦いも始まった。


 人々の心を悪意でみにじろうとする者たちにあらがい、時には、人間の力では対抗たいこうすることもできないような巨大な敵とあいまみえながら、戦い続ける、という鉄のような意志だけで、リルルはここまでやってきた。

 少なくない善意と、頼りになる仲間もリルルの支えとなった。


 自分でもはかりきれない量の血と汗、そして涙を流し、今、リルルはこの寝台にたどり着いていた。

 かつて経験したことのない、長時間の激闘。常に頭にのしかかる制限時間の圧迫プレッシャー。その中で気力と体力を振りしぼり、たましいせ細るまでに戦い続け――眠ることに飽きた心が、目覚めようとしていた。



   ◇   ◇   ◇



 横たえた体をやわらかな敷布団しきぶとんなかば沈めた少女が、ぱちり、と目を開いて、鮮やかなアイスブルーの瞳に見慣みなれない天井を写した。


「ここ……は……」


 一瞬空白になってしまった心、自分が誰かも思い出せないくらいに疲れ切って空転する心を抱え、まだ疲労が骨と肉にたっぷりとみこんでいる体を、リルルは起こした。

 意識が戻った直後に空腹感くうふくかんつらぬくように痛いほど差し込んできて、なにかを胃に入れないことにはそれ以上眠れないくらいだ。


「――サフィーナ?」


 隣の寝台にサフィーナがいるはずだと思い出してリルルは視線を向けたが、そこはからだった。ただ、布団から抜け出た形跡はあった。


「フィル? フィルはいる?」


 こたえる声はない。自分の屋敷の寝室の四倍はあるだだっ広い空間には、さびしさしかなかった。


「――誰もいないの……」


 王都の高級ホテルなど、およびも着かないほどに豪華ごうかな部屋だ。体にかかっている布団も絶妙な重さで体をほどよく押さえつけてくれて、母の胸に包まれているということはこういうことかと思わせるような保温性があった。


 これ以上そこで寝ていれば、一生そこから抜け出せられなくなる――そんな予感があったから、リルルはまだ十分に疲労が抜けていない体をすべらせて、ふかふかの絨毯じゅうたん素足すあしをつけた。寝台の脇のテーブルには、水差しとコップがっている。


 のどの奥にへばりついたかわきを払うため、リルルは水を一杯飲みした。


「――まさか、私を置いて誰もいなくなったわけでもないでしょう」


 リルルは立ち上がった。

 寝る前にフィルフィナが湿布を貼ってくれたので、右足首の捻挫ねんざの痛みは完全に消えている。のろのろとした動きで歩き、布団の上に並べるようにして用意されていた青いワンピースドレスに着替え、不安定な足取りで寝室を出た。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルもまた、リルルのたましいの目覚めを感知したように、彼女と同じ頃合ころあいにその目を覚ました。


「う……ん……」


 頭の中でどろうずを巻く感覚が去って行くのを覚えながら、水色の瞳を開く。左腕をまくらにし、『手術』を受けたロシュが横たわる作業台にうつ伏せになっている格好だ。うとうとしたと思ったら、眠ってしまっていた――。


「あ……ああ……。いけない、いけない……」


 起き上がろうとして、ロシュの右手をにぎったままの右手を思い出した。

 よくも寝ている間に放さなかったものだ、と思ったが、放されていないわけはすぐにわかった。ロシュの方からも、握り返してくれていたからだ。


「――ニコルお兄様、おはようございます」


 飾り気の一切がない、体の線がぴたりと浮き出る衣服。肌の色を変えているだけではないかという奇妙な服の上に毛布がかけられているロシュが、首だけをニコルの方に向けていた。


「ロシュ? ああ……ちゃんと動けるんだ。じゃあ、手術は成功したんだね……」

「はい。ロシュは現在正常稼働中です。全ての機能に問題を確認できず」

「――ロシュ、その目は……」

「はい、ニコルお兄様」


 大きく開いた可愛い目の奥で、まるく入った黒翡翠くろひすいのように輝く瞳が、やわらかい笑みを帯びた。


「これがロシュの、新しい色の目です」

「それは――」


 ニコルはいわれずとも思い出していた。想い出の愛馬・ロシュネールの目にそっくりだった。


オレンジ色の目では目立つだろう。なに、別に目を変えたわけじゃないよ。彼女の目はその気になれば、どんな色にだって変えられるからね」


 身を起こしたニコルが振り返ると、神官衣のすそを引きずるようにしてフェレスが歩いてくるのが見えた。


「ニコルくん、よくロシュについていてくれたね。彼女は正常だ。安心したまえ」


 つくえのような制御盤せいぎょばんの突起をフェレスが指で押し込むと、画面にともっていた全ての光が消えた。


「本当にずっと手を握ってあげるなんてね」

「ロシュと、約束しましたから……眠ってしまったのは不覚でしたが」

「本当にキミはいい少年だね、ニコルくん。ボクは、キミを手に入れられなかったのがとても残念だよ――それは別の話としておいておいて、今夜どうかな?」

「ニコルお兄様、ロシュはお願いがあります」

「なんだい、ロシュ」


 フェレスの言葉を完全に無視したニコルに、ロシュはいった。


「リルル様に、ご挨拶あいさつをさせてください」



   ◇   ◇   ◇



「リルル様」

「あ…………」


 亀のような動きで洗顔をすませ髪を整えたリルルが、ため息が出るほどの豪華ごうかな客室から廊下ろうかに出た途端だった――一人のメイド服姿の少女に声をかけられたのは。


 ふくらんだ緑色の見慣みなれた髪ではなく、馬の尾ポニーテールに似た形でひとくくりにされて背中の半ばに垂らされた栗色くりいろの髪にリルルは、無意識のうちに腰の細剣レイピアに手を伸ばしていた――差していなかったので、空振りに終わったが。


「おはようございます、リルル様。――一昨日いっさくじつは、大変ご迷惑をおかけしました」


 リルルはその『ご迷惑』に想いをせた。大した怪我けがもなかったのは本当に幸いだった。死人でも出ていたら、こんなのんきな挨拶にはならなかったろう。


「……一昨日? 私、そんなに寝ていたの?」

「バイタルゲージから予測される睡眠時間は二十七時間ほどです。脈拍、血圧、脳波、体温、代謝機能オールグリーン」

「……ごめんなさい、意味が半分わからないんだけど」

「若干の疲労が認められますが、許容範囲きょようはんい内です。健康状態と判断します」

「……ありがとう。あれ、あなた……」


 リルルも気づいた。まっすぐに見つめてくる少女の瞳の色が、特徴的でないということに。


「ニコルお兄様のお側にいるためにはこちらの方が都合がいいということと、それと――」

「……ロシュネールの目にそっくりだわ」

「リルル様、ロシュネールをお覚えですか」

「覚えているわ。小さい時にニコルにお願いして乗せてもらおうとしたら、私を振り落とそうとあばれたのよ。それで私、半年ほど馬を見るだけで泣き出したんだから」

「それは大変申し訳ありませんでした」

「あなたの責任じゃないでしょ?」

「ロシュは、ニコルお兄様の心を全て読み取りました。ニコルお兄様の心にあるロシュネールの想い出も含めてです。ロシュネールの心を理解していたニコルお兄様の心には、ロシュネールの心の写しがありました。今のロシュは、そのロシュネールの心を元に人格を構成しています」

「……こんがらがりそうだけど、いってる意味はなんとかわかるわ……」

「――同時に、ニコルお兄様の心にあるリルル様のことも、理解しているつもりです」


 リルルの口が開いたが、言葉は出なかった。出せなかった。


「リルル様。ロシュはニコルお兄様と共に暮らします。妹として生きていきます。ですが、ニコルお兄様の周りにロシュのようなモノ・・がいることを、リルル様がこころよくは思わないのも理解しているつもりです。どうかこのロシュのわがままをお許しください」


 ロシュの腰が前に折られ、直角よりも深く頭が下がる。首筋にかかっていた髪のこぼれ、前に落ちた。


「ロシュはリルル様のご容赦ようしゃの分、つぐないをさせていただきます。それが――」

「……あなた、勘違かんちがいしてない?」


 リルルは深い息をいた。その息の色にロシュがぴくりと身を震わせた。


「ニコルは私の双子の兄弟のようなものよ。同じ日に生まれ、赤ん坊のころから並んで生きてきたわ。……あなたがそのニコルの妹なら、あなたは私の妹でもあるのよ。そんな理屈りくつもわからないのかしら?」


 中枢の命令よりも先に、ロシュの頭が上がった。黒い瞳がアイスブルーの瞳をのぞき込んだ。


「いいことを教えてあげるわ。――私、妹が欲しかったの」


 鏡のように光る黒い瞳の真ん中で、小首をかしげて、リルルが微笑ほほえんでいた。


「フィルは、どちらかというとお姉さんだからね……。――さ、おいでなさい」


 ロシュが歩み寄る前に、リルルが距離きょりを詰めていた。前にかたむけられている頭を抱き寄せ、その顔を自分の首筋にめる。見開いた目を閉ざせないままにロシュは、肩越しに廊下の先を見つめた。


「私のことを、リルル様だなんて呼ばないで。そうね――リルルお姉ちゃん、でいいわ! 私、ずっと前から無責任に可愛がられる、甘やかせる妹がいたらいいな、と思っていたの。ロシュも私に甘えてくれていいのよ。フィルったらお姉さんでいないといけないとって突っ張って、滅多めったに甘えてくれないもの」

「リルル――リルル、リルルお姉ちゃん……」


 勇気に似たものを消費してロシュは口の中でつぶやいた。同時にリルルの匂いを鼻で感知する。初めて取得する情報なのに何故か、遠い昔に得た情報であるように思えた。


「いえ、やはり、リルルお姉様、と呼ばせていただきます。ニコルお兄様と対になっていた方がいいと思うので……」

「そう? それは残念だなぁ」


 それほど残念そうではない声でリルルはいい、新しく手に入れられた『妹』をぎゅっと抱きしめた。


「あなたは機械なんだろうけれど、私の大事な妹よ。妹に機械も人間もないわ――いつまでも私の妹でいてくれれば、それでいいの。ね?」


 姉の気持ちが音となってささやかれ、妹の耳をくすぐって心の中に入り込む。優しげな温かさに触れ、何故かロシュの中で何かが激しく震えた。


「改めて自己紹介するわ。私はリルルよ。ふつつかな姉をよろしくね」

「はい、リルルお姉様――」


 おずおずとロシュの手がリルルの背中に当てられる。その心をうながすようにもう一つ深く、リルルはロシュを抱き寄せていた。

 その身も心も、自分の中に取り込むかのようだった。

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