「満月が告げるもの」

 まくら右頬みぎほおをつけて布団に入り込み、早鐘はやがねの調子で静かに鳴り続ける心臓を押さえながら、リルルは壁の時計を見つめ続けていた。


 部屋の明かりはまだともされている。今、ここで眠るわけにはいかない。時計の隣にある扉が、外から解錠かいじょうされて開かれるのかも知れないのだ。


 そして、その扉が開かれた時、自分の運命もまたひとつ、前進する――。


「――――――――」


 だから、息をするのもやや苦しいくらいに張り詰めきった緊張きんちょうの中、ただ時が過ぎるのを待つという退屈たいくつきわまりないはずのこの状況じょうきょうの中で、リルルは退屈を感じることすらできなかった。


 すでに長針は長い時間をかけて一度周り、今、二度目の周回を終えようとしている。


 午前零時まで、あと二分か、三分――それが制限時間タイムリミット。ウィルウィナとわした、ニコルも了解しているだろう規則ルール


『リルルちゃん』


 この部屋の鍵を渡してもらう時、ウィルウィナはこういったのだ。


『日付が変わるまでに、ニコルちゃんをあなたのところに行かせるわ。あなたの部屋の合鍵を渡しておく。――いいかしら?』

『ウィルウィナ様、何故、そんなことを……』

『愛し合う者同士、心も体も愛し合う。とても自然なことよ。あなたたちはそうやって歴史をつなげていくの。これは、誰にとっても必要なことなのよ』

『でも、今だなんて……』

『今しかないでしょ? お屋敷に帰ってから、あなたの寝室にニコルちゃんを引っ張り込む勇気はある?』


 そんなことをいうウィルウィナの顔はいたずら気に微笑んでいるものなのだが、何故か、この時だけはそれがうすかった。


『――ニコルちゃんに鍵を渡すわ。いいのね?』


 その念押しにリルルは、はい、と答えてしまった。

 どうしてその答えを選択したのか、自分でもよくわからない。ただ、はいとしか声が出なかったのかも知れない。

 あのニコルなら・・・・・・来ないだろう、という認識が心の中であったのかも――。


「…………」


 事実、もうあと数十秒で今日という日付は終わってしまおうとしているのに、彼は来ない。

 不自然なことではないとも思う。ニコルという少年は、そういう少年だから。

 それを証明するかのように、時計の長針は今、盤面ばんめんの頂点に位置しようとしていた。


 リルルは、目を閉じた。

 自分たちの岐路きろを定める重大な装置が切り替わる瞬間を、その目で見るのがこわかった。

 何も変わらないという落胆らくたんと、何も変わらずに続いてくれるという矛盾むじゅんする喜びが、不思議なない交ぜとなってリルルの胸に渦を巻く。

 あとひとつ、音もなくひとつ長針が動けば、運命がひとつ収束しゅうそくし――。


「――――――――」


 リリ……リリリン……リリリリ……。

 壁時計が午前零時ちょうどに針をえ、日付が変わったことを示すオルゴールの小さな音色が自動的に再生されて、それがリルルの心に慈雨じうのようにみ入った。


「…………そうよね」


 目をつむりながらリルルはつぶやいた。ほどなくすればランプの中の魔鉱石まこうせきは全て燃えき、この部屋は真の闇に閉ざされるだろう。

 そして、自分は眠る。

 明日はいつものようにやってきて、今までと変わりえのしない一日が――。


「ニコルはそういう人だものね……うん、私も期待してはいなかったわ。期待してはいなかったけれど……」

「――リルル」


 少女の目が、弾かれたように開かれた。

 意識するより前に、腕が体を起こしていた。


 鍵が回された音が空気をきざんで、静寂せいじゃくの中ではっきりと、鼓膜こまくに届いた。

 

 息を飲み、そこから吸えなくなったリルルの目の中で、運命が何かを告げるように扉は開かれた。


「――夜分、失礼するね……」


 ささやくようにそう口にしたニコルが、そこにいた。


 胸甲きょうこうこそ着けていないが、それ以外は警備騎士としての制服に身を包んでいる。背中にはマントを羽織はおり、腰にはレイピアさえ差されていた。


「ごめん、ノックもしないで。なるべく静かにしたかったから」

「ニコル――――」


 リルルの目が、不可解ふかかいさに何度もまばたかれた。

 ニコルはしのぶようにしてここに来た――が、それは女性の寝所を訪れるような服装とは思えなかった。


「もっと早く来ればよかったね。君をやきもきさせたかも……」

「……その格好は?」

「散歩に出よう、リルル」


 いつものさわやかな笑みの底に、どこか動かしがたいものを抱えたニコルが二歩足を退き、廊下ろうかへの空間をけた。


「あ…………」


 リルルは、ようやく気づいた。

 ニコルの足が、扉の境界をみ越えて部屋に入らず、廊下にあることを。


「月が綺麗だよ。――だから」



   ◇   ◇   ◇



 ふたりは、暗がりの屋外をゆっくりと歩いていた。

 ニコルが手からげるランプの灯りは、周囲十メルトほどの範囲はんいを照らし、歩くには不安のない程度の明るさを投げかけてくれている。

 木々がそれほどの密集もしていない林の中を、二人は歩いた。下草したくさの背はくつほどの高さもなく、木々が張り巡らせた固い根が歩きにくい以外は、進むのに支障ししょうもない。


「……どこに行くの?」


 ニコルと行く所ならばどこでもいいとは思いながらも、リルルはたずねていた。このまま一緒に心中しんじゅうしようと言われても、即答でうなずく心持ちでもあった。


「食後に散歩した時に見つけたんだ。とっても見晴らしがいい場所――ほら、見えた」


 林を抜け、ニコルがランプを高くかかげると光が上に動き、前方の視野がひらけた。あわい光の中に白く浮かび上がったのは、まるで巨人が寝そべっているかのような長細い岩だった。


「大きな石……! いえ、岩盤がんばんかしら……!」

「リルル、空を見て」


 首をいっぱいにらしたリルルの瞳に、ひとつかみの砂の数ほどはある星の瞬きが飛び込んできた。


「わぁ…………!」


 その星々をまるで支配するかのように、二人のまさに真上に、真円を描いた黄金の月が重々しくしている。それは夜という時間をべる、皇帝の威風いふうをまとっていた。

 

「座ろうか」


 ニコルがマントをぎ、岩の上にそれを広げた。そもそもが防寒着としての性能を持つマントは、冷えた岩の冷たさをさえぎるには十分な厚みがあった。

 一瞬だけリルルはためらったが、さらにニコルにうながされて――その上に、おしりを乗せた。



   ◇   ◇   ◇



「――なにを話しているのでしょう?」

「なんでもいいではありませんか……」


 林近くのしげみにかがんだ身を隠し、サフィーナは葉が茂った枝で自らを隠蔽カモフラージュしながら、エルフの魔法のオペラグラスを目に当てていた。その中では夜とは思えないほどの光量があふれ、肉眼ではとても届かないほどに視野が拓けて、横顔を見せるリルルとニコルの唇の動きまでがわかった。


「フィル、あなた、読唇術どくしんじゅつは使えますか?」

「無理ですよ……。それに、なにを話してようといいではないですか。これは趣味しゅみが悪い、悪趣味です」


 真剣にオペラグラスをのぞき、なんとか話の内容までわからないかと試行錯誤しこうさくご操作そうさをしているサフィーナの隣で、フィルフィナが心底うんざりした顔で全てに背中を向けていた。


「ねー、サフィーナお嬢様。なんであたしたちもここにり出されてるの?」

「しっ、クィル、だまってなさい」

「スィルもさっきから半目で黙りこくっていてこわいんだけど……ふあああ」


 サフィーナの少し後方では、あくびをしているクィルと、相変わらずの瞬きすらしない半目のスィルが座り込んでいた。


「あたしもう眠いんだけど。ねぇスィル、黙ってないでなんとかいいなさ…………ああ、そっか、目を開けたまま寝てるんだ」


 うなずくようにこくり、とスィルの頭が前に倒れ、反動で元に戻る。まるで機械仕掛けの人形かなにかだった。


「サフィーナ、公爵令嬢ともいう方がみっともない。これではのぞきのようですよ」

「のぞきのよう、というのは認識違いですね。これは立派なのぞきです」


 じらいもなにもなく断じる言葉がくちびるからこぼれる。その目は微動びどうだにしなかった。


「私は、修業時代のニコルのお風呂を毎日のぞいていたのですよ? 今更いまさらどうということはありません」

「それは、自慢じまんできることではないですね……」

「ああもう、じれったい。何をしているのですか、早く押し倒してしまうのですよ、リルル!」

「……お嬢様に押し倒させるのですか?」

「あのニコルにリルルを押し倒す度胸なんてありません! 千年ってもこのままでしょう」

「それは理解しますが……」

「あっ、ニコルそんな、いけない!」


 オペラグラスから目を放さないサフィーナの声に、フィルフィナの耳がバネ仕掛けのように跳ねた。


「な、なんて大胆な! リルルの胸に手を突っ込むなんて!!」

「!!」


 拳銃を抜くのと同じ早さで取り出したオペラグラスを目に当てたフィルフィナが、神の領域の速度でその視界に二人の姿をとらえる。

 明るい視野の中では、体ひとつ分を空けて、手もつないでいないリルルとニコルが背中を見せてそこにいた。


「…………」


 オペラグラスから目を離したフィルフィナが手を震わせ、脂汗あぶらあせにじませながら横を見ると、サフィーナの勝ちほこった顔がそこにあった。


「にやり」

「……は、ハメましたね……」

「フィルったら素直じゃないのですね。気になるなら気になるといえばいいのに」

「くっ……」


 フィルフィナがオペラグラスをたたむ。唇をとがらせ、ほんのりと赤くで上がった顔を上に向けた。


「も、もう、どうでもいいのですよ、ニコル様とお嬢様がくっつこうが、今までのままであろうが。どちらもそれはそれで、幸福なことに変わりはありません。まったく、母もどうしてこんなかすようなことを――うん?」


 天を仰ぐフィルフィナのアメジストの瞳の中で、明るい金色こんじきに輝く満月が揺れた・・・


「は――あ、あ、ああ……!?」


 次には、まるでそれが黄金の泉であるかのように輝く表面が、錯覚さっかくとは思えないほどはっきりと、波紋を刻んだ・・・・・・


 声にならないさけびがフィルフィナののどの奥でれ――そして次の瞬間には、全ての事態を開始する号砲ごうほうが、夜の島全体に鳴り響いた。

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