「遭遇、ニコル」

 壁に埋め込まれた蛍光石がほのかな光のまゆかもし出す地下下水道を、リルル、フィルフィナ。シーファの三人組は静かに潜行せんこうしていた。

 汚物おぶつが混じった排水はいすいが、上から遠慮えんりょなく流されてくるその空間は、耐えがた悪臭あくしゅうに満ちている。


 ――はずだった。


「……においがしないな」


 不思議そうにシーファが首をめぐらせる。水にれていない脇道を歩く限りはくつも汚れないが、排水の臭いからはのがれられないはずだ。しかし、普通に息ができる。これは……。


「まあ、色々と便利な道具を持っていますから」


 戦闘用の黒ずくめの衣装いしょうに体を包んだフィルフィナがいう。ふくらんでいる髪も頭巾ずきんの中に全て収め、露出ろしゅつしているのは目と耳くらいのものだ。ただ、ヴォルテール邸の時とは違い、鎖帷子くさりかたびらは行動を阻害そがいするというので着てはいなかったが。


「それが、快傑令嬢リロットの力の根拠こんきょというわけか……」

「私、それを外したら本当にただの女の子よ」

「本当にただの女の子は、進んでこんな所に入り込もうとはしない。どこかに強さの自信があるから、そんな勇気が必要なことができる」

「そんなものなのかな……」

「お嬢様。ここに入るのは、そんなにじゃないようですね」


 細い通路を歩くのにも苦労していない、そんなリルルの足取りを見ながらフィルフィナがいう。


「私、地下下水道には結構入りれてるから。警備騎士の人たちをくのに便利だから、よく入るの」

「お前もなかなか面白いニンゲンだな」

「……気になっていたんですが、おうかがいしてもよろしいでしょうか、シーファ」

「なんだ」

「あの亜人奴隷市どれいいちで、あなたが奴隷商人につかまっていた――ウソですよね?」

「――根拠は?」

「あなたが奴隷商人に捕まるような人物とは思えません。わざと捕まって、潜入の手段にしていたのでしょう。いったい何の目的で?」

「そこまでさっしがついてるなら、予想もだいたいついているのだろう?」

「亜人奴隷市を壊滅かいめつさせるための捜査そうさをしていたんじゃないのですか?」

「ご明察めいさつだ」


 かしこい相手と話すのは喜びだ、というようにその口元に笑みが浮いていた。


「じゃあ、逆に予想のつかない質問をしてやろう……私の職業ショウバイ、なんだと思う」

「……探偵たんていさんではなさそうですね」

「新聞記者だ」


 リルルとフィルフィナが同時に数度、まばたいた。


「……反体制の、地下新聞の新聞記者……」

「名前のない新聞社だな。それを構成しているのはほとんどが亜人だ――物好きなニンゲンもいないことはないが。亜人が亜人奴隷市を壊滅させたいと思う、自然なことだな」

「……そうですね」

「カラクリを暴くために重要書類を手に入れようと、わざと捕まって潜入した。そしたらお前たちがやってきて、暴れて、奴隷市を力尽ちからづくでぶち壊してくれた――笑うしかなかったよ」

「……私たち、余計なことをしたかしら?」

「その後で重要書類を私たちの新聞社にとどけてくれなければ、家具に八つ当たりしていただろうな」

「……どうも」

「その書類から、亜人奴隷市の背後はいごにいたのがヴォルテール男爵だということがわかった。それで、あのメイリアに監視させていたわけだが……」

「そこに私が乗り込んでいって、メチャクチャにした……」

「言い訳になりますが、それもこれもみんな相棒あいぼうの暴走なのです。普段ふだんのわたしはもっと緻密ちみつな計画をるのです。作戦家失格だと思われるのは大変心外しんがいです」

「……うううう……」


 ちくちくちくちくと、心を四回ほど刺されたリルルは涙を流さずに泣くしかなかった。


「まあ、いいさ。私はあの時、他に捕まっていた連中を見捨てるつもりだった。奴隷市の壊滅を優先しなければならなかったからな。おかげで……」

「あのメイリアというハーピーの娘と、いい仲になっているようですね」

「………………いきなり核心を突くのはやめろ」


 シーファの目も口元にも感情のゆがみはない。――が、そのほおひたいに熱いくらいの熱が帯びられているのがわかった。


「お前たちが暴れてくれなければ、メイリアは普通に売られていって、今頃…………」


 言葉が途切れる。その沈黙ちんもくの間に痛ましさのようなものがあった。


「……お前たちには感謝しているさ。だから、対価たいかなしで協力する」

「対価は十分に得ているではないですか。お幸せに」

「……だから核心を突くのはやめろ」

「ふふふ」


 リルルは嬉しくなった。自分の無茶な思いつきであの亜人奴隷市をおそっていなければ、こんな結果にはなっていないのだ。

 魔の者にあやつられているニコルを今から救うのだという困難こんなんつらさも、一時いっとき、忘れられる――。



   ◇   ◇   ◇



 潜行は数時間に及んだ。細い足場を注意しながら歩き、時には水路をまたぎ、通路いっぱいに膨らんだ巨大なスライム――ゼラチナス・キューブと呼ばれる――を回避かいひ迂回うかいしていくのはとにかく時間を浪費ろうひした。


 太陽も空も見えなければ、時間を感じる感覚はまたたく間に後退していく。時間を計るすべ懐中時計かいちゅうどけいしかない。時折ときおり、その懐中時計をふところから出すたびにリルルの心はうずいた。


「――ニコル」


 金メッキの懐中時計がリルルの手の平の中にある。――ニコルがおくってくれたものだ。

 この懐中時計が命を救ってくれた時のことを思い出す。あの時は……。


「お嬢様、想いにふけっている時ではありませんよ」

「――わかってる、フィル」


 まぶたの裏に一瞬、様々な情景を投影し、その全てをしまい込むようにふたをパチンと閉じた。

 そういえば、これを受け取った礼をしていない……ニコルにちゃんと、伝えないといけない。

 ありがとう、と――。



   ◇   ◇   ◇



 大運河だいうんがの下を潜る謎の回廊かいろうを抜け、王都の西部に入る――入っていただろう・・・。この真上、地上の王都の景色がどうなっているかは想像はつかなかったが、目的地に近づいているというのは確からしかった。


「警戒をげんにしろ」


 先頭を行くシーファの声が落とされ、その歩みがにぶくなる。後衛こうえいに回ったフィルフィナが後方に注意を配り始める。


「……この角だ」


 シーファが壁に体を押しつけ、曲がり角の向こうをのぞいた。


「――いた」


 リルルもシーファに肩を並べるようにし、その向こうに目をやる――数十メルト離れた袋小路ふくろこうじ。そこに座り込んでいる一人の少年の姿が瞳に映った。

 遠目でもわかる、やわらかそうな明るい金色の髪――!


「……ニコル!」


 フィルフィナの手がリルルの肩にびた。今にも駆け出しそうなその体を力強く固定していた。


迂闊うかつに飛び出さないで下さい」

「でも、近づかなくては話は始まらないわ……! ここからながめているだけというわけには……!」

「天井、前方、足元――全てに気を配って近づくのです。油断ゆだんはなりませんよ」

「――うん」


 はやる気持ち、逸るしかない気持ちを飲み込んで、リルルは角を曲がった。視線は本能的にニコルに集中してしまう――それが罠を仕掛ける絶交の要素なのだと自分をしかりつつ、リルルはゆっくりと歩を進めた。シーファとフィルフィナもそれに続く。


「――――」


 ニコルが、ゆっくりと立ち上がった。体が正面を向き、仮面のような表情がリルルの方を見る。


「ニコル……!」


 目を開けて眠っているような感情のない顔に、一つだけ決定的な違和感いわかんがあった。

 リルルが愛してやまないニコルの瞳。だが、いつもの美しい青の色ではない――まるで血の色のきりいているような、毒々しさをかもし出す赤い色に染まっている!


「……まずいな」


 シーファがうめいた。ニコルの手が腰のサーベルのにかかり、その刃を抜き放った・・・・・・・・・のだ。


「昨日までの奴じゃないぞ……洗脳かあやかしの術かなんか知らんが、殺意が増してる。気をつけろ!」

「ニコル!」

「――思ったより早いご登場ねぇ?」


 フィルフィナの耳が動く。その目が鋭く細められた。


「……お前は!」


 サーベルのやいばを抜き、立ちふさがるニコルの背後に、まるで影から浮かび上がって実体化したかのように一人の女が現れた。

 絹糸きぬいとのように細く長く流れる金色の髪、紫に近い青みを帯びた肌、そしてなにより、リルルには見慣れた形のとがった耳――!


「ごきげんよう。初めましての方は、初めましてかしら――存在自体はそこのハイ・エルフに聞いてご存じだとは思うけれど、自己紹介がまだだったと思うから名乗らせていただくわ」


 ダークエルフの女がニコルの肩に手をかける――気安い雰囲気ふんいきを演出するかのように。


「私の名は、ティターニャ。まあ、すぐに覚えていられなくなると思うけれど、一応は挨拶あいさつをしておかなければ失礼というものだからね?」

「――あなたが、ニコルを連れ去ったダークエルフなのね! ニコルから離れなさい! そしてニコルを自由にして! さもないと!」

「さもないと、どうなるのかしら?」


 女――ティターニャの手がニコルの頬を包む。その細い体が、甲冑かっちゅう姿のニコルにからまるようにしなだれかかった。


「こうするのですよ!」


 フィルフィナが力強く踏み込む。いつの間にか手にしていた弓に矢をつがえたと思った瞬間、そのげんを弾いて音も追従ついじゅうできない速度の矢を放った。

 文字通りにくうつらぬいて飛ぶ矢はまばたく間もなく、女の眉間みけんに突き刺さり――、


「ふふふっ!」


 貫かれたティターニャの姿が、霧となって消え失せた。


「……幻影まぼろし!」

「いい矢を放ってくれるじゃない、西の森の王女! でも、この可愛い騎士様を射抜いぬくことはできないのでしょう? あなたたち正義の味方には、そんなことはできないからねぇ!」


 姿が消え失せても声は生身のように響き渡り、リルルたちの鼓膜こまくを震わせて心を侵食しんしょくする。


「さあ、私のいとしの愛しのあやつり人形さん。この有象無象うぞうむぞうどもをり裂きなさい――なんなら、その女どもを欲望のままに自由にしてもいいのよ……どんな痴態ちたいり広げられるのか、じっくり見ていてあげるから!」


 甲高かんだかく、てつき鋭い声に押されるようにして、ゆっくりとニコルが歩き出す――その手のサーベルを軽く横に構えた姿で。


「ニコル……!」


 リルルの本能が、黒い腕輪からレイピアを呼び出してその刃を抜き放たせた。その重さを手で実感した瞬間、ニコルと斬り結ぶことになるという意味が、心をなまりに変えていた。

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