「後書きと報告書」
夕日が西の空にその姿を沈め、夜の
「フィル、どこに行っていたの?」
「色々と調べ物を……」
足取りがふらついている。
「だ……大丈夫?」
疲れを見せる、ということをあまりしないフィルフィナの
「お嬢様……しばらく大人しくしていてくださいね……」
屋台で買ってきたとおぼしき食事をリルルの
ぱたん、と
「……だいぶ疲れているのかな?」
フィルフィナがコミケで同人誌を売っていたなんていう
「フィル、私がお風呂作る?」
「……お願いします……」
階段下のメイド部屋。リルルの部屋の真横にある、外をのぞく窓もない――物置同然の、フィルフィナの部屋だ。新入りのメイドが押しつけられる部屋だったが、自分以外にメイドがいなくなってもフィルフィナはかたくなにその部屋を使い続けていた。
別のいい部屋に移ればいいのに、と提案しても何度も首を横に振る。自分から何故その宝物を取り上げるのか、という勢いで反論された時もあった。
腕をまくったリルルが
「フィル、お風呂できたよ」
「ありがとうございます……」
風呂場の扉が軽い音を立てて閉まったのを見送って、リルルは額の汗を
「……フィル、どうしたのかな?」
◇ ◇ ◇
翌日、リルルは一日を大人しくするつもりで部屋の中にこもっていた。
フィルフィナは「出かけます」と
「大人しくしていろ」というのは、わたしがいいというまで動くな、ということだろうか――ほとんど会話を交わしていないが、フィルフィナは今回の事件の背後を調べているのだろう。そのフィルフィナの調査の結果を待つつもりで、リルルは今日一日を部屋で過ごそうと考えた。
フィルフィナに内緒で買い置きしているクッキーをぽりぽりとかじりながら、時にうつらうつらと
本の
「今……何時……」
時計を見る――時刻は午後の四時に差し掛かろうとしていた。三百
フィルフィナが帰っている気配はない。朝から出かけたっきり、一度も戻っていないのか。
「――あ」
後書きの頁には「記・快傑令嬢リロット同好会会長」とあった。本名を明かすことができないのでそんな表し方なのだろうが、コナスの文章に
長い後書きだった。この本を編集しようと思ったきっかけ、動機の説明からそれは始まっており、リルルの目がその文章をたどる。
「――――」
だらしなく寝そべっていた体を起こし、寝台に腰掛ける。
「――――あ…………」
はら、と、リルルの頬に涙が
『――確かに彼女は民衆に希望を与えている。王都のあらゆる場所で行われている不正、悪事、
しかし、それは決して、彼女にとってよいことではない。
彼女が活躍するような場所を作ってしまっている我々自身についても、もっと深く考え直す
それが、我々の
ぱた、と音を立てて本を閉じた。同時に、右の目からも涙が線を引く。
「――私、行かなくっちゃ」
この文章を
助けなければならない。
「行かなくっちゃ」
フィルフィナあての書き置きを短く記して、リルルは今の
鏡が、
水でできた壁を抜けるような感覚――それを体の全部で受けながら、リルルの身の全てが鏡の中に消えていった。
◇ ◇ ◇
フィルフィナは昨日と同じ、
変わらぬ通行量を見せて船が行き来する運河を
夕日はその姿の半分以上を西の
「『明日は雪のようですね』」
フィルフィナの背筋がはねた。気づかれずに背後を取られた、という、いつもではあり得ない事実に
「『そんなことないでしょう。雪ではなくて雨ですよ』」
「『では、赤い
「――来てくれましたね」
「これが私の仕事ですから」
昨日と同じ黒いフード、マント姿の男がベンチに座っていた。
「とはいえ、かなり
「では、残りの代金を」
二つの袋が交換される。
フィルフィナは分厚い手書きの
「――
「問題ないでしょう?」
「ないわけないでしょう。しっかりして下さい――百も多い」
「
「お
裸の札束が一つ、後ろ手に
「あなた、私を本当は信用していませんね?」
「……九十九の正しい情報の中に、たった一つの嘘を混ぜられても
「そんなことをしたら、あなたは私を地獄の底までも追ってくるでしょう。――他人を信用しないのが生き残る術だという信念はわかりますが、私にも
「失礼しました」
「もう日が落ちる。調書の確認を」
ページが進むにつれて、フィルフィナの表情から
「――最初から
「まあ、それは公式記録みたいなものですから、図書館でも調べられる情報です」
「――元は、ベクトラル『大公家』だったのですね……」
おかしな話だと思っていた。コナスが
いくら母親が元王女であったとしても、不自然過ぎる格違いの
「しかし、ヴォルテール家については公式から
「……もう、
「ええ……元はヴォルテール『大公家』だったわけです」
エルカリナ王家の血筋が
それが何故片方は伯爵家、もう片方は貴族としては最下位ともいえる男爵家にまで落とされているのか。
「ヴォルテール家がベクトラル家に
「仕掛けた方のヴォルテール家は責任を取らされて男爵家に格下げ――さすがに大公家を完全に
「……あのコナス様が王位を継ぐ可能性があるなどというのは、ハーベティの
「今月始めにあった、ゲルト侯爵を
フィルフィナは、あの人の良さそうな――人の良い顔をしたコナスの頭に、エルカリナ王位を
どう考えても王冠が浮いていた。
そして、その
「――問題は、その二つの大公家が
フィルフィナの
「……これは、事実なのですか?」
ヴォルテール男爵――と
「調査員二名の調査の結果ですが、報告は
「年齢は確か、もう四十に届くはずでしたよね……」
「はい。コナス・ヴィン・ベクトラル伯と同年代のはずです」
「では……この顔はいったいどういうことなのですか?」
「そこまではわかりませんでした」
男がベンチを立つ。西の空には
「その理由の調査は、いくら金を積まれてもお断りしますね。危険過ぎる」
「……わたしもそんな無茶をお願いはしません」
「ひとつ、
では、といい残して男は去って行った。
フィルフィナは立てない。
日が落ち、空が夜の闇色に染まりきった中で――黄金色の月がぎらりと鋭く光る。
その冷たい光がフィルフィナに
フィルフィナがそれ以上めくれない
そこには、どう見ても十代前半としか見えない、幼いともいっていい少年の似顔絵が
◇ ◇ ◇
「……お嬢様にお知らせしないと」
フォーチュネット
「――お嬢様!」
月明かりが差し込んでその姿が浮かび上がっているテーブルの上に、一通の書き置きが残されていた。それを手にしたフィルフィナの心臓が一瞬、止まった。
書き置きには『ヴォルテール家を調べに、フェーゲットの森に行ってきます』と記されていた。
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