第05話「深い森の館、そこで」

「調査の時間」

 夕暮れの気配が西の空を染めようとしていた。


 河川敷かせんじきの公園。

 北から南に流れる大運河をながめる、メイド姿のフィルフィナ。ベンチに座り、手に抱えた大きな袋から麦菓子むぎがしを手に取ってポリポリと食べている。


 アメジスト色の瞳に、左から右に流れる船が何隻も映っていた。まだ風がいくらか冷たい。四月もなかば――本格的な春の陽気の到来とうらいは、もう一息か……。


 フィルフィナの座るベンチの後ろ、背中合わせに置かれているもう一つのベンチ。

 気配も感じさせずに現れた黒いフード、マント姿の男が風に吹かれるような足取りで近づいて来た、そのまま、全く何気なにげない自然な動作で座る。


 フィルフィナのほぼ真後ろに腰を下ろした男は、慎重しんちょうに周囲を見渡してから、口を開いた。


「『美味しそうですね』」


 フィルフィナの髪の中で、ひくん、と長い耳が動いた。


「『食べ飽きたから、残りは差し上げます』」

「『それはどうも、ありがとう』」


 背後も見ずにフィルフィナは麦菓子の袋を後ろに回す。同じく振り返らずにそれを受け取った男が、早速袋の中に手を突っ込んだ。

 取り出されたのは茶色の麦菓子ではなく――一枚の折りたたまれた紙片だ。男の手がそれを開く。


「……これは、なかなかの難問なんもんですね……」

「明日、この時間までに調査できますか?」

「少々値段が張ってよろしいのなら」

「おいくら?」

「四百」


 フィルフィナはうなずかなかった。その代わり、もう一つの袋の中に手を突っ込み、中に入っているものの整理をする。

 中から何束なんたばかの札束さつたばが抜かれ、袋が後ろに手渡された。


「半金で二百。残りは調書ちょうしょと引き替えに」


 それを受け取った男が袋を開いて中身をちらと確認し、口を閉めた。


「わかりました。明日、この時間に」


 では、と小さく言葉を残して男はその場を去った。

 あとには、運河を眺め続けるフィルフィナの小さな背中だけが残された。


「……四百ですか……」


 今まで何度も情報収集を依頼いらいしてきた相手だが、今までにない高いがくの要求にフィルフィナはそのまゆかげらせた。それほどの相手なのか。


「これは……本当に、首までかるのを覚悟かくごしておかないといけない事案じあんのようですね……」



   ◇   ◇   ◇



「ベクトラル伯がおそわれただとっ!?」


 事務室の片隅かたすみ――大勢の事務員があわただしく書類と向き合ってる部屋の一角で、事務服姿のログトが大声を上げた。

 部屋中に響いていた算盤ソロバンを弾く音が突然にやむ。周囲の事務員たちが一斉にログトの方に目を向けた。


「と、取りあえず、来い」


 社長室――いや、区切くぎりの一つもないから社長席、というべきか。椅子いすから弾かれたように立ち上がったログトは、体臭でよどんだ事務室を出口に向かって小走りに歩く。リルルもその背中に続いた。


「お嬢様、ごきげんよう」

「ご苦労様です」


 フォーチュネット水産会社の社員たちが、社長令嬢たるリルルに頭を下げる。その度にリルルは愛らしい笑顔でひとつひとつ会釈えしゃくした。


「どういうことなんだ」


 夕日の赤さに染まり始めている社屋しゃおくの屋上。そこにリルルを連れ出し、小さな両肩をつかんだログトが上ずった声で問いただし始める。

 リルルが語ったのは、昼間の埋め立て地での事件――自分とコナスが襲われ、快傑令嬢に助けられたという一件だった。


「まさか……もう終わったことだと思っていたが……」


 事情を聞かされたログトの目が泳いでいる。


「お父様、知っていることがおありなの?」

「ああ……しかし、何故、今頃」


 父がめったに見せない困惑こんわくした表情。どんな困難にぶち当たっても、それを正面から突破する父の力強さが、今日に限ってはうすい。


「お前との結婚話が動いたからか? ……いや、そんなことはないな。以前の四件に際しても動きはなかった。だから安心していたのに……」

「お父様、ひょっとして……」

「ヴォルテール家という言葉は出なかったか」


 聞きたいことを先んじられ、リルルは目を見張った。


「ハーベティ様がその名前を出していたわ。どういう家なの? 私は聞いたことがなくて」

「ヴォルテール男爵家。いわく付きの家だ。もうほとんど名前だけの男爵家だ。……私も一通り調べはしたが、特に危ない兆候ちょうこうも見られなかったのでそのままにしておいた。いや、まだあの家と決まったわけじゃないが……」


 貴族社会にうといリルルに、過去の家同士の因縁いんねんなどわかるはずもない。しかし、仮にも伯爵位を持つログトはちがうようだ。ログトの口の方からヴォルテール家の名前が出たことに、リルルはこの案件あんけん怪奇かいきさを思い知らされた。


「……これは、来週のお披露目ひろめも延期だな。まだ計画も進めていなくてよかった。あのハーベティとも今後を相談しなければ……」

「しばらく話は進まないの?」

「事態がはっきりするまではな……ああ、今度は上手うまくいくと思ったのに! あのエルズナーのせがれの一件がああなったと思ったら、今度はこんな形か!」

「お父様、そのヴォルテール家についてなんだけど……」

「昔、ベクトラルの家にちょっかいを出していた家だ。ワシの若いころだったので詳しいことは覚えていない。ややこしい家だ、ということは聞かされていたが……くそっ!」


 いらだちを振りまくログトの様子に、それ以上のことは聞き出せないとリルルは判断し、小さく挨拶あいさつの言葉を残してその場をした。


 エルカリナの各地にある水産加工工場、その工場に水揚みずあげされた魚を加工する算段さんだんを書類で司令し続ける、フォーチュネット家が持つ企業群きぎょうぐんの頭脳ともいえる本社屋。魚の臭いはしなかったが、慌ただしく出入りする人の熱気が体臭となってただよう場所だ。


 顔馴染かおなじみにもなった社員たちとすれ違う度に一礼をし、リルルは待たせている辻馬車つじばしゃに向かった。――警戒はしている。異変があればすぐに黒い腕輪の力を発動できるように自分に緊張感きんちょうかんを張りめさせていた。


 なるべく大通りだけを行くように御者ぎょしゃに指示をし、馬車の上や下に誰かがひそんだりなにかが仕掛けられていないかを確認して、リルルは馬車に乗り込んだ。事態が落ち着くまではこの緊張が続くのだろうか。


 あの同好会の三人にも決して油断ゆだんはできないのだが、コナスを殺すのだけが目的であれば、いつでも実行することができたはずだ。可能性は限りなく低い――しかし、その思い込みが命取りになるのかも知れない。


「誰も信用できないのは、つらいなぁ……」


 今、こうして御者に命を預けている時も気が抜けないのだ。それがリルルの骨にまで疲労を感じさせた。



   ◇   ◇   ◇



「リロットちゃん、無事だったのか!」


 葬儀屋そうぎやの倉庫には、埋め立て地から戻った『快傑令嬢リロット同好会』の会員たち三人がそろっていた。いきなりふらっと現れたリルルの姿に三人が色めきだって席を立つ。


「心配していたでござるよ。伯爵が腕を切られたっていうのを聞いたでござる」

「伯爵の怪我は大丈夫なりか?」


 探し物屋と本屋の声も重なる。三人とロクに顔も合わせないままあの埋め立て地を出たのだから仕方のないところだろう。

 三人の心から案じてくれる様子にリルルは嬉しいものを感じながらも、最低限の脱出路を確保するために席に座れない自分の用心さをうらめしく思った。


「ええ、幸い、神経には至っていなかったようで、後遺症こういしょうの心配もなく…………」

「それは不幸中の幸いでござるな」

「我がはいらは伯爵の見舞みまいに行きたいなりが、リロット殿、伯爵がどこにいるか知ってるなりか?」

「大事を取って、しばらくは誰にも会わないと……誰にねらわれたかもまだ、わかっていませんから」


 その場で取りつくろった嘘にしては、上手いことをいえたと思う。


「しかし、命を狙われるなんていうのは尋常じんじょうなこっちゃねぇぜ」

商売仇しょうばいがたきでござるかな」

「そういえば、伯爵はいったいどんな商売をされてる方なりか? 我が輩は教えてもらってないなりね」

「ここの全員が知らないよ――リロットちゃんもそうだろう?」

「え、ええ」

「しかし、大波乱だいはらんのコミケでござったな――偽快傑令嬢が十二人出て来て、それをやっつける本物の快傑令嬢も現れるとか!」

「ああ……俺たちもさすがに本物を見たのは初めてだ! もう興奮しっぱなしだったぜ!」

「伯爵なんか、快傑令嬢と一緒に空を飛んでいたなりね! うらやましい限りなり!」

「ああ、俺も腕をられてもいいからあんな思いしてみたかった!」

「あの――私、そろそろ失礼いたします」


 別の方向に盛り上がってきた一同にリルルはおずおずと申し出る。


「ああ――リロットちゃん、もう帰っちゃうんだ。今からコミケの打ち上げ――じゃないか、残念会で飲むんだけど、リロットちゃんも飲まない?」

「いえ、私は……」

「リロット殿、そろそろ外が暗くなるなり。駅まで送るなりか?」

「まだ外もいくらか明るいので、一人で戻れます。みなさま、ごきげんよう」


 リルルは深々と頭を下げ、同好会の部室と化している葬儀屋の倉庫を出て行った。


「葬儀屋、余計なことでござるよ、彼女が帰ってしまったでござる」

「馬鹿なりねー。男三人で若い娘さんに飲ませてっ払わせようとか、破廉恥はれんち意図いとかんぐられても反論不可なりよ。少なくとも紳士しんしのやることではないなりな」

「……それもそうか。痛くもない腹を探られるのはゴメンだな」

「今日はこの三人で飲むでござるよ。ワインでも開けるでこざるか」

「あて、ないぞ」

「酒があれば十分なりね」


 打ち上げ用に買ってきたワインのコルクを外す。それぞれのグラスに赤い液体をそそいだ。


乾杯かんぱい、どうする」

「おのおの勝手なことに乾杯すればいいでござる」

「そうなりな――葬儀屋、そっちから頼むなりよ」

「ああ……」


 三人の手がグラスを持つ。それが高々とかかげられる。


「んでは、伯爵の回復を祈って」

拙者せっしゃらの快傑令嬢にささげて」

「我が輩たちの同好会の前途に――」

乾杯ブロゼータ


 カチン、とグラスが打ち合わされて、三人はめいめいにそれを飲み干した。


「しっかし、伯爵の商売ってなんなんだろうな」

「葬儀屋、その話はさっきしたでござろうが」

「だから実際なにをしているかってことだよ。金にこまってる様子はないからな……よっぽど実家が裕福ゆうふくなのかな。羨ましい限りだぜ」

「実家の稼業かぎょうが有名過ぎて、いうのをためらってる感じがするなりね」

「葬儀屋が伯爵をこの世界に引きずり込んだのでござろう?」

「っていうか……五ヶ月くらい前か、図書館で俺が、新聞の快傑令嬢の予想図を描き写していたらいきなり声をかけてきて、『君、快傑令嬢に興味があるのかい?』だぜ。変なおっさんが声をかけてきたとビビったよ」

「それでこの集まりに引っ張り込んだなりか」

「向こうから強引に首を突っ込んで来たんだよ。――今じゃすっかり馴染なじんじまったけれどな。最初はやるこということみ合わなくて……」

「葬儀屋が伯爵の頭をよく叩いていたでござるな」

「なにかとあの頭、叩きやすい位置にあるわ叩きやすい形してるわ、叩いたらいい音が鳴るわで……いい頭なんだよ、もちろんその度に謝ったけどさあ、『いいよいいよ』って、全然気にしないんだよなぁ」

「人はいいのに、友達がいない人なりな」

「リロットちゃんとの関係も謎でござるな」

「……もしかしたら、あのリロットちゃんが、本物の快傑令嬢リロットとか」


 葬儀屋のぽろっとこぼした言葉に一瞬、場の空気が停止した。


「――んなーこと、ないな!」

「そうでござるよ。うちのリロットちゃんはちょっとぽややんとした普通の女の子でござる」

「うちの伯爵が本物の伯爵とかなりか?」


 またも刹那せつな、空気がこおった。


「――それは、快傑令嬢以上にあり得ない!」

「そうでござるな! 葬儀屋にいつもポカりと叩かれているのにニコニコしている伯爵とか、あり得ないでござるな!」

「本屋、変なこというなよな! 一瞬、に受けちまったじゃねぇか!」

「あははははは!」

「あははははははは!」


 全員で一通り笑い――。

 そして、一度に沈んだ。


「――やっぱり、伯爵がいないとなんか、さびしいよな……」

「なんだかんだでここに馴染んだ人でござるからなぁ」

「まあ、たまにはしんみり飲むのもいいことなり」


 三人はそこからすっかり無口になって、互いに空になったグラスに酒を注ぎ合った。

 飲む量の割りには――今日はいまいち、酔えそうにもなかった。

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