プロローグ

「恋文は月夜の闇にてつづられる」

 静寂せいじゃくが横たわる小さな部屋の中、ペンが紙を叩き、滑る軽快な音が律動的リズミカルに響いていた。

 街の全てがもうほとんど寝静まろうという夜半頃。

 机と寝台ベッド、小さな棚があれば空間の全てが埋まってしまいそうな狭い部屋で、一人の少年が机に向かい、真摯しんしな面持ちで一心不乱に手紙を書いている。


『――さきに記しましたとおり、この度、ようやく公爵閣下のお許しをたまわり、王都にて警備騎士の任に着くことが決定いたしました。


 二年。


 貴女あなたに会えなかった二年間、とても寂しいおもいをさせたと存じます。

 寂しくさせたことを申し訳なく思う反面、誤解を招く書き方かも知れませんが、貴女が寂しい想いをしていることを――嬉しく思います。


 寂しく想ってもらわなければ、僕も寂しい。

 寂しくないということは、貴女にとって僕は、必要ないということですから――』


 青白い光を灯し続けるランプの下、少年は紙の上に走らせ続けていたペンを置いて、ふう、と息を吐いた。

 壁の時計を見る。針は間もなく、午後十一時を指そうとしている。そろそろ眠らなければ。

 肘をかけられるほどに近い窓から、外の景色に視線を投げかける。


 そこから見えるのは少し離れた公爵の館。その向こうにもう馴染みとなった街並みが横たわる。

 ここから眺めるのもそう機会のない景色。明日から荷造りをしなければならない。荷物はさほどないが。

 机の上に伏せている葉書ハガキ大の写真立てに手を伸ばし、立たせる。


 透明の板に挟まれた一枚の写真。

 その中に、水色のドレスを着た一人の少女が座っていた。


 背の高い椅子に包まれるように座る十六歳の少女。


 ほんの微かに波がかかり、背中まで伸びる長さの美しい銀色の髪はわずかに青い色を帯びている。大きな目におさまった鮮やかなアイスブルーの瞳が、どこかいたずらげな光をたたえて少年を見返している。


 静かに優しい微笑みを投げかけてくれるその少女を見つめ、少年は心を空転させた。

 わずかに開いている窓から風が吹き込んで来て、少年の明るい金色の髪を揺らす。年頃にしてはやや幼めの、どこか少女の面影さえ宿す顔が透明の板に半分反射されていた。


 それだけは確かに少年の気配をかもす、まっすぐな眼差し。晴れた日の湖面を思わせる青い瞳。

 写真の中の少女を見つめ、二度三度瞬きをして――その手が、再びペンを取った。


『もう両日のうちに、この地を離れる日取りがわかると思います。

 やっと、貴女に会える。

 会いたかった。貴女の顔を見、言葉を交わし、そして――。


 この手紙を貴女が受け取った時、僕はもう、王都に向かって旅立っているかも知れません。貴女に会える時を楽しみにしています。

 そして、一日も早く。

 あの日の、貴女との約束を果たせるように』

「――約束…………」


 あの日の、少女との約束。

 そうだ。自分はその約束を守るためにがんばってきたのだ。

 希望はある。小さくともこの手と胸の中にある。目の前は決して暗くない。


 進もう。


『親愛なる、リルル・ヴィン・フォーチュネット様へ。

 ニコル・アーダディスより。

 ――心からの愛を込めて

 エルカリナ暦四五三年 三月三十一日』


 少年はペンを置いた。文面を三度も読み返し、それを折りたたんで封筒の中に入れる。入念に封を確かめ、それを机の上に置いた。明日、まだ朝が明けきらぬうちに郵便局に持って行こう。四日もあれば手紙は王都に、彼女の元に届く。


 もう、寝なければ。しかし、その前に――。


「――リルル」


 少年――ニコルは、窓から遠く天を仰いだ。


 晴れきった北の空に細く鋭い三日月が、自分の髪と同じ金の色に輝いている。今頃彼女はあの月を仰いでいるだろうか。いや、ねぼすけな彼女のことだ。きっと今頃は、ベッドの中ですやすやと眠っているに違いない。


 窓を閉める。カーテンを閉じ、ランプのふたを被せた。ジジ、と音を立てランプの中で魔鉱石の青白い光が震えるように瞬く。数分もしない内に、中の酸素を使い果たして消えるだろう。


「リルル――おやすみなさい」


 写真立ての中で微笑んでいる少女にニコルは小さく口づけをし、それを伏せて布団に入った。

 少年が寝息を立て始めたのを確かめるようにして、ランプの灯りが消え失せる。

 部屋が闇に閉ざされた瞬間、時計が示していた時間。


 午後、十一時、三十五分――。

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