「温かさ、染みて」

 それは身なりの整った、まだ幼い少女だった。

 歳のころは五歳……六歳くらいか……人間ならば、そろそろ自分の考えを口に出して主張できるようになる、そんな年頃の子ども。


 外行きの青いドレスに、濃い緑色の重そうなケープを羽織っている。少し波打った、青みがかった銀色の髪、アイスブルーの色をたたえた大きな瞳が強く印象に残る。


 そんな少女が、数歩先まで近寄ってこちらを見下ろしてきていた。自らも弱くない雨に頭を打たれているというのに、それにかまう素振そぶりを見せない。頬を石畳いしだたみに張り付け、目を開くのだけが精一杯の自分をだまって見下ろしていた。


 きっと裕福ゆうふくな家の娘なのだろう。ここは貧民街ひんみんがいだ。まだ昼間とはいえ、真っ黒な雨雲に陽の光も半分以上さえぎられたこの界隈かいわいが安全なはずがない。ここにだまって倒れているだけで、何人かの強盗を目の当たりにしているくらいなのだから。


 自分フィルフィナが無事でいられるのは、もうがすものが何もないからであったに過ぎない。


「お嬢ちゃま! いけません!」


 お付きの執事しつじかなにかだろうか、傘を差した初老の紳士があわてて駆け寄ってきた。雨から少女を守るべく傘をかかげる――いや、守ろうとしているのは、目の前で行き倒れている亜人からだろう。その顔におびえと嫌悪けんおの色がありありとあった。


「そのものはエルフではないですか! 耳でわかります、エルフに近づいてはいけません! エルフに近づく者にはわざわいが降りかかると昔から申します!」


 ……なにが禍いだ、このニンゲンが。

 禍いをもたらしているのはお前たちだ。エルフは手を出されなければなにもしない。そういう温厚な民の集まりなのだ。


「この間も、反抗的なエルフを平定しようとした王弟おうてい殿下の軍勢の大半が戦死いたしました。王弟殿下も戦死しあそばされて、国葬こくそうがあったところではないですか!」


 王弟殿下? そんなえらいのが前線に出ていたのか。

 となると、最初に眉間みけんに食らわしたのがそいつだったのかも知れないな。

 あの混乱のしようは、尋常じんじょうではなかった……。


 ……ははは、王の弟を殺した張本人が、王都で死にかけているのか。どうせだったら、王本人を殺したかったな。


「リルル様、早く離れるのです!」

「でも、この子、死にかけてるわ……」


 子?

 馬鹿にするな、ニンゲンの娘が。

 お前の十倍以上の年齢なのだぞ、こちらは。


「このまま死ぬに任せていればいいのです。早く、早く……」

「でも……」


 執事が肩にかける手に逆らって、その幼い娘はこちらをのぞき込もうとしている。

 エルフが珍しいのか、その目はこちらに釘付けになって離れない。不安げな顔。心配げな表情。


 同情しているのか、死にかけているこの身に。

 ニンゲンに同情されるだと?

 屈辱くつじょくだ。ニンゲンに恐れられても、同情されるいわれどない!


 こんな目にっているのはそもそもお前たちのせいなのだ。一言いってやらねばならない。

 喋れるかどうかはわからないが……黙ってはいられなかった。

 その言葉を発したために死んでも、悔いはない。


 だから、声を振り絞って、本当の本当に振り絞って、いっていた。


「……たす、けて……」


 ……なに?


「……た……た、たす……けて…………」


 ……自分は、なにをいっている?

 エルフの戦士が、由緒ある王族の一人、王位継承権第一位の自分が、ニンゲンに助けをうだと?

 ……おかしい、なにかの間違いだ! 自分はおかしくなっている!


「あなた……」

「お嬢ちゃま!」


 執事が無理矢理に娘の肩を抱く。


「こんなところでグズグズしていられないのです! 貧民街に寄付をしたとしても、住民の全部がそれを知って恩に思ってくれるわけではないのです――さあ、お早く!」

「…………」


 執事がほとんど連れ去るように少女をうながす、心残りを示すように視線を向けながら、少女は執事と共にこの場を離れて行く。


 残ったのは、先ほどと全く同じように、雨の音だけだった。


「……はは、はは……」


 息だけが笑いになる。

 ニンゲンに助けを乞うなどと……自分は本当にどうかしているようだ。

 しかも、あんな小娘に。


 ……このままなら、眠るように死ねるな。

 戦いの中で斬り死にするのも華々はなばなしかろうが、その後死体がどう扱われるかを考えるとあまり望ましくない。きっと目にも当てられない扱いを受けることだろう。死んだ後とはいえ、屈辱だ。

 どこの誰とも知られず、ゴミと一緒に捨てられる方がまだ、尊厳そんげんを損なわれないか?


 どちらも、大した違いはないか……。まともにほうむられないことには違いはない。


 まあ、いい。

 どこの誰ともわかられることなく、溶けるように死んでしまえば、王弟殿下とやらを殺した極悪人は永遠に生き続けることになる。


 永遠に探し続けるがいい。


 ……視界が薄れてきた。

 世界から色がなくなっていく。輪郭りんかくもぼやけていく。

 じきに、なにも見えなくなるのだろう。その時がどういう時なのかは、わかる。


 ――死ぬ。

 今まで明確であったつもりでいて、実は曖昧あいまいだったその事実が――肌にぴたり、と密着するように押し寄せてきた。

 背筋が、奥歯の根が震え出す。怖気おぞけに心が粟立あわだつ。


「……うっ……」


 目の裏が、熱くなった。そこだけに熱が宿る感触がまるで焼けるようだった。

 自分の中にまだ、そんな熱さが残っていたのかと思えるほどの熱さだった。

 雨が混じっても冷たくならない涙が、はらはらと頬を流れ落ちていく。


「う……うう、ううう、ううっ……!


 ……死にたくない。

 こんなところで死にたくない。死にたくない!

 こんなに冷たくなったまま、こんなにさみしく、誰にも看取みとられることなく死にたくない!


 誰か……誰か、側にいてほしい。

 一人で死にたくない。

 誰か……誰でもいい! 自分の側に、ここに、いて……いて欲しい……。


 せめて、死ぬ時くらい、誰かに……!


「……あなた!」


 声が、頭の上から降りかかった。


 聞き覚えのある声――今さっき……さっき? 

 あれからどれくらいの時間が経った? 時間の経過の感覚も半分、わからない。

 何分か、何十分か、何時間か、わからない。


 ただ、はっきりとわかっているのは、ただひとつ。


「あなた……しっかりして!」


 世界に、輪郭が戻った。次には色も。


「だいじょうぶ……?」


 ――さっきの少女だ。

 何故ここにいるのだろう。初老の執事にいざなわれてこの場を離れたはずだ。

 何故……。


「立てる?」

「う……う、うう……」


 自分より頭一つ、いや、一つ半は背の低い少女に脇から支えられる。ケープが濡れようが泥で汚れようが少女は少しも気にしている様子はない。確かな支えが脇から入ってきた。


 ――少し苦労してだが、立てた。体重のほとんどを少女に支えられて、ではあるが。

 もう、何日も固形物を口にしていないにしては、よく動けた。


「あの馬車まで、歩くの」

「う……う、う……」


 ――温かさが、傍らにあった。

 少女の体温が、濡れきり冷え切った体に染み通ってくる。体が、心が溶けそうな気がする。

 その温かさを感じながらなら、今、ここで死んでもいいとさえ思える。


 不思議だ、自分の心の動きが、わからない。

 側にいるのは、ニンゲンだ。同胞ではない。

 このニンゲンの仲間に、自分はこんな目にわされているというのに。


 どうして……。


 一歩、一歩、前に進む。一頭立ての馬車が見える。扉が開いて、青白いランプの光が車内を照らしていた。――そんな色の光でも、今は暖かく見える。


「お嬢さん! そんな汚いのを乗せないでくれますか! 馬車が汚れるで――」


 御者ぎょしゃが抗議の声を上げるが、少女が差し出した紙幣の枚数の前に黙った。


 簡素な作りの、無人の車内だった。座席にはクッションさえついていない。きっと揺れた時には面白いことになるだろう――そんなことを考える余裕まで出て来始めている。


「出して」


 扉が閉まったのを確かめ、無言で御者は馬にムチを入れた。馬車がゆっくりと走り出す。


「ずぶ濡れだね、拭いてあげる。着替えも持ってきたから。服も脱いで」


 抵抗もできない。着せ替え人形のように衣服――衣服だったものを剥がされ、やわらかい布で髪や肌をこすられる。気持ちいい。


 肌が乾くなど、いつぶりのことだろうか。完全ではないが汚れもかなり拭われる。


 下着も剥がされて、清潔なものと換えられる。抵抗もできないし、抵抗する意味もない。汚れるだけ汚れきった前の下着は、そのまま捨てて欲しかった。


「こんなものしか着替えがないの。私の服は小さいから着られないし」


 ――メイド服だった。


 エルフの里にはそんなものはなかったが、意味は知っている。下働きの女が着る服だ。


「……いやだ」

「着るの。風邪を引いちゃうわ」

「……いやだ。こんなものを着るのは……ほこりが許さない」

「命と、どっちが大事?」


 少女が顔をのぞき込んでくる。近い。狭い車内なのを割り引いても近い。

 間に拳が入るか入らないか、それくらいの間しかない。


「誇りと命、どっちが大事なの?」

「…………」

「着て」


 勝手にしろ、と無抵抗になる。が、それは服従ふくじゅうも同じだった。内心で毒づくことで、薄っぺらい矜持プライドを取りつくろっているだけの話だった。


 少女から目をらすのが、精一杯の抵抗だった。

 エルフの王女の自分が、下働きの女の格好など……。


 今までつけていたボロ切れに着替え直してやろうか。

 そんなことを考えたが……乾いた服の着心地には、もう、魂が勝てなかった。


「お白湯さゆ、持ってきたの」


 大きなポットを少女が掲げる。くちばしのように開いた口から湯気が立ち上っていた。

 ごくり、と喉が鳴る。水ならもう飽きるほど口にしていたが、湯気が立ち上るその温かさは甘露かんろそのものに思えた。


 あの温かい湯を喉に、食道に、胃に流し込めたら、本当にもう、死んでもいい。


「……ほしい」


 心の壁が突き崩される。あの甘い湯を口にしたい。

 ほしい。


「ほしい……くれ…………」

「うんっ、どうぞ」


 微笑んだ少女が差し出したカップを手にする。――熱い。

 冷え切った手の平が燃え上がるのではないかという熱を感じる。実際はそんな熱量ではないだろうに、温かいものにえきっていた今は、そうとしか感じられない。


 熱い。心が火傷しそうだ。

 そのカップの温かさを手の平でもてあそんでいたかったが、体を中から温めたいという欲求には勝てるはずがなかった。カップに口をつけて、一気に傾ける。


「ぶはっ!」


 思ったほどにはのどが動いてくれず、気管に入った分を吐き出してしまった。口に含んだ分の半分も胃に入っていかない。


「ぶはっ……ぶはっ、はっ、はぁっ……!」


 激しくき込む。


「どうしたの? 熱かった? 火傷やけどした? 大丈夫?」

「た……大したことない……」


 少女が触ろうとしてきた手を払い、カップの残りを飲み干す。大した量は残っていなかった。物足りなさだけが募る。


「……もっと、くれ」

「うんっ。まだいっぱいあるからね」


 今度は、一口一口を確かめるようにゆっくりと飲む。

 甘い。ただの水を熱しただけ、そんな無味のはずなのに、甘い。

 温かさが喉から胃に滑り込み、体に熱を宿らせる。細胞の一つ一つが生き返るような気がする。かじかみ切っていた足の指先にも感覚が戻ってきた。


 白湯を飲みながら、無言で泣く。布でぬぐわれたはずの頬がまた濡れる。

 この少女に涙を見せるのは恥ずかしい事だと、一瞬思ったが――もう、いい。

 かまうものか。


「だいじょうぷ……?」

「大丈夫だ……」


 この馬車はいったいどこに向かっているのか。知りたいとも思わない自分が不思議だった。

 ――きっと、このまま処刑場しょけいじょうに向かっていてもいいのだと思っていたのかも。

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