「十年前――リルルとフィルフィナの出会い」
「雨降りしきる王都、燃える里」
そのエルフの少女は、暗い街角に完全に溶け込むような
いったい、いつからそんな
そんなことを何度も、何度も繰り返して、今はもう
思考する力、気力がもう、ない。
考えるのをやめた、考えることをしなくなった肉の
食べられるだけ牛や豚、
「――――――――」
冷え切って紫色に染まった
うつ伏せになり、いい加減に石畳の肌触りも味も知り
雨音だけが響き続ける。
逆に、既に目立たなくなっているというのが幸いしていたのかも知れない。
そうでなければ、もう動けなくなっている少女に
――何故、エルフの自分がこんなところで、こんな格好になっているのだろうか。
ここは人間の街だ。嫌いな人間がうようよしている場所だ。
普段なら、よほどの用がない限りは、行け、といわれても拒絶したくなるところなのだ。
そんな場所で、自分は動けなくなっている。汚れた街の汚れの一つになっている。
「わたし、は……」
薄れかけた感覚、意識までもが遠くなりかけ、視界も霞んでいる。全ての力が遠くなっている。
最後の思考力を振り絞って、少女は、自分の名前を思い出した。
「わらわ、は……」
――フィルフィナ。
それが自分の名前だ。
その名は、エルフの言葉で、
どういう意味だったか……思い出せなくなっている……。
この名前は自分の誇りでもあるのに、そんなことさえもう、考えられなくなっている……。
どうして、いつから、こんなところで、こんなことになっているのか。
自分を自分につなぎ止める最後の抵抗のように、少女は残された最後の最後の力を振り絞って、それを思い返していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは、一通の
エルカリナ王国からの書簡。いや、書簡と表現するのは
その文は、矢にくくりつけられてなんの
エルフの秘薬の全てを引き渡せ。
要求を
それを読んだ里の女王――母――は絶句していた。
なんと馬鹿げた文面であろうことか。
まだ頭を下げて
だが、これはただの脅しではないか。
こんなものに従うのは、それは自分たちが力に屈して軍門に降ったという意味以外のなにものでもなくなる。エルフのような
自分たちの領内にこの里があるから、お前たちは自分たちが支配者であると思い込んでいるかも知れないが、私たちの民は数千年も昔からここに里を作っているのだ。
ここは、お前たちの支配地ではない。命令されるいわれは、ない。
応じるはずがない。
ということは、文面の通りなら来るであろう襲撃に備えて準備をするだけだ。結局戦いになるのだから、相手に防御を固めさせるだけ、この文を送ったことは損なだけなのだ。最初から軍事力に訴えるのであれば、準備がないところを襲うべきだろう。
その馬鹿さ加減に心底呆れていたが、馬鹿でいてくれているのはありがたかった。準備ができる。
急いで進めた防御の準備ができあがるかできあがらないかという頃合いで、エルカリナ王国の軍勢が押し寄せてきた。
その軍勢の規模を偵察した
――里の防衛は不可能。
この拠点を放棄し、撤退する。
建物を守るな、ひとを守れ。一人として殺されてはならない。
それが基本の交戦規定だった。
里の建物は全て丸太小屋だ。王族が住まう宮殿も、そんな丸太小屋をつないだものに過ぎない。木によって、森によって支えられる文明。それがエルフの誇りでもあった。
他の森に移れば、里自体は容易に
が、人はそうではない。特にエルフはただでも
一人が死ぬだけで、それは何十軒の建物を焼かれた以上の損害となる。
だから、フィルフィナもそれに従って動いた。
第一に用意された緊急の脱出用の転移装置。そこに全員が逃げ込めるまでの時間を稼ぐ。フィルフィナは王族の一員として、防衛の最前線、先頭に立って戦った。
力なき弱き民を守る。王族の
そして、里で最も強き戦士である自分の
まず指揮官とおぼしき者の額に弓の第一射がぶち込まれて、襲撃部隊に大渦のような混乱が巻き起こった。
自分たちの倍の
背中にした里が燃えている。人間に燃やされたのではない。仲間たちが自ら火を放ったのだ。
最低限の必要なものを真っ先に脱出させ、運びきれないものは全て燃やし尽くす。人間たちに何一つ利用させはしない。ここに押し寄せたことを無意味にさせてやる。
その炎の熱を背中に受けながら、フィルフィナは弓の弦を弾きまくった。
指の皮が
もう残っているのはたった一人の小娘だ、囲んでやってしまえ――奮い立って飛び出してきた十人を、最後に残った手投げ弾一発で吹き飛ばす。人間の破片が飛び散る中、それを浴びてもフィルフィナはその場に立ち続けた。
最後の遠距離武器がなくなり、斬り死にを覚悟した瞬間――足に当たるものがあった。
それがフィルフィナの命を救ってくれた。
「これを見るがいい!」
フィルフィナが掲げて見せたものに、相手にもう抵抗の手段がなくなったといきりかけた軍勢は、全員が足を止めていた。
「これがなにかわかるか――エルフの魔法の爆弾だ。この森一帯を吹き飛ばすのに十分な威力がある。貴様等の一人も生き残らないぞ!」
七色に輝く、人の頭より少し大きいくらいの
「そこの! 狙撃しようとしている奴! この爆弾は手から離れた瞬間に起爆する! 自分たちが全滅してもいいのなら引き金を引くのだな!」
大木によじ上って長銃身の銃を構えていた
フィルフィナは心から子供達に感謝していた。片付け癖がちっとも身につかない子供達のおかげで、自分は軍勢をたった一人で足止めできている。
――仲間全員の避難が終わり、転移装置が設置されていた建物ごと燃え尽きてその効力を失った時、フィルフィナは脱出の手段を失っていた。
そこからだ。
すぐさま追っ手がかかった。
騎馬の
――成功はしたが、フィルフィナは行き場を失っていた。脱出用の転移装置の行き先は、こことは別の大陸なのだ。徒歩で向かうこともできず、潜伏先すらなくフィルフィナは大地を
兵士たちを何百人、あるいは千人に届くほどに傷つけた自分が手配されない、などという甘い考えを持つほどに幼くはない。どこか、少しでも安全な場所に身を隠さなければならない。
フィルフィナが潜伏場所として選んだのは、王都エルカリナだった。
衛星都市を加えれば人口三百万の大都市圏、中心都市のコア・エルカリナだけでも百六十万の人口を抱える巨大都市だ。亜人も多く住み着いていると聞いていた。エルフはほとんどいないだろうが、それでも人でないものが一切いないよりは百倍マシだった。
灯台もと暗し。
――相手の懐に忍び込めばかえって目が届かず、時間が稼げるだろう。その判断は外れてはいなかったが、甘かった。
戦闘の訓練を積み、一族の中でも
ただのうらぶれた街角、暗い貧民街にも厳然とした裏の
ひとかけらの食べ物さえ口にできず、水だけを
あちこちから追い出され続けた末にようやく見つけた、誰にも
顔も服も髪も体も
全身を
自分はこのまま、ゴミのように死ぬのだろうか。死んだ後はまさしくゴミと一緒になってどこかに捨てられるのだろう。
飢えの感触すらなくなり、あきらめの末に全ての運命を受け入れる心境を迎えて目を閉じようとした時――それは、やってきた。
一人の、まだ幼すぎる少女の姿を借りて、フィルフィナの運命は、雨の音の中に靴音を響かせてやってきたのだ。
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