「十年前――リルルとフィルフィナの出会い」

「雨降りしきる王都、燃える里」

 そのエルフの少女は、暗い街角に完全に溶け込むような格好かっこうになっていて、延々えんえんと降りしきる冷たい雨にれていた。

 いったい、いつからそんなザマになっていたことだろうか。思い出そうとして――思い出すのが億劫おっくうになっては、思い出すことをやめる。


 そんなことを何度も、何度も繰り返して、今はもうり返す気もなくなって、雨に濡れ続けていた。

 思考する力、気力がもう、ない。

 考えるのをやめた、考えることをしなくなった肉のかたまりに、いったいどれくらいの価値があるのだろうか?


 食べられるだけ牛や豚、にわとりなどの方がマシだ。特に自分はただでも肉付きが薄くて、食べられるところなどほとんどないのだから。


「――――――――」


 冷え切って紫色に染まったくちびるはさっきまで震えて仕方なかったが、今はもう震えさせる力さえ残っていない。雨に洗われ続ける冷たい石畳いしだたみに全身を横たえ、体温が奪われ続けているが、身を起こしたいという気力のひとしずくさえ自分の中になかった。


 うつ伏せになり、いい加減に石畳の肌触りも味も知りくしたが、そこから姿勢を変えようとする意思にも力が入らない。座り直したところでさして状況は変わらない。横たわっていた方がマシ、という微かな意識だけがあった。


 雨音だけが響き続ける。


 軒先のきさきにひと一人が倒れているというのに、時折通りかかる人間たちは見向きもしない。汚れきった少女が貧民街ひんみんがいの景色の中に溶け込んでいたというのもあるし、ここを通りかかる者たちに親切心などはない。


 逆に、既に目立たなくなっているというのが幸いしていたのかも知れない。

 そうでなければ、もう動けなくなっている少女によこしまな想いを抱き、狼藉ろうぜきに及ぶ者も少なくなかったろうから。


 ――何故、エルフの自分がこんなところで、こんな格好になっているのだろうか。

 ここは人間の街だ。嫌いな人間がうようよしている場所だ。

 普段なら、よほどの用がない限りは、行け、といわれても拒絶したくなるところなのだ。


 そんな場所で、自分は動けなくなっている。汚れた街の汚れの一つになっている。


「わたし、は……」


 薄れかけた感覚、意識までもが遠くなりかけ、視界も霞んでいる。全ての力が遠くなっている。

 最後の思考力を振り絞って、少女は、自分の名前を思い出した。


「わらわ、は……」


 ――フィルフィナ。

 それが自分の名前だ。


 その名は、エルフの言葉で、由緒ゆいしょある伝説にちなんだ……ああ、思い出せない。

 どういう意味だったか……思い出せなくなっている……。

 この名前は自分の誇りでもあるのに、そんなことさえもう、考えられなくなっている……。


 どうして、いつから、こんなところで、こんなことになっているのか。


 自分を自分につなぎ止める最後の抵抗のように、少女は残された最後の最後の力を振り絞って、それを思い返していた。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 それは、一通の書簡しょかんから始まっていたはずだ。

 エルカリナ王国からの書簡。いや、書簡と表現するのは丁寧ていねいすぎたかも知れない。

 その文は、矢にくくりつけられてなんの前触まえぶれもなしに、エルフたちが暮らす里の真ん中にち込まれてきたのだ。


 エルフの秘薬の全てを引き渡せ。

 要求を拒絶きょぜつした場合は、軍事力で里を制圧するであろう。


 それを読んだ里の女王――母――は絶句していた。


 なんと馬鹿げた文面であろうことか。


 まだ頭を下げて譲渡じょうとを願ったり、対価を提示しての取引ならいくらでも平和裏へいわりに交渉のしようがある。

 だが、これはただの脅しではないか。


 こんなものに従うのは、それは自分たちが力に屈して軍門に降ったという意味以外のなにものでもなくなる。エルフのようなほこり高き種族がこれに応じると思っているのか。


 自分たちの領内にこの里があるから、お前たちは自分たちが支配者であると思い込んでいるかも知れないが、私たちの民は数千年も昔からここに里を作っているのだ。

 ここは、お前たちの支配地ではない。命令されるいわれは、ない。


 応じるはずがない。


 ということは、文面の通りなら来るであろう襲撃に備えて準備をするだけだ。結局戦いになるのだから、相手に防御を固めさせるだけ、この文を送ったことは損なだけなのだ。最初から軍事力に訴えるのであれば、準備がないところを襲うべきだろう。


 その馬鹿さ加減に心底呆れていたが、馬鹿でいてくれているのはありがたかった。準備ができる。


 急いで進めた防御の準備ができあがるかできあがらないかという頃合いで、エルカリナ王国の軍勢が押し寄せてきた。


 その軍勢の規模を偵察した物見ものみの報告を受け、女王は即座に決断していた。

 ――里の防衛は不可能。

 この拠点を放棄し、撤退する。


 建物を守るな、ひとを守れ。一人として殺されてはならない。

 それが基本の交戦規定だった。


 里の建物は全て丸太小屋だ。王族が住まう宮殿も、そんな丸太小屋をつないだものに過ぎない。木によって、森によって支えられる文明。それがエルフの誇りでもあった。

 他の森に移れば、里自体は容易に復興ふっこうできる。


 が、人はそうではない。特にエルフはただでも繁殖はんしょく能力が低いのだ。

 一人が死ぬだけで、それは何十軒の建物を焼かれた以上の損害となる。


 だから、フィルフィナもそれに従って動いた。

 第一に用意された緊急の脱出用の転移装置。そこに全員が逃げ込めるまでの時間を稼ぐ。フィルフィナは王族の一員として、防衛の最前線、先頭に立って戦った。


 力なき弱き民を守る。王族の矜持プライド

 そして、里で最も強き戦士である自分の存在意義レーゾンデートル


 まず指揮官とおぼしき者の額に弓の第一射がぶち込まれて、襲撃部隊に大渦のような混乱が巻き起こった。

 自分たちの倍の射程しゃていから、一秒ごとに正確な速射を放ってくる敵の前に人間の部隊は立ち往生し、遮蔽しゃへいから飛び出た兵士たちは例外なく急所に矢を受けて倒れた。


 背中にした里が燃えている。人間に燃やされたのではない。仲間たちが自ら火を放ったのだ。

 最低限の必要なものを真っ先に脱出させ、運びきれないものは全て燃やし尽くす。人間たちに何一つ利用させはしない。ここに押し寄せたことを無意味にさせてやる。


 その炎の熱を背中に受けながら、フィルフィナは弓の弦を弾きまくった。

 指の皮がけるまで、剥けて血が噴き出すまで、里に貯めておいた矢が尽きるまで弦を響かせ、仲間たちがみ嫌う産物である火薬まで持ち出して抵抗の限りを尽くした。


 もう残っているのはたった一人の小娘だ、囲んでやってしまえ――奮い立って飛び出してきた十人を、最後に残った手投げ弾一発で吹き飛ばす。人間の破片が飛び散る中、それを浴びてもフィルフィナはその場に立ち続けた。


 最後の遠距離武器がなくなり、斬り死にを覚悟した瞬間――足に当たるものがあった。

 それがフィルフィナの命を救ってくれた。


「これを見るがいい!」


 フィルフィナが掲げて見せたものに、相手にもう抵抗の手段がなくなったといきりかけた軍勢は、全員が足を止めていた。


「これがなにかわかるか――エルフの魔法の爆弾だ。この森一帯を吹き飛ばすのに十分な威力がある。貴様等の一人も生き残らないぞ!」


 七色に輝く、人の頭より少し大きいくらいのまり状の物体。


「そこの! 狙撃しようとしている奴! この爆弾は手から離れた瞬間に起爆する! 自分たちが全滅してもいいのなら引き金を引くのだな!」


 大木によじ上って長銃身の銃を構えていた狙撃手そげきしゅが構えを解いた。どうやら自殺するつもりはないらしい。


 フィルフィナは心から子供達に感謝していた。片付け癖がちっとも身につかない子供達のおかげで、自分は軍勢をたった一人で足止めできている。


 ――仲間全員の避難が終わり、転移装置が設置されていた建物ごと燃え尽きてその効力を失った時、フィルフィナは脱出の手段を失っていた。

 そこからだ。逃避行とうひこうが始まったのは。


 ただの鞠一つ・・・・・・をかざしておどすことで軍勢の間を駆け抜け、住み慣れた森を抜け出る。


 すぐさま追っ手がかかった。


 騎馬のひづめが地面を叩く音が響く中をフィルフィナは巧妙こうみょうに隠れ、夜の闇に溶け込み、なんとか追っ手を振り切ることに成功していた。


 ――成功はしたが、フィルフィナは行き場を失っていた。脱出用の転移装置の行き先は、こことは別の大陸なのだ。徒歩で向かうこともできず、潜伏先すらなくフィルフィナは大地を彷徨さまよった。


 兵士たちを何百人、あるいは千人に届くほどに傷つけた自分が手配されない、などという甘い考えを持つほどに幼くはない。どこか、少しでも安全な場所に身を隠さなければならない。


 フィルフィナが潜伏場所として選んだのは、王都エルカリナだった。


 衛星都市を加えれば人口三百万の大都市圏、中心都市のコア・エルカリナだけでも百六十万の人口を抱える巨大都市だ。亜人も多く住み着いていると聞いていた。エルフはほとんどいないだろうが、それでも人でないものが一切いないよりは百倍マシだった。


 灯台もと暗し。

 ――相手の懐に忍び込めばかえって目が届かず、時間が稼げるだろう。その判断は外れてはいなかったが、甘かった。


 戦闘の訓練を積み、一族の中でも随一ずいいちの戦士として名をはせたフィルフィナも、日が差さない王都のすみで隠れながら生きるということがどれだけ困難こんなんなことか、予想もしていなかった。


 ただのうらぶれた街角、暗い貧民街にも厳然とした裏の秩序ちつじょかれ、残飯が出る場所にすら利権が存在していて、その中に溶け込めなかったフィルフィナはゴミをあさることも許されなかったのだ。


 ひとかけらの食べ物さえ口にできず、水だけをかすめるようにして飲むだけの日々が数日続き――ほどなくして、フィルフィナはえきった。


 あちこちから追い出され続けた末にようやく見つけた、誰にもられることのない軒先のきさきは、屋根の恩恵すら受けられなかった。おりからの雨を浴び続けてフィルフィナは、しくも周りの廃材に溶け込むような格好になって隠蔽いんぺいを果たしていた。


 顔も服も髪も体もくつも汚れきり、これ以上汚れようのない格好で横たわる。行き倒れ寸前――いや、立派な行き倒れになったフィルフィナには、もう指の一本も動かす気力もない。


 全身を容赦ようしゃなく濡らす雨、頬に当たって口に流れ込む雨をすすり続けていたから死ななかっただけの存在だった。

 自分はこのまま、ゴミのように死ぬのだろうか。死んだ後はまさしくゴミと一緒になってどこかに捨てられるのだろう。


 飢えの感触すらなくなり、あきらめの末に全ての運命を受け入れる心境を迎えて目を閉じようとした時――それは、やってきた。


 一人の、まだ幼すぎる少女の姿を借りて、フィルフィナの運命は、雨の音の中に靴音を響かせてやってきたのだ。

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