「湯船の中」

 白湯さゆを腹の中に入れることで、フィルフィナの生命いのちにぬくもりが通う。今まで他人のものに思えていた指先の感覚が、やっと自分のものだと思えるくらいに戻ってきた。


 ゆっくりとした速度、それでもガタゴトと前後左右、不規則に遠慮なく揺れてくれる馬車の中でフィルフィナはようやく、これからどうするべきかを考えた。いや、考えようとして――まだそれが思考するには重すぎることに、考えることをあきらめる。


「…………」


 全身が疲れ切っていた。骨がなまりに置き換わったかのように重い。自分自身で動きたい、という気力もがれる。

 考えようとして挫折ざせつし、また考えようとして断念し――そんなことを十何回か繰り返したところで、馬車はまった。


「着いたよ。下りられる?」


 少女の申し出に、フィルフィナは首を横に振った。一人で馬車から降りる、そんな簡単なはずのことも今は難儀なんぎ以外の何物でもなかった。


 少女の肩を借りて、危なっかしく馬車を降りる。二人が下りて扉が閉められたのを確認し、そのまま馬車は雨の中を走り出して去って行った。


「ここ……は……」


 重い煙のように降る霧雨きりさめ、それにかすんだ視界の向こうに、塀をへだてて一軒の屋敷があった。屋敷――庶民しょみんが住まうには十分過ぎるほどに大きい邸宅ていたくだが、豪邸ごうていというほどでもない。芝生しばふ以外に手入れするべき草花や木も植えられていない、ある意味殺風景さっぷうけいとも見える庭が寂しさを誘う。


「私のおうち」

「ここ……が……」


 少女の身なり、執事らしい男の存在から、裕福な家の娘だということは察しがついていた。屋敷の規模もその推測すいそくを裏切るほどではない。


「さあ、いらっしゃい」


 門番もいない屋敷の門の脇にある通用門を自ら開けて、フィルフィナに肩を貸しながら少女は玄関までの道を行く。フィルフィナはほとんど引きずられるだけだった。


 少女が玄関を開け、フィルフィナの体を入れる。


「ただいまぁ」


 広めのホールに声が響くが返事はない。それを気にせず、つかつかと少女はフィルフィナを連れて廊下を進んだ。フィルフィナの体重が軽いせいか、自分より体格がいい人物に肩を貸してもそれほどの苦を感じさせない足取りだ。


 どこに連れて行く気だ、とたずねる前にフィルフィナは、目的の場所に導かれていた。扉を開けた途端、肌にまとわりつくように湿った熱い空気がフィルフィナを包み込む。湯気で部屋が曇っている。


「お風呂を沸かしてあるの。体、冷え切っているものね」

「風呂…………」


 存在こそ聞いたことはあるものの、フィルフィナには未体験のものだった。エルフは湯に体を浸からせる習慣はない。泉で沐浴もくよくするか、浴槽よくそうに張るとしてもそれは水だ。


 入ったことのないものに入りたくはない、と口はいおうとしたが、冷え切った体が求める本能にはあらがえなかった。白湯を胃に入れただけでも気力が湧いたのだ。熱い湯に体を温められたら、そのまま昇天しょうてんしてしまう自信さえあった。


「髪も汚れているもの。洗ってあげるね」

「……どうして、こんなにしてくれる」


 服を脱がしにかかる少女に抵抗することもできない。かろうじて動く口だけが少女に逆らおうという小さな意地を満たしていた。


「なにが目的だ……?」

「助けてほしいって、あなたがいったんでしょう?」

「……いったかも知れない、いや、いったにしろ……助けることに、なんの意味がある……」


 そもそも、だ。


「……どうして、わら……わたしを見つけることができた?」


 街のゴミと一体になっていた、自分。誰一人興味を示そうという人間はいなかった。

 それについての少女の回答は、明確だった。


綺麗きれいだったから」

「きれい……だと?」


 なにが綺麗だというのだ。もう、これ以上汚れようがないほどに汚れきった自分が……。

 そんな、反抗しようとしたフィルフィナに、少女は微笑んだ。天使のような笑みだった。


「目」

「め……?」

「あなたのお目目。宝石のように綺麗だった。誰かいる――すぐにわかったよ」

「は――は……」


 目……。

 確かに、アメジストのような深い紫色の瞳は自慢のものだ。それをこの少女は見つけたというのか。清潔などという言葉からははるかに縁遠いあの場所の中から……。


 いくら宝石が落ちていたって、ゴミための中にそれを見つけるのは難しいことだろう。納得しがたいものは残ったが、『宝石のように綺麗だった』は素直にうれしかった。


 そんなことを真っ正直に言われたことはなかったから。


「あ……服、脱がすの恥ずかしくない? 自分で脱ぐ?」

「恥ずかしいことなど、あるものか」


 なんでこう強がりが口を吐くのだろう。


「エルフは人間とは違う。誇り高い種族なんだ。お前は犬や猫に裸を見られても、恥ずかしいと思うのか」

「ふぅん」

「……待て」


 メイド服を脱がされ、下着姿にされたところでフィルフィナは少女の手を止めた。


「……そこからは自分で脱ぐ」

「ふふ」


 少女が可笑おかしそうに笑う。きっと、こちらの赤くなっている顔を見て笑っているに違いない――そう思うとますます頬の赤みが増した。


 下着の全部も取り払う。最上質のきぬの質感にも負けない白さを帯びた肌が露わになる。まだ、傷の一つもない肌。衣服を重ねて着ないエルフにとって、それは美しさの条件だ。

 美しいものは、ほこり高くあるべき。人間にこの意識が通じるかどうか……。


「すごくきれい」

「……あまり見るな」


 頬が紅潮こうちょうするだけではない。今まで止まらないか心配だった心臓がどくどくと音を立てて動いているのがわかった。恥ずかしさを振り払うように浴室に踏み込む。少しの危なっかしさはあったが、なんとか自分の足だけで歩くことができた。

 

 もくもくと湯気を上げる発生源の浴槽は大きかった。ひと一人が脚を伸ばすに十分な長さがある。背中に張り付いている少女の視線から逃れるように、湯が張られた浴槽に足を入れた。


「っ」


 その熱さに一瞬足を抜きかけるが、意を決してそのまま踏み込む。痛いくらいの熱さをこらえながら両脚を入れ、体を沈めた。


 浴槽の底に腰を下ろしきると、肩までが水面の下に沈んだ。全身をやわらかく抱きしめてくれる心地よい水圧と、体の芯までに染み渡ってくる湯の熱さ。その二つにうめき声が漏れる。未知の体験だ。


「ふぁ……あ……」


 生き返る、と思いがわき上がる。気持ちいい。今まで自分たちが冷たい水で体を清めていたのがもったいなく思えるくらいの。


「髪の毛、洗ってあげるね」


 濡れてもいいようにというのか、厚手のエプロンを前にかけた少女がフィルフィナの肩を抱き、頭を浴槽の外に外させる。そんな姿勢にさせておいて、湯船から汲んだ大きな手桶の湯を遠慮なくフィルフィナの頭のてっぺんから降り注がせた。


「うぷっ」


 フィルフィナの髪を大量の湯が通り抜けていく度に、汚れに染まった湯が排水口に流れ込んでいく。自分の髪がどれだけ汚れきっていたのかというのを目の当たりにさせられて、フィルフィナはますます恥じ入った。


 何度も何度も、頭に湯をかけられる。少女の手が髪と一緒に髪を掻き回し、指の腹が地肌をこすっていく。その一つ一つが気持ちいい。今までそれを感じる余裕がなかったかゆみが復活して――すぐに洗い落とされていく。


 湯が髪と地肌を流れ落ちて行く度によろこびが心に膨らむ。数日間に味わったつらさが一枚一枚はがれ落ちていく。冷えきり、凍えきっていた体験が過去のものとなっていく。自分はよみがえっているんだ、という幸せが胸を内側から温める。


 髪を洗い流した湯に混じる色がなくなった頃合いで、頭を洗われるのがやんだ。


「私、ちょっと離れるから。お湯の中に沈まないように、気をつけてね」


 笑顔の余韻よいんを残して少女が浴室を去って行く。なにをしに行くのか、というのをたずねるのも億劫おっくうだった。体が温められる感触が魂をとろかしている。


 もしや、密告か――そんなことがちら、と頭をかすめるが、次にはそんなこともどうでもいいと思えた。数分後に捕り方がここに踏み込んでくるとわかっていても、この温かな湯から体を抜く決心などつかない。


 思考と共にこのまま、体も湯の中に溶けてしまえばいいのに――そんな取り留めもないことを考えながら、フィルフィナは頭の先まで湯船の中に沈んだ。今は、この浴槽の湯の全部と、一緒になっていたかった。

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