「湯船の中」
ゆっくりとした速度、それでもガタゴトと前後左右、不規則に遠慮なく揺れてくれる馬車の中でフィルフィナはようやく、これからどうするべきかを考えた。いや、考えようとして――まだそれが思考するには重すぎることに、考えることをあきらめる。
「…………」
全身が疲れ切っていた。骨が
考えようとして
「着いたよ。下りられる?」
少女の申し出に、フィルフィナは首を横に振った。一人で馬車から降りる、そんな簡単なはずのことも今は
少女の肩を借りて、危なっかしく馬車を降りる。二人が下りて扉が閉められたのを確認し、そのまま馬車は雨の中を走り出して去って行った。
「ここ……は……」
重い煙のように降る
「私のおうち」
「ここ……が……」
少女の身なり、執事らしい男の存在から、裕福な家の娘だということは察しがついていた。屋敷の規模もその
「さあ、いらっしゃい」
門番もいない屋敷の門の脇にある通用門を自ら開けて、フィルフィナに肩を貸しながら少女は玄関までの道を行く。フィルフィナはほとんど引きずられるだけだった。
少女が玄関を開け、フィルフィナの体を入れる。
「ただいまぁ」
広めのホールに声が響くが返事はない。それを気にせず、つかつかと少女はフィルフィナを連れて廊下を進んだ。フィルフィナの体重が軽いせいか、自分より体格がいい人物に肩を貸してもそれほどの苦を感じさせない足取りだ。
どこに連れて行く気だ、と
「お風呂を沸かしてあるの。体、冷え切っているものね」
「風呂…………」
存在こそ聞いたことはあるものの、フィルフィナには未体験のものだった。エルフは湯に体を浸からせる習慣はない。泉で
入ったことのないものに入りたくはない、と口はいおうとしたが、冷え切った体が求める本能には
「髪も汚れているもの。洗ってあげるね」
「……どうして、こんなにしてくれる」
服を脱がしにかかる少女に抵抗することもできない。
「なにが目的だ……?」
「助けてほしいって、あなたがいったんでしょう?」
「……いったかも知れない、いや、いったにしろ……助けることに、なんの意味がある……」
そもそも、だ。
「……どうして、わら……わたしを見つけることができた?」
街のゴミと一体になっていた、自分。誰一人興味を示そうという人間はいなかった。
それについての少女の回答は、明確だった。
「
「きれい……だと?」
なにが綺麗だというのだ。もう、これ以上汚れようがないほどに汚れきった自分が……。
そんな、反抗しようとしたフィルフィナに、少女は微笑んだ。天使のような笑みだった。
「目」
「め……?」
「あなたのお目目。宝石のように綺麗だった。誰かいる――すぐにわかったよ」
「は――は……」
目……。
確かに、アメジストのような深い紫色の瞳は自慢のものだ。それをこの少女は見つけたというのか。清潔などという言葉からは
いくら宝石が落ちていたって、ゴミための中にそれを見つけるのは難しいことだろう。納得しがたいものは残ったが、『宝石のように綺麗だった』は素直に
そんなことを真っ正直に言われたことはなかったから。
「あ……服、脱がすの恥ずかしくない? 自分で脱ぐ?」
「恥ずかしいことなど、あるものか」
なんでこう強がりが口を吐くのだろう。
「エルフは人間とは違う。誇り高い種族なんだ。お前は犬や猫に裸を見られても、恥ずかしいと思うのか」
「ふぅん」
「……待て」
メイド服を脱がされ、下着姿にされたところでフィルフィナは少女の手を止めた。
「……そこからは自分で脱ぐ」
「ふふ」
少女が
下着の全部も取り払う。最上質の
美しいものは、
「すごくきれい」
「……あまり見るな」
頬が
もくもくと湯気を上げる発生源の浴槽は大きかった。ひと一人が脚を伸ばすに十分な長さがある。背中に張り付いている少女の視線から逃れるように、湯が張られた浴槽に足を入れた。
「っ」
その熱さに一瞬足を抜きかけるが、意を決してそのまま踏み込む。痛いくらいの熱さをこらえながら両脚を入れ、体を沈めた。
浴槽の底に腰を下ろしきると、肩までが水面の下に沈んだ。全身をやわらかく抱きしめてくれる心地よい水圧と、体の芯までに染み渡ってくる湯の熱さ。その二つにうめき声が漏れる。未知の体験だ。
「ふぁ……あ……」
生き返る、と思いがわき上がる。気持ちいい。今まで自分たちが冷たい水で体を清めていたのがもったいなく思えるくらいの。
「髪の毛、洗ってあげるね」
濡れてもいいようにというのか、厚手のエプロンを前にかけた少女がフィルフィナの肩を抱き、頭を浴槽の外に外させる。そんな姿勢にさせておいて、湯船から汲んだ大きな手桶の湯を遠慮なくフィルフィナの頭のてっぺんから降り注がせた。
「うぷっ」
フィルフィナの髪を大量の湯が通り抜けていく度に、汚れに染まった湯が排水口に流れ込んでいく。自分の髪がどれだけ汚れきっていたのかというのを目の当たりにさせられて、フィルフィナはますます恥じ入った。
何度も何度も、頭に湯をかけられる。少女の手が髪と一緒に髪を掻き回し、指の腹が地肌をこすっていく。その一つ一つが気持ちいい。今までそれを感じる余裕がなかったかゆみが復活して――すぐに洗い落とされていく。
湯が髪と地肌を流れ落ちて行く度によろこびが心に膨らむ。数日間に味わった
髪を洗い流した湯に混じる色がなくなった頃合いで、頭を洗われるのがやんだ。
「私、ちょっと離れるから。お湯の中に沈まないように、気をつけてね」
笑顔の
もしや、密告か――そんなことがちら、と頭を
思考と共にこのまま、体も湯の中に溶けてしまえばいいのに――そんな取り留めもないことを考えながら、フィルフィナは頭の先まで湯船の中に沈んだ。今は、この浴槽の湯の全部と、一緒になっていたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます