「其の三」

 春を迎える直前の、冬の置き土産のような冷気が身に染みる夜だった。

 乾いた陸風が、服どころかマントまで刺し貫きかねない威力で吹き付けてくる。

 そんな夜風に身をさらし、馬上のニコルは、二年の間慣れ親しんだ町を離れようとしていた。


 ニコルがまたがる馬のくつわを取り、片手には青白い光を放つ手持ちランプを掲げたえない風貌ふうぼうの中年の男が黙々もくもくと歩いている。王都までニコルを導くように言いつけられた下男だった。


「すまないね、ダリャン」

「いえぇ、これが旦那だんなにできる最後のご奉公だと思うと、身が引き締まる思いです、はい」

「――その『旦那』っていうのはやめてよ。僕はそんなに偉くないよ」

「そのおっしゃりようが既にお偉いんですわ。お若いのに立派な騎士でいらっしゃる」

「まだ僕は准騎士だよ」

「いえいえ、このダリャンの目には、そこんじょそこらの家柄だけの騎士様より、数倍輝いて見えまさぁ」

「ありがとう。ダリャンにそういってもらえると自信がつくよ。――しかし、寂しい出立しゅったつだね」


 騎士団を途中で抜ける者の見送りは、騎士団の構成員には認められていない。懲罰ちょうばつのように、その出立の時刻も夜更けに決められているしきたりだ。


 町と外との境界を離れ、数百メルト進んで――ニコルは後ろ髪を引かれる思いで背後を振り返った。


 十四歳の頃に初めて訪れ、以来二年の間暮らした、ゴルデムガルドの町。

 その二年の間に起こったの全てが、走馬灯のようになって心の中を駆け巡る。


「時間も時間だし、仕方ないか」

「――いえ、そんなことはないですよ、旦那」

「んん?」


 全てを悟りきったダリャンの言葉にニコルが首を傾げたと同時に、遠くからなにかが走ってくる音が響いてきた。照明にしている魔鉱石特有の青白い輝きが瞳に突き刺さる。ひづめが地面を打ち付ける音と回転する車輪の音――全力で疾走しっそうしてくる馬車だ。


 暗い夜道の危険を全く考えていない速度で走ってきたそれは、呆気あっけに取られているニコルに横付けするようにして急停車した。

 馬車の扉が乱暴に開き、その中から、簡易な部屋着に寄せた雰囲気のドレスにマントを羽織った一人の女性が飛び出してくる。


「ニコル! ニコルや!」


 四十に手が届くかという、母親の空気をまとった貴婦人。

 かつては舞踏会のはなとしてその名を鳴らしたかつての美しさが、まだありありと面影として残っている、ゴーダム公の第一夫人――第一しかいないのだが――エメス夫人。


 奇襲に似たその登場に、ニコルはダリャンの助けを借りずに馬から飛び下りていた。


「奥様、いけません! こんな時間にこのような場所に! 夜風が御身おんみさわりますし、万が一ぞくにでも遭遇そうぐうしましたら――」

「奥様、ですって!?」


 美しいまゆが吊り上がる。一瞬にして白い顔に血が上るのが見て取れた。


「ニコル! お前はまだ自分の立場がわかっていないのですか! ……私を『奥様』などと呼ぶなどと、どういう了見をしているのか……恥を知りなさい!」


 こめかみに血管が浮き上がっていた。冗談でもなんでもない、本気の怒りだ。


「私のことは、『母上』と呼ぶようにいつも申しているでしょう!」

「申し訳ありません、お母様!」

「そうそう、それでいいのですよ。ああ……美しい鳥がさえずるかのような声……心に染みる……」


 お母様、という響きに、エメスのまなじりが勢いよく下がった。


「おや、口取りはダリャンか」

「へっ、奥方様」

「ニコルを無事、王都に送り届けるのですよ。賊が弓か銃を取り出したら、その盾にならねばならぬこと、承知していますね?」

「……重々承知しておりますだ」

「あああ……私のニコル。本当に行ってしまうのですか? あの人には、なんとしてもお前を引き留めるように言いつけておいたのに……本当に役に立たない……」

「お母様。お母様のお見送りをいただいてニコルは幸せです。お母様にも大変お世話になりました」

「まだまだお世話し足りないわ……。見送りもなく、こんな夜中に寂しく出て行くなどと……ひどすぎるではありませんか」

「騎士団のしきたりですから、仕方ありません。ですが、准騎士としての正装を許していただき、馬と案内人までつけていただきました。本来ならとてもおそれ多いことです。――父上には心から感謝しております」

「このままだと、村にたどりつく前に野宿でありましょう?」


 吹き付けてきた夜風から守るように、エメスはニコルの体を指の先だけでそっと抱いた。


「こんな寒い夜分に野宿など、風邪を引けといっているようなものです……そうよ、ニコル、我が離れにいらっしゃい」

「お母様?」

「夜に出発したことにして、離れで朝を待つがいいでしょう。熱い風呂を作りましょう。母が自ら背中を流して差し上げます。暖かい布団にも入るがいいでしょう。布団は……一組しかないですが、かまいません。母と子が一緒の布団に入って語らう、当たり前のことですね。だから――」

「お母様!」


 強く発せられた声に、エメスの背筋が跳ねた。


「お母様のお気持ち、いつくしみ、優しさ……このニコル、しみじみ身に染みて思い知っているつもりです。しかし、もうニコルは大人になりました。いつまでも、お母様の温かな胸の中で甘えているわけにはまいりません――ニコルはもうひなではない、一羽の立派な鳥なのです!」


 少年の眼差しの強さに押されて、嗚呼ああ、とエメスが声を漏らす。


「お母様、どうかこのニコルに旅立ちの機会をお与えください! お母様の愛情を胸に、ニコルは羽ばたき、見事に飛び立ちたく思います!」


 少し深みを帯びた水色の瞳。それが持つ力に、エメスは色々と熱いものを感じた。


「そ、そうでしたわ……。貴方ももう、立派な一羽の鳥なのですね。貴方がいつまでもあまりに可愛らしいばかりに、私としたことがすっかり勘違いして……」


 エメスの目から、はらはらと涙があふれて零れ出す。


「ああ……ニコル、ニコル……。どうか、このおろかな母を許しておくれ。母は、あなたの成長のさまたげになるところでした……」

「二年の間、ニコルが一日とて寂しい思いをせずにすんだのは、お母様のお見守りがあってのことです。お母様、本当に感謝しています」

「ニコル……私の可愛い坊や。絵本に出てくる天使のように美しい……嗚呼、嗚呼、これが、たった一人の我が子を送り出す母の気持ちなのですか……」

「……お母様、サフィーナお嬢様が」

「えっ? ああ、そうそう、サフィーナもいたわね」


 本気で忘れていた、というていでエメスは手を打った。


「ああ……あああ、ニコル、抱きしめさせて、最後にあなたのぬくもりを感じさせておくれ」

「は、母上」


 ダリャンや御者ぎょしゃの目があるのも全くかまわずに、エメスはかば、とニコルを抱きしめる。そのままニコルの顔に遠慮のない頬ずりをし、唇以外のニコルの顔全部にキスの雨を降らせた。

 最後にはニコルの頭を抱え、自分の胸に押しつけるようにして抱きしめる。


「本当に抱き心地のいい……もう二度とできないと思うと悲しい……いえ、帰ってくればいいのだわ。ニコル、休暇には帰ってきますよね?」

「は……はい、年に、一度くらいは……」


 ありありと谷間を刻んだエメスの胸で窒息しそうになっていたニコルが必死に息を継ぐ。


「なにをいっているの。月に一度は帰ってくるのですよ。なに、休暇の心配なら要りません。私を誰だと思っているのですか――ゴーダム公爵第一夫人ですよ? 休暇が取れたら、快速夜行馬車を手配させます。夕方に乗れば夜更けには着くでしょう。そうしたら我が家でゆっくりと休むがいい」

「は、はい」

「週に一通は、必ず手紙を書くのですよ! 手紙が絶えたら母が様子をうかがいに行きますからね! ……ああ、話をしていたら取り留めがないわ! 母はもう去ります。ニコル、息災そくさいで!」


 別れの涙を指で払い、エメスは街に向かって自分の足で走り出した。それを追って馬車も走り出す。その姿が町の中に吸い込まれて行くのを見届け、愛情の奔流ほんりゅうに押し流されそうになっていたニコルは大きく息を吐いた。

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