「其の二」

「ほう!」


 嬉しそうなゴーダム公の声が飛んだ。


「面白い返事だ。このような話、平民出身のそなたには――いや、誰にとっても夢のような話であろう! 『はい』と二つ返事すれば、我が娘と領地が手に入る――それがわからぬほど、そなたはおろかでもあるまい。それでも返事はいな、と申すのだな?」

「その通りです!」


 少年の瞳が、公爵にいどみかかるように見つめていた。少女の面差おもざしすらある顔の中で、確かにそれだけは少年の気合いに満ちあふれていた。


「できかねる、という物言いは面白い。事情があってできない、というように聞こえるな。では、その事情を申してみよ。そなたにはそれを説明する義務があるぞ?」


 台詞せりふ字面じづらほどには、ゴーダム公の声に問い詰めている調子はない。この少年の本心、本当の奥底に隠されているものをのぞいてみたいと楽しんでいる感さえあった。


「ニコル、おっしゃいなさいな。私も薄々ではありますが、耳にしてはおりますよ」


 サフィーナの水かけに、間をにごすように口を閉じていたニコルが逡巡しゅんじゅんを断ち、決意を固めた。


「……お恥ずかしい話ではありますが、申し上げさせていただきます!」


 乾ききったニコルの喉が鳴る。唾で無理にでもそれをうるおした。


「そのお話をけてしまうと、ある一人の女性との約束を果たせなくなるからです!」

「その女性との約束は、私の願いよりも優先するというのか?」

「約束の前に、身分の高い低いは関係ありません!」


 ニコルの視線は揺らがない。動じるな、という自分への叱責しっせきを込めてただ、ひたすらに前を見ていた。


「……閣下の願いより先にその約束があった、だから優先せねばならない、それだけの話です!」

「――――」


 ゴーダム公が、ニコルの肩から手を放した。そのまま立ち上がる。後ろ向きに歩き、椅子に腰を落とす。


「は…………」


 落とした途端に、その口から笑い声が弾けた。


「は――――はっはっはっはっ!!」


 その笑い声の大きさ、愉快さにニコルの顔に驚きの陰が差した。サフィーナは……父の横でニコニコと笑うだけだ。


「はははは……! これはまいったな! ニコル、私は嬉しいぞ! そのような若者をこの手で育て上げられたことを光栄に思う! ……しかし、公爵領を乗せても負けてしまう相手か。これは勝てん、勝てんなぁ……はははは……!」

「お父様、ずいぶんご機嫌ですのね」

「サフィーナ、お前こそ悲しくないのか? お前こそ意中の相手にそでにされたのだぞ」

「私も、とても嬉しいのです。ニコルが、私が愛するニコルのままでいてくれたので」


 言葉に一片いっぺんの嘘もないように、少女の微笑みは澄み切っていた。


「――公爵領をえさとして前に出されたくらいで、心に決めた女性を裏切る男性なら、私は願い下げですわ……」

「なんだ? ではお前は結局、ニコルがどう返事しようが結果は同じだったわけではないか」

「――いいえ。私はますますニコルが好きになりました」


 サフィーナが、前に歩を進めた。


「それが本当に嬉しくて……そして、とても悲しい……」


 ニコルの前に立つ。――自分の首から下げられ、胸元を飾っているペンダントの鎖を外した。

 銀色の細い鎖の先に、親指の先ほどの大きさの円形をした金色の飾り。純金の表面に細かい文様もんようがびっしりと刻まれている。


 それをニコルの前に差し出すようにした娘の行動に、ゴーダム公が思わず椅子から腰を浮かせていた。


「お――おい、まさか、それを」

「これは私が受け継いだものです。どうしようと私の勝手のはずです――ニコル、首を差し出しなさい。あなたに、私の想いをこばんだ罰を与えましょう」

「は……はっ」


 ニコルが頭を下げる。そのニコルの前に膝を落とし、サフィーナは鎖をニコルの首の後ろでつないだ。


「よろしいですか。あなたはこれからもう二度と、その首飾りを外すことは許されません。それが、私が貴方に与えられる罰なのです」


 微かな香りを残して、サフィーナが離れる。少女が温めていたペンダントは今、ニコルの首元にあった。


「片時も外すことはなりませんよ。戦場にいる時も、休む時も――そう、たとえ……他の女性の方としとねを共にする時も……。そして、月に一度でよいのです。夜空に満月が輝く夜、夜空に輝くそれを眺めて、私のことを思い出してくださいまし」


 満月を形にした円形のプレート。文様に見える細かな文字の羅列は、月に対する感謝を詩にしたものだ。


「――私もその時、同じ月を眺めて貴方のことを想いますわ……お返事は?」

「…………かしこまりました! お嬢様の、仰せの通りに……」

「よろしい。……ニコル、お顔を見せて」


 床に着いた自分の手を見つめていたニコルが顔を上げる。微かに首を傾げるようにして微笑んでいるサフィーナと、視線が絡んだ。

 サフィーナが、すっと手の甲を差し出す。その手を取り、ニコルはうやうやしく唇を乗せた。


「……道中、お気をつけて。貴方の大切な方によろしく……」

「……サフィーナ様」

「お、おい」


 そのまま歩を進め、謁見えっけん室を去ろうとした娘をゴーダム公が呼びとめた。


「どこに行く。もう、ニコルはこの足で出立しゅったつすることになるのだぞ。見送らなくていいのか」

「――私はこれでも忙しいのです」


 数瞬だけ足を止め、サフィーナは、そのまま扉まで進んだ。


「これから、部屋に戻って、朝まで泣かなければいけませんもの……」


 サフィーナの姿が消える。扉が閉まり、ほんのしばらく音のない時間が流れた。


「ふははは……我が娘を泣かせてくれたな。そんなことをしてくれたのはそなたが初めてだ。死罪に値するなぁ、これは。ははははは……」

「……申し訳ありません」

「ただの横恋慕よこれんぼだ。気にする必要はない。面白い呪いをかけられたものだなぁ……父親として、それを外せということはできない。甘んじて受けるがいい」

「……はっ!」

「私からも、餞別せんべつとして渡すものがある。なに、その首飾りほどには荷物にはならん。ニコル、立つがいい」


 ゴーダム公が再び立ち上がり、同じく立ち上がったニコルの側に近づく。ポケットから箱を取り出し、一つの徽章きしょうを取り出した――その瞬間、ニコルの顔から血の気が引く。


「閣下! それは!」


 五角形のプレートに、背に翼を生やした一頭の獅子が左を向いているレリーフが刻まれている。紛れもないゴーダム家の紋章だ。

 動くことのできないニコル、その肩章けんしょうにゴーダム公は自ら徽章を取り付けた。


「これは、ゴーダム家のお身内であることを示す徽章ではないですか! そのようなもの、自分のような小身の若輩じゃくはいがつけることなど恐れ多い! おやめください!」

「そなたにつけてほしいのだよ、ニコル」


 二度と外れないように、と念を押すようにして頑丈に取り付け、ゴーダム公はそれを軽く手で叩いた。


「それをつけていれば、このゴーダム家の威勢いせいとどろく限り、どこに行っても恩恵が受けられよう。私は耳にしたい――風のように現れて活躍した若者の肩には、有翼の獅子の徽章が輝いていたとな。そなたならば、どこにおもむいても名を挙げられよう。私を誇らしい気分にさせてくれ」

「あ……あまりに、もったいない……」

「忘れるな。私はそなたを息子のように想っている。――そなたも、私を父のように想ってくれ」

「……ご存じかとは思いますが、自分の父は、自分が生まれる前に他界いたしました」


 左肩に取り付けられた徽章の重みに耐えながら、ニコルは言葉をつないだ。


「もしもこの世に自分の父がいるとしたら、それはゴーダム公ただお一人です。――父上」

「うむ! それでこそだ、我が息子よ!」


 やわらかな輝きを帯びた瞳が、我が子をその中心にとらえていた。別れの惜しさはいつの間にか消えていたのかも知れない。今は、この若者を送り出せる喜びだけがあった。


「しきたりにて、私が見送れるのはここまでだ――さあ、行くがよい! そしてまたおう! それまで壮健そうけんでな!」

「はっ! 二年の間、大変お世話になりました! 心から感謝いたします! 父上、御達者おたっしゃで!」


 かたわらの剣を手にして一礼し、ニコルは肩をひるがえした。そのまま扉まで歩いて行く――肩の徽章の重みを感じながら。

 ただの挨拶あいさつのはずだったのに、この謁見室で行われたやり取りはおそらく……一生忘れ得ぬものなるだろう。そんな予感を覚えながらニコルは、堂々と部屋を退出していた。

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