エピローグ・後「ニコルの帰還」

「其の一」

 王都エルカリナから、徒歩とほで三日の行程こうていでたどりつく、ゴーダム公爵領。

 有力貴族の一人ではあるが、政争には関心を示さない実直な領主、エヴァンス・ヴィン・ゴーダム公爵の統治とうちによっておさめられている、肥沃ひよく田園地帯でんえんちたいが広がる領地だ。


 物事の細かさを忘れたような公爵のおおらかな性格が反映はんえいしてか、税もさほど高くなく、領民たちは自分たちがそこに住めることに心から感謝し、安らかな時を過ごしている。


 そんな、安寧あんねいが横たわる公爵領。


 今、その領地を離れようとしている一人の若者――金色の風をまとう少年がいた。


 その名を、ニコル・アーダディスという。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 少年のみずみずしさと若々しさに満ちた声が、扉をつらぬくように響いた。


「ニコル・アーダディス准騎士、おしにより、参上つかまつりました!」


 公爵の館の謁見室えっけんしつの奥、背の高い椅子いす鎮座ちんざしたゴーダム公は、扉の向こうからの耳を心地よく打つ声に目を細めた。

 若き少年の――少年のものにしてはかなり高い声。変声期を忘れた美しい響きに一瞬、思わず陶然とうぜんとした。


「うむ、入るがいい」

「失礼いたします!」


 扉が開く。


 銀色の胸甲きょうこうを装着し、肩からは紺色こんいろのマントを羽織はおった一人の少年が一礼し、部屋に入ってきた。正確に等しい歩幅ほはばでゆったりと歩き、少し高くもうけられた段の前でひざをつく。腰に差していた剣をさやごと外し、自分の右かたわらに置いた。


 半歩先の距離きょりの床に目を落とし、少年はそのまま固まった。華奢きゃしゃ風貌ふうぼうの中に、しなやかなたくましさを持った少年を、ゴーダム公はあこがれさえ帯びた瞳で見つめた。


 毛の長い絨毯じゅうたん彫刻ちょうこくかざられた柱、絵画かいがくされそうな壁。

 二人以外、誰も存在しない謁見室に、静寂せいじゃくの時が流れた。


 広さこそ少し大きめの応接間といったところだが、やはり公爵家ともなると、謁見室は第一に威厳いげんを示さねばならない広間だ。天井からり下げられている五つの巨大なシャンデリアは、魔鉱石まこうせき特有の青白い光を煌々こうこうと輝かせ、部屋のすみにも影を作らない。


 その光を受け、床に視線を向ける少年の金色の髪はいっそうその明るさを際立たせていた。

 二十秒きっかりの間、ゴーダム公はその美しい髪を無言ででた。

 これで最後にもなるかも知れない――そのしさを心の底に押し込みながら、公爵は口を開いた。



おもてを上げよ」

「はっ!」


 少年が顔を上げた。その目が射抜いぬくように公爵の顔に向けられた。


 おさなさがぬぐい切れない、どこか少女の面差おもざしもうかがえる優しい顔立ちが、まっすぐにゴーダム公を見つめる。その、み切った湖面の青さを想起させる瞳だけが、確かに少年らしいまっすぐな意思を感じさせた。


「――閣下におかれましては、ご機嫌うるわしゅうことと存じたて……」

「いや、あまり麗しくはない」


 ゴーダム公がかかげた右手に、少年の言上ごんじょうが止まった。


「……そなたを手放さねばならんと思うと、麗しくはなれんな。未練みれんであるが……」

「このニコルの無理な願いをお聞き届けくださり、閣下には心から感謝しております! 閣下の騎士団を途中で抜ける勝手、無礼、なにとぞお許しの」

「いや、それは許した。気にまずともよい――許さねばよかったと後悔しておるがな、ははは……」


 冗談めかして笑おうとしても乾いた笑いにしかならない。無理にでも引き留めるべきだったという悔やみだけがあった。

 迷いを振り払い、ゴーダム公はもう一度少年の姿を視界の真ん中にとらえる。


 同年代の女子よりやや高いくらいという、騎士としては珍しいくらいの貧しい体格だ。それは騎士としては致命的ちめいてきともいえる不利につながる――はずだったが、ゴーダム公はこの少年が騎士団の中でも一、二を争う実力の持ち主であることを知っている。


 自分の弱点と不利、そして利点の全てを理解していて、見た目をあなどった相手のふところに、ネコ科のけもののように跳躍ちょうやくして一気にねぐり込み、喉元のどもとやいばを突き付ける敏捷びんしょうさ、突進力――そしてそれを可能にする勇気!


 見習いとして入団した最初の一、二ヶ月こそ稽古場けいこばたたきのめされるだけの存在でしかなかったが、半年もすればこの少年から一本を取るのは。至難しなんわざとなっていた。


 困難こんなんと向き合い、その困難を正面から乗り越えようとする少年の存在は、時を置かずしてゴーダム公の関心を引き、その純粋なひたむきさを公は愛した。

 そんな少年が、今夜、自分の元から去って行く。寒々さむざむしいさびしさを覚えながら、ゴーダム公は次につなげるべき言葉を探した。



「……今夜、そなたは我が元を去るのであるが……最後に相談事をひとつしたいと思ってな。わざわざ足労そくろうさせた」

「相談事、でありますか?」

「我が一人娘、サフィーナのことだ」


 そのゴーダム公の台詞を合図にするように、公の椅子いすの背中から一人のドレス姿の少女が音もなく姿を現した。

 背中をまっすぐに流れる亜麻色あまいろの長い髪が目を打つ少女。底に横たわる気の強さを感じさせる美しい顔立ちに、うっすらと微笑ほほえみが乗っている。


「サフィーナ様、ご機嫌麗しく……」

「固い挨拶あいさつは抜きですわ、ニコル」


 こんばんは、と小さく口にしてサフィーナは笑った。


「そなたも知っての通り、サフィーナも今年成人をむかえた。そろそろ、婿取むことりを考えねばならないと思ってな」

「サフィーナ様のようにお美しいお嬢様なら、きっと名のある名家のご子息との縁談えんだんも、多々あることかと推察すいさついたします」

「うむ、我が自慢の、お美しい娘だ」


 軽い冗句ジョークを口にして、ゴーダム公が肩を揺らす。側のサフィーナもますます笑顔を明るくした。


「まあ、一人娘であるからな。婿の選定は慎重しんちょうにせねばならん。実質、我が領地の後継者であるからだ。私も納得する相手を選びたい」

「……何故、そんな大事なお話が自分などに?」


 ニコルは首をひねりたくなるのをこらえた。そんなことはまさしく雲の上の話であるはずだ。


「それがな……サフィーナに希望を尋ねたところ、ある男でないと婿にしたくないというのだ。全くわがまま娘だ。誰に似たのか」

「うふふ」

「……お嬢様に、ご意中の男性がいらっしゃるというのですか」

「それがな、名を聞くとおどろくぞ」


 とっておきの話を切り出すように――ゴーダム公が身を乗り出した。


「その男の名はな、ニコル・アーダディスというらしいのだ」

「――――」


 ニコルの目がねるように開いた。

 のどが詰まる。かすかにくちびるが開いたが何も出てこない。

 胸と腹の中では、まさしく心臓と胃がひっくり返っていた。


「どうだ、驚いただろう?」

「……………………おたわむれを!」


 かすれる声でそうしぼり出す。


「ご冗談にもほどがあります! 閣下らしくもない!」

「それがな、冗談ではないのだ」

「ええ、冗談ではありませんの」


 震えを止めるのが精一杯のニコルの反応を楽しむように、サフィーナが言葉をつなげた。


「私は、是非ぜひともニコルを婿にもらいたいですわ。あなたのことはこの二年間、近くで見ていて心の根まで存じ上げているつもり。その上で申しているのです――私は本気ですよ?」


 ニコルとサフィーナの視線がからみ合う。サフィーナの口元は笑っていても、目はそうではない。真剣勝負を挑んでくるような迫力はくりょくさえあった。


「と、いうわけだ。そなたにしかできない相談であろう? もちろん、今すぐに婚約こんやくというわけではない。まだそなたは准騎士であるからな――」


 指折り数えるようにゴーダム公はいう。


「が、二年もすれば、そなたならば正騎士にもなれよう。そうなれば、適当な名家に養子として入ってもらって、はくをつければいい。三年後には式をげられる――遅いことはない」

「ですが……!」

「王都の警備騎士就任しゅうにんの話は、今ならば取り消せる。いや、間に合わなくても取り消して見せよう――ニコル。私は、サフィーナがお前を気に入っているからだけで、こんな話をしているわけではないぞ」


 ゴーダム公が椅子から立ち上がり、ニコルの前で腰を落とした。


「……閣下!」


 膝が交わるのではないかと思えるほどに近い距離。少年の恐縮きょうしゅくを制して、ゴーダム公は続けた。


「サフィーナ同様、私もそなたの人柄を知りくしている。余所よそから来た身でありながら、そなたは領民にしたわれ愛されている。誰にでも親しく公平で――浮いた話ひとつない。そなたには治政者ちせいしゃうつわがある。いや、本音を言おう。私はそなたのような、利発りはつな若者を我が息子にしたいのだ」


 公の手がニコルの肩に優しく乗せられた。ニコルの小さな体がそれだけでますますちぢみそうになる。


「も、もったいないお言葉……」

「この二年間、私はそなたを実の息子のように想い、育ててきたつもりだ。そなたのような有望な若者を、これからも我が手の元で息子として育てる喜び。私にそれを味わわせてほしい」


 息子、という言葉を口にする度にゴーダム公は自分の胸が微かに締め付けられる感触を覚えた。切望せつぼうしたが、かなわなかった息子の誕生。しかしそれも、目の前の少年を我が物にできれば十分にめ合わせることができる。いや、そのために自分は、実の息子を得られなかったのかも知れない。


「――ということで、そなたの返事を聞かせてほしい。王都行きをあきらめて、我が領に残ってくれるな?」


 手をばさずとも届く間合い。


 もしもこの瞬間、少年が懐剣かいけんを帯びて自分に突き刺そうとすれば、それをかわすすことはかなうまい。が、この少年が覚悟を決めてり出すやいばなら、その胸に受けてもいい――そんな、あり得ないと思える心境にゴーダム公はひたっていた。


 何秒の時間が空いただろうか。


「――閣下、恐れながら申し上げます」


 目の前で膝を着くゴーダム公の瞳をまっすぐに見据みすえ――ニコルは、勇気の全てを振り絞って、いっていた。


「そのお話、うけたまわること、できかねます!」

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