第03話「花園、のち泥んこ広場」

「薔薇とリルルと貴公子と」

 風が運んでくる薔薇バラの香りの中で、一流の彫刻家が魂を込めたと思わせる造型の顔立ちで微笑むその青年は、懐の内側に迫るような存在感を示していた。

 まさしく、魅了チャームの魔法にかけられたリルルと――ついでにフィルフィナまでもが、雑念も何もかも頭の中から吹き飛ばして硬直する。思考が空白になる。


 風だけが動く時間が十数秒流れ、そのあってはならない展開に一人の男があわてて立ち上がった。


「お、おいおい、挨拶も返さんで、ぼうっと突っ立っている奴があるか!」


 血相を変えているその男。リルルよりもわずか数セッチメルト高いだけの小柄さのためか、小太りだが恰幅がいいという印象はない。薄い頭髪のために威厳も感じさせず、貴族服に着られているといった印象しかない。


「いやあ、まったくお恥ずかしい……なにぶん、しつけも行き届いておらず……まことに申し訳ない次第で……」


 男――ログトが頭を下げ続ける。いっぱいの愛想を浮かべてせわしなくお辞儀をするその仕草は、まさに出入りの商人そのものだ。

 陰では『魚貴族』と揶揄され続けるその男。

 ログト・ヴィン・フォーチュネット。リルルの父親、五十五歳。


「リルル! ご挨拶あいさつをするのだ!」

「はっ、はいっ」


 父の叱声に下手くそな操り人形のようにリルルが動く。ぎこちなく片足を後ろに引き、上体を前に傾ける。


「は――初めてお目もじかないます。わたくし、リルル・ヴィン・フォーチュネットと申します。い、以後、よろしく……」


 つまんだスカートの裾を広げようとして――かたん、となにかが落ちる音がリルルの足元で鳴った。

 自分の足元で鳴った軽い音にリルルが固まる。しては鳴らない音に意識が一瞬飛んだ。


 リルルの足元に落ちたそれは、憎たらしいくらいに磨き上げられた大理石の床をつるつると滑り――バリスの靴に当たって止まった。細く長い指が葉書はがき大のそれを拾い上げる。


「これは……お写真? この方は……」

「そっ、それは」


 返して、と手を伸ばすには間合いが遠すぎる。手が届かないことに小さい絶望が走った。

 そんな心に、ふっと風が吹く。森の匂いをうかがわせる風。


「――バリス様、ご挨拶させていただく光栄に浴させていただきます」


 フィルフィナがリルルとバリスの間に立っていた。いつ近づいたのかわからない、まるで魔術のような動き。バリスの頬に微かな驚きが浮かぶ。


「わたくし、リルル様専属のメイド、フィルフィナ、と申します。以後、なにとぞ昵懇じっこんのほどを」

「これは……また、不思議な可愛らしさのフローレシアお嬢さんだ」

「その写真、実はわたくしの婚約者フィアンセのものでして」


 すっ、と差し出されるフィルフィナの手。まるで磁力か引力でも発しているようにバリスの手がその手に写真を乗せていた。


「お嬢様、またこれを隠されていたんですか。朝から探しておりましたのに」

「えっ、えっえっ、えっ?」


 うろたえるだけのリルル。そんな困惑を無視して、フィルフィナは写真を大切そうに懐にしまった。


「お嬢様のいたずら好きには困り果てておりますの。わたくしをいつもからかって。最近は、わたくしの大切なものがなくなったら、まずお嬢様におうかがいした方が早いくらいですわ」

「フフ……やんちゃな方なのですね、リルル嬢」


 バリスの目にやわらかい光が宿る。その双眸そうぼうが緩やかな曲線を作った。


「初々しい方だ。私が今まで逢ったフローレシアの方々とはまた違った魅力をお持ちのようです」

「お、お恥ずかしい限りです……」

「大丈夫ですよ。肩の力を抜いて、お気持ちを楽になさってください」

「は、はい――」


 焼かれた鉄のような頬の熱さを感じながらリルルは頭を下げる。恥ずかしさに上半身の下着が濡れるほどの汗が出た。


「写真で見た以上にお美しい――いや、可愛らしいフローレシアだ。温室で作られた繊細な花に、野花の健やかさが合わさったような」

「そ、そんな……もったいないお言葉です……。わ、私も驚いているのです。バリス様が私が想像していたよりも・・・・・・・・・・・ずっとずっと素敵な殿方でいらっしゃったので……」


 自分の肌が発する熱で溶けるのではないかというくらいの朱さにリルルは染まってしまう。実際、男性にこのような讃辞さんじを受けることは初めてだった。


「これの母親は早くに亡くなりまして……私も事業に忙しく、ほとんどかまってやれなかったために、わがままでいうことを聞かない娘になってしまって……こんな娘でももらってくれるとおっしゃるエルズナー侯にはもう、感謝の言葉しかなく……」


 娘のあまりもの無様な様子に、顔一杯に浮かんだ汗を必死に拭うログトが口を挟む。


「なにをなにを。お元気でお美しいフローレシアだ。嫁入りされた時はそれはもう、我が家を明るくしてくれることでしょう。私は気に入りましたぞ、フォーチュネット伯」


 バリスの父親として同伴しているエルズナー侯爵。

 ログトとは違い、侯爵としての威厳がその広い肩幅から溢れている。


「バリス、リルル嬢を連れてこの庭園をご案内しなさい。我々は大人の話・・・・があるからな」

「かしこまりました、父上。――リルル嬢、この『朱紅い回廊』に来られたのは初めてでしょう? 私が色々と教えて差し上げましょう」

「は、はい、バリス様――」


 バリスが歩み出し、リルルが一呼吸遅れて歩きだす。そんなリルルに素早くフィルフィナが肩を寄せていた。


「……写真はお持ちにならないようにと申したではありませんか!」

「だって、お守りを持っていたくて……」

「そのお守りで危機に陥ってどうするんですか。それにお嬢様、さっき一瞬、心からニコル様のことが消えていましたね?」

「そ、そそそ、そんなことない…………」

「リルル嬢?」


 バリスが振り返った時には、フィルフィナは十歩も離れた後でうやうやしく控える存在になっている。


「あのメイドのフローレシアと、とても仲がおよろしいようだ。彼女は……どこか、高家の出身でいらっしゃったりするのかな?」

「フィルフィナはもう、十ね……いえ、つい最近知り合ったばかりなのですが、とても気が利く、大切なお友達なのです。貴族の息女、というわけではありませんが、洗練された教育を受けた素晴らしいフローレシアです」

「あなたをお迎えしたら、彼女も我が家に来ていただけるのかな? なにか、不思議な魅力を持ったフローレシアだ」

「それは……どうでしょうか。父の世話のために、家に残るかも知れませんし……」


 話している過程で、リルルはフィルフィナの身の振り方について何も考えて来なかったことに今更気づく。

 自分についてエルズナー侯爵家に入ったとしたら、向こうに元からいる大勢のメイドの中の一人になるわけだ。エルフである彼女がそんな環境で自分が保てるなど思えない。


「今度、三人でゆっくりお茶をしたいものですね……ふふふ、失敬。こちらの花のご説明をしなければならないのでしたね。どうしてももおしゃべりができる可憐な花の方に気がいってしまう」

「まぁ」


 素直な笑いが漏れる。それがいくらか緊張をほぐして消し去った。


「この『朱紅い回廊』は、代々のエルカリナ王朝の君主が整備してきた薔薇バラ園なのです。珍しい薔薇の品種を世界中から集め、栽培している。ある意味もう一つのエルカリナ王朝の歴史そのものといってもいい。たとえば、この薔薇は王朝を初めて開いた――」


 話を右から左に流しながら、リルルはバリスの白磁はくじのような白い肌の横顔を半分夢心地で見ていた。

 まだほんの子供のような――昨日まで正真正銘の子供だった自分に対等に接してくれる、洗練された仕草に感動さえ覚えていた。ニコルが持つひたむきさとはまた違う魅力。自分がそんな殿方の妻になるかも知れない、いや、もう半分なっているという事実に実感が湧かない。


 おとぎ話に出てくる貴公子を見るような心地でリルルは、うたうように淀みのないバリスの声にうっとりと耳を浸していた。


「――リルル嬢?」

「はいっ!?」


 驚きに背が伸びる、反動で体が跳ねた気さえする。


「どうしました? 私の話は退屈だったかな?」

「いえっ、大変ためになりました! わ、私、本当に不勉強で、バリス様のお話をうかがうだけで、気の利いたことひとつも返せなくて、もう、ただただ自分が恥ずかしくて……」

「実は私も昨日、猛勉強しましてね。お写真の中で愛くるしく微笑っているフローレシアの気をなんとかくために、知識を一夜漬けしたのですよ。私の知識なんて全然大したことはないのです」

「まあ!」


 素直に声が跳ねた。


「私も知らないことばかりです。よろしければ二人で一緒に勉強しましょう。共に学び合い、教え合うのは楽しいことですよ」

「はっ、はい、よろしくお願いいたします」


 狭くした肩でリルルは頭を下げる。その形のいい唇にバリスは優しい微笑みを乗せた。


「少し、風が出てきましたね。体を冷やしてしまったらいけない……リルル嬢――いいや、リルル、とお呼びしてよろしいかな?」


 また頬に朱が混じる。冷たい風が当たって痛いほどに肌が冷える。それでも内から湧き出る熱が頬をき続けた。


「そ……それは、バリス様の、ご自由に……」

「私のこともバリス、と呼んでくださってかまわない。もうあなたは、私の妻同然なのです。この場で呼んでくださってもいいのですよ」

「い、いえっ、まだ、それは本当に恐れ多いことで……ご寛恕かんじょくださりませ」

「ははは……急ぎすぎはよくないですね。私はあなたがそう呼んでくれることを心待ちにしておりますよ。こんな素敵なフローレシアを妻に迎え入れることができるなど、望外の喜びです」

「それは私も……バリス様がこんな素敵な方で、本当によかったと……」


 よかった、と口にして――リルルは思う。本当によかったのかと。


「リルル、こちらに」

「あ……」


 横に並んだバリスと肩が触れあう。彼のマントが翻されて、抱き寄せたリルルを包んだ。厚い生地がふたりを一枚で包んでしまう。


「これで暖かい。重いマントですが、こういう時は便利なものです」

「は、はい……」


 腕と腕が密着してわずかにぬくもりが伝わってくる。男性の体温をこんな風に感じるのは……初めてだ。

 ニコルとも、手をつないだことしかない。自分たちが男と女だと意識できるようになる前の、ずっと幼い頃は別だったかも知れないが――。


「バリス様……は、恥ずかしいです」

「お父様の前では解放してあげましょう。それまであなたは私のとりこです。よろしいですね?」

「――――」


 声を出すことさえ恥じらいに溺れて、リルルは言葉を失った。バリスの暖かい檻に包まれたまま、風が強くなってきた薔薇園を歩いた。

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