「伯爵令嬢・リルルの爽やかな目覚め」

「お嬢様、起きてください」


 ノックもせずにフィルフィナが立ち入った寝室。平民なら豪奢ごうしゃ居間いまが構えられそうな広さの部屋の真ん中に、天蓋てんがいつきの寝台しんだいえられていた。

 その寝台の上で今――愛くるしい寝顔の少女が、口のはしからよだれをらしながら布団にくるまり、幸せな夢の中にいる。

 寝るのが、眠るのが本当に楽しくて仕方ない、というように眠る少女だった。


「お嬢様」

「うーん……」

「お嬢様、起きてください」

「むにゃむにゃ……あと三時間……」

「起きろ」

「ふぎゃ!」


 勢いよく布団が引っ張られ、その回転に巻き込まれて転がされた少女が絨毯じゅうたんの床に顔から落ち、猫がつぶされたような声を上げた。


「なにをするの、フィル!」

「それはこっちの台詞セリフです」


 体を起こした少女の前に、フィルフィナが紙のたばたたきつけた。朝市に買い出しにいった際に買ってきた号外ごうがいだ。全部で十二、十三部ほどはあるだろうか。


「説明してください」

「わ! こんなに号外が出てるの! 全部の新聞社が出してるのかな? やっぱり一仕事した後に出る号外を読む瞬間は最高ね!」

「そういう話をしてるんじゃない」

「ひあ!」

 

 フィルフィナの握りこぶしが主人の頭を打つ。カコーン! という軽い音が鳴り響いた。


「痛い痛い! 痛いじゃないのフィルぅ!」

「痛くなぐったんだから当然でしょう……それより! わたしの許可なしに、快傑令嬢にはならないっていう約束でしたよね? どうして約束を破ったんですか?」

「だって、フィルに反対されると思ったから!」

「反対するに決まっているでしょう!」


 落雷らくらいごと一喝いっかつが降り注ぎ、床に倒れていた少女の体が一瞬、浮いた。


「こんなさわぎにしてしまって……だいたいなんですかこの紙の束は。書かれていることほとんどデタラメばっかりじゃないですか。この紙の原料だって木なんでしょう。こんなデタラメのために、わたしの愛する森がけずられているんですか? そのうちわたしが人間をほろぼしますよ……そんなことはともかく!」


 ばん! と新聞の上にフィルフィナが手を叩きつける。


「侯爵家ひとつをつぶすなんていう大それたことを、なんでこんな簡単にやってしまうんですか! しかもわたしの支援なしで……何度もつかまりそうになったんじゃないんですか!?」

「……えへへ」

「えへへ、じゃない」

「ひあいひあひあい!」


 フィルフィナが主人の口の両端りょうはしに指を突っ込み、限界げんかいまで広げた。


「――いい加減にしてください、リルルお嬢様」

「しゅん……。で、でも、王都が火の海になるかも知れなかった事件だったもの! なんとかしないとと思ったの!」

「……わたし、後悔してるんですよ。お嬢様に魔法の道具アイテムを渡したことを」


 ふう、とフィルフィナが、心底しんそこからの溜息ためいきいた。


「『私、護身用ごしんようになんかこう、すごく力が強くなる道具が欲しいの』『エルフの魔法の下着がありますよ』、最初はこんな感じでしたよね」

「……えっと」

「『護身用にこう、すごく速く走れる道具を』『エルフのハイヒールが』、『護身用にすごく正確にムチやレイピアがあつかえる道具を』『エルフの魔法の手袋が』、『弾丸もはじくようなは』『エルフのドレス』、『護身用に正体がわから』『エルフのメガネ』、『護身用に空も飛べ』『エルフの傘』……空も飛べる辺りであやしいと思ってたんですよね」

かさをねだったのは最後でしょ! ぽんぽんくれるフィルもいけないと思うわ!」

「わたし、エルフのお姫様ですから、そういうものは里にねだればなんでも手に入るんですよね」


 メイド姿のエルフ――フィルフィナはしれっとそう口にした。

 リルルも実際に確認したわけではないが、ねだった途端とたんにもらえる道具の数々や、時折ときおり屋敷に現れるフード姿の人影がフィルフィナにうやうやしくせっしているところを見ると、そう信じざるを得なかった。


 というか、そうであるかないかは、リルルには興味きょうみのない話だった。フィルフィナというひとであれば、それでいいだけの話なのだ。


 どうしてそんなエルフの姫君が、メイドなどをしているのか?

 それは――。


「で、いろんな道具を組み合わせて、正義の味方のできあがりですか。……始めてしまったものは仕方ないので、今まで手伝っていましたが」

「……王都にはいろんな悪い人がいるわ。それをどうにかしないといけないと思った……それは悪いことかしら……」


 地の底まで気分が沈んだリルルは、自分の手に載せたものを未練みれんたらしくいじくり出した。

 フィルフィナはそれ以上追求する気をなくした。悪いとは思っていないからこの半年間、片眼をつむりながら自分はこの少女の正義感を助けてきたのだ。


 リルルの手の平の中にあるのは、赤いフレームのメガネだった。

 それをかければ顔を見る者の意識に魔法が作用し、かけているこちらの顔を記憶させないようにする魔法の道具。

 いうまでもない。

 それは昨夜、ゲルト侯邸に颯爽さっそうと現れ、風のごとく去って行った少女の象徴シンボルの一つだった。


 欲望によどんだ王都にさわやかな風を吹かせ、星のない夜空に舞い、華麗かれいに悪を打ち倒す『快傑令嬢リロット』。

 メイドに詰問きつもんされ、床の上で正座をしてしゅん・・・とうなだれているこの伯爵令嬢、リルル・ヴィン・フォーチュネットこそが――まさしく『快傑令嬢リロット』の正体だった。



   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



「また朝食は屋台の持ち帰り……うちのメイドは料理をしない……」

「わたしとお嬢様二人分のために、わざわざ料理なんてしていられません。仕事が山積みになってるんです。それに、屋台の食べ物は好きでしょう?」

「大好物……けど、なんというか、規律きりつの問題というか」

だまって早く食え」


 主人リルルとメイドは二人並んで寝台の上に座り、屋台で買ってきたサン・ド・ウィッチを頬張ほおばっていた。

 袋の底に焼き石を入れていたため、まだ熱々の長いパンの中に、あふれんばかりの野菜とたっぷりの白身魚の揚げ物がはさまれている。


 とても伯爵令嬢が口にするべきものではない。労働階級の食べ物だ。そしてこの屋敷には令嬢とメイドの二人暮らしというのも常識外れの話だろう。他にいる人間といえば、目を放すとすぐいなくなるあのやる気のない門番くらいの話だ。


 何から何までが、規格外の貴族だった。


「あ……やっぱりここの白身フライ、美味おいしい……ビネガーが利いていて……」

「このお魚も、旦那様の会社であつかってるものなんでしょうね」

水揚みずあげから加工、販売はんばいまで、お父様の会社が一手でやってるから」


 フォーチュネット伯爵家。

 伯爵家とはいいながらも、貴族としては零落れいらくしきった家だ。先代の放蕩ほうとうがたたり、持っていた広大な領地を全て売り渡してしまった家。


 だが、当代の当主には商才があった。王都で流通する海産物を取り扱う事業をとりまとめることに成功し、今では独占企業として成長させている。領地はなくとも金だけは持っている、そんな家だ。

 ただ、その金の使い方が少々変わっていた。


「お嬢様、準備を始めますから鏡台きょうだいの前に座ってください」

「はぁい……」


 食べ終わり、寝室の脇にえられた鏡台の椅子いすにリルルが座る。その背後に回ってフィルフィナはくしを取り、主人の髪をき始めた。


「約束の時間は午前十一時です。時間がないんです」

「まだ三時間もあるじゃない」

りないくらいです。お嬢様と付き合っていたら時間があっという間に過ぎてしまうんですから……そういえば、ニコル様からお手紙とお荷物が届いていましたよ」

「何故それを早くいわないの!」


 半分寝惚ねぼまなこだったリルルの目が、開いた。


「まずはえさを食べてもらうのと、この前に座ってもらうのが先ですから」

「早く見せて見せて!」


 フィルフィナが差し出した封筒ふうとうをリルルはひったくった。封を切って手紙を取り出すと、かすかにかおる紙面に、性格のこまやかさがうかがえる精緻せいちな字がびっしりと並んでいた。


「親愛なるリルル・ヴィン……ああ、ニコルったら、いっつも堅苦かたぐるしい挨拶あいさつから始めるんだから……だから好き……」


 定型文だけで、天にものぼるような心地ここちに包まれたリルルが歌う。


「わたしが読み上げましょうか?」

「自分で読めます! ええと……先日ご報告した盗賊団討伐とうばつ表彰式ひょうしょうしき、無事つつがなく終了いたしました……土地の名士めいしの方々にも多数目通めどおりかない、おめの言葉をたくさんいただきました……」

「盗賊団討伐のお話って、ニコル様が奮闘ふんとうされたあれですか」

「大勢の盗賊団に追い詰められて全滅寸前になった小隊が、ニコルの突撃をきっかけにして一気に形勢逆転した話……ああ、ニコルから直接聞きたい……」


 自分の世界にひたりきっているリルルの手から手紙を抜き取り、フィルフィナが続きを読み上げる。


「それで……褒美ほうびの品としてたまわった金の懐中時計かいちゅうどけいを、あなたの成人のお祝いとして贈ります。あなたの胸の中でこれが時をきざむことを望みます……ああ、それがおくってきたという品ですね」

「すぐ見せて!」

「見せますから、顔は自分でってくださいね」


 気合いを入れてリルルがみずからパフを取る。そんなリルルを尻目しりめに、フィルフィナは郵便局ゆうびんきょくで受け取った包みを開けた。

 中からフィルフィナの拳より少し小さいくらいの懐中時計かいちゅうどけいが現れる。重さから見て銅製だろう。金色のメッキがほどこされて、実用を優先しているのかさほどの装飾そうしょくはない。


「あんまり高価たかい物ではなさそうですね」

「これはニコルが勇気を振りしぼって戦った証拠のお品なの! フィル、ニコルの写真を出して!」

「はいはい」


 鏡台の引き出しを開ける。丁寧ていねいに布で包まれた一枚の板を手に取り、リルルはその布を取り払った。

 透明とうめいかたい板に挟まれた葉書はがき大ほどの一枚の写真が現れた。

 そこには、簡素かんそ胸甲きょうこうをつけた一人の騎士見習いの少年が写っていた。

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