「快傑令嬢、参上させていただきます!」

 柱時計のかねたたく動作が、止まった。

 石造りの地下室の四方を反響する重い音が静まるまで、まるで数分はかかったもののようにその場の全員には思えた。

 最後の音が消えてなくなるまで、誰も彼もが息をするのも忘れ、全ての神経をささくれさせて、待った。

 何かが起こる、そのはずだった。


「…………」


 ……何もない。

 何かが起こるはずなのだが、何も起ころうという気配もない。

 自分が動けば、その起こるはずのことを止めてしまうのではないかという奇妙な予感におそわれて、全員が口の中にたまった唾を飲み下すのさえ、はばかられる気分を味わっていた。


「は……は……」


 そんな、破りがたい緊張きんちょう均衡きんこうを最初に破ったのは、ゲルト侯の高笑いだった。


「……ははっ、はははは! はははは、はははははは!!」


 抑圧よくあつされていた分の反動が加わったかのように、その笑いは若干じゃっかん狂気きょうきふくんでいた。


「……なんだ、来る、来るといいながら、ついには来なかったではないか! 必ず予告通りに現れると聞いていたから、ねんには念を入れてみれば……まあ、当然だな! これだけ厳重げんじゅう警戒けいかいを見れば、その場で引き返すだろう! 無理からぬことだ!」


 緊張していた分を取り戻すかのようにはしゃぐそんな声を聞きながら、警備騎士たちは溜息ためいきをそれぞれにらした。まあ、なんにしろもう少しで帰れそうだ。早く寝たい。


「ふふふ……しかしこれで、私があの快傑令嬢とやらのたくらみを打ちくだいた最初の人間になるのか。朝には号外ごうがいみだれ飛ぶだろうな。『ゲルト侯爵、あの快傑令嬢の野望をくじく』、と――」

ねんのため、金庫の中をあらためましょう」

「は?」


 リュズナーの進言に、機嫌がよかったゲルト候の顔が一瞬にしてくも模様もようになった。


「以前にありました。金庫の中身が事前に抜き取られていたことが」

「馬鹿な。これは特別製の金庫だぞ。気づかれずにこれを開けられるわけが」

「その特別製の金庫からぬすまれていたことがあるのです。万が一が」

「……よし、そこまでいうのなら」


 こめかみにねばり着くようなあせを浮かべた侯爵が壁の金庫に向き合う。呼吸を合わせたように老執事が衝立ついたてを持ってきて、警備騎士たちの視線をさえぎった。


「この金庫は十個の鍵を、特定の順番で差し込まないと開かないのだ」

「くそ面倒めんどうな金庫だな」


 アイガスが口の中でつぶやいたのも聞こえないゲルド候の一分間の作業のすえに衝立が払われ、分厚ぶあつい封筒をかかえた侯爵が現れる。


「……書類もちゃんとあったぞ!」

「中身はちゃんと入っていますか?」

「中身だと? ちゃんとあるではないか」


 百枚はあるのではないかという厚さの封筒をかかげ、ゲルト候は不機嫌な声で応じる。


「いえ、以前にその中身がすり替えられていたんです。白紙の紙のたばが入れられていました」

「はっ……」


 顔色を変えた侯爵は、あわてて中身を取り出した。中から取り出されたのは、ひもじられた数十枚の書類だ。封筒を執事に預け、夢中で侯爵はそれを手でたぐった。


「……いや、本物だ! 抜けたページもない……はは、ははは。おどかしおって……快傑令嬢とやら、本当に手も足も出なかったようだな――」


 ――その瞬間だった。

 明らかに『風』として吹き込んできた一陣いちじんの風が、この密室に近い空間をまさしく、疾風はやての速さで駆け抜けたのは。


 バリン! バリバリバリン!!


「なっ、なんだ!?」


 四方の壁に掛けられていた無数のランプが突然に割れる。最初は出口の階段近くのそれがくだかれ、並んでかけられた十数個のランプが、心臓の拍動の調子よりも速く次々順番に破壊はかいされていくのだ。


「どうした!?」「あかりが消えていく!?」


 まるで円をえがくかのようにたたき割られていくガラスの音に囲まれ、そのたびに一段階ずつ暗くなっていく地下室の様子に、全員のきもに氷が当てられた。


 バリン、バリン、バリンバリンバリン――心を追い詰める調子で粉々こなごなになっていったランプの、最後のひとつがつぶされると、地下室はまさに一寸いっすん先も見えぬ真のやみと化した。


「何も、何も見えない!」「いてっ!」「下手に動くな!!」

「だ、誰か明かりをつけろ! 携帯けいたいランプを!」


 混乱する声が右往左往うおうさおうしてうずを巻き、その中でなんとか一人が手探りで携帯ランプを灯すことに成功する。

 気がく人間がいたのか、天井にり下げられる形で放置されていた古びたシャンデリアの蝋燭ろうそくに炎をともし、それで消えた分の明るさが取り戻された。


「な……なんだったんだ、今のは!」


 頭皮の全てに脂汗あぶらあせをにじませ、書類を抱えたまま十度もグルグルとその場で回転していたゲルト侯爵が、周囲を何度も何度も見渡す。壁に設置されたランプのことごとくがたたき割られ、ガラスの破片はへんを無残にき散らしている――が、ぞくらしい者の姿が見えないのだ。


 あり得ない異変の発生に警備騎士たちも列をみだし、自分の前後左右にいる同僚どうりょうの顔を確かめようと視線を彷徨さまよわせていた。


 それも十秒と続かない混乱であったことを、みつこうと飛びかかってくるへびの勢いで手元におそいかかってきた次の一手によって、ゲルド候は知った。


「うっ!?」


 シュッ! と空気をつらぬく気配が自分の喉元のどもと目がけて走ってきたかと思うと、手元に大きな衝撃がかかる――引っ張られている感覚がする!


「なんだ!?」


 ゲルド候の腕の中、ひもかたじられている書類に、一本のなわ――いや、ムチ・・がしっかりと巻き付いているのだ!


「うわ!!」


 ゲルト候が書類を抱きかかえようとするよりも早く、書類に巻き付いたムチは、糸を引いた魚を釣り上げるのに似たするどい勢いで、向こうに手繰たぐり寄せられていた。


 地下室の中を、ムチに巻き付かれた書類が飛ぶ。呆気あっけにとられるゲルド候と警備騎士たちが視線で追った分厚い書類の束は、いつの間にか集団から離れ、地下室のすみに立っていた一人の警備騎士の腕の中に飛び込んでいた。


「き、貴様、何をするか!?」


 他の警備騎士と出で立ちは同じだが、明らかに気配がちがうと感じられるその異質な警備騎士に、全員の注目が、特にゲルト候の血走った目が向けられた。


「――感謝します!」


 ゲルド候のわめきに、書類の束をいとおしげに抱きしめた警備騎士は、どこか色香を匂わせる口元で微笑ほほえんだ。

 他の警備騎士と同じ白いかぶと目深まぶかに被り、目元を見せないその格好からは、よくよく見るとかなりの違和感いわかんが伝わってくる。

 かなりの細身、そして小柄こがら……おそらくは、ここにいる全員の中で最も背が低いくらいの――。


「誰だ、あいつ――」


 明らかに見覚えがない背格好をした同僚どうりょうの出現に、列を乱している警備騎士たちがざわめく。

 そんなざわめきも楽しげなものとして聞くように、この場でただ一人余裕を持っているその細身の警備騎士が、うたうように宣言した。


「その金庫をどう開けようかなやんでいたんですが、ご自分で開けていただいて助かりました!」

「お前、誰だ!」


 小隊長にして唯一ゆいいつの正騎士であるリュズナーが剣を抜く。するどい切っ先を向けられても、小柄な警備騎士は平然としていた――いや、笑っていた。

 どこかあでやかな不敵な笑みを作っているのは、なまめかしさを帯びたくちびる――男のそれには見えない、女のものだ!


「ふふ――」


 突然、小柄な警備騎士の姿に水平に走る無数の線が走り、人の輪郭りんかくが大きく揺れるようにブレた。実体から幻に変化するかのようなその現象に、魔法による幻惑げんわくか、とうたがったリュズナーだけでなく、周囲の十数人が反射的に自分たちの目をこする。


「奴は、予告通りに現れなかった――その認識は今、この場で速やかに訂正ていせいしていただきます!」


 人の輪郭を失いつつある姿が、声と共に大きくひるがえる。背中から外されたマントが宙に広がり、意を決してみ込んだリュズナーがそのマントに向かって渾身こんしんの突きを入れる――が、剣はマント以外の何も貫かなかった。

 刀身に絡みついたマントをリュズナーが振り払いけた向こうには――小柄な警備騎士の姿などはない!


「それではみなさま、大変長らくお待たせいたしました!」


 美しい調しらべの声が飛んだ。薄桃色うすももいろはなやかに広がるドレスに身を包んだ少女が、若草わかくさと花のにおいに香り立つような雰囲気ふんいきをまとい、光さえ放つ高貴さを見せてそこにいた。。


 美しい鎖骨さこつの線と胸元、そして細い二の腕がのぞく薄桃色の可憐かれんなドレス。

 鍔広つばひろ薔薇バラの花一輪をかたどった帽子ぼうしくるぶしも見せないほどに長く広くふくらんだスカートの下で赤いハイヒールが見え隠れしている。

 かすかに青みがかった美しい銀色の髪は背中まで長く伸びて、健やかな少女の印象を輝かせていた。


 小さな作りの顔は大人びてはいない。愛らしい、という表現が似つかわしい大きな目。アイスブルーに彩られた瞳がきらきらと輝き、なにより印象に残るのは、その目を縁取ふちどるようにかけられた、赤いフレームのメガネ!


「くっ……!」


 もう何度現場でお目に掛かったかわからない少女の姿を必死に見ようと、頭の奥に走った痛みに顔をしかめながらアイガスは目をこらした。

 よほど集中して少女の顔を見ていないと、その顔立ちが脳に染みこまない――覚えたと思った先から、記憶から顔の印象ががれていく!


「私のことをご存じない方もいらっしゃるようなので、ここで改めてご挨拶あいさつさせていただきます!」


 翼を広げるようにスカートの裾を持ち上げ――うやうやしく膝を曲げて身をかがめ、少女――快傑令嬢と呼ばれた彼女は、その場の全員に対して見事なカーテシーを披露ひろうしていた。


「快傑令嬢リロットはただいま、みなさまの前に参上させていただきました!」


 明るいソプラノの声でそう歌った快傑令嬢――リロットと名乗った少女が、レンズの向こうのいたずらげなひとみに笑みを浮かべ、上目遣うわめづかいに前を向いていた。


「よくも現れたな! いつもいつも――快傑令嬢などと自分で名乗りおって! ずかしくはないのか!」

「まだちょっぴり恥ずかしいです――しかし、もうれました!」


 リュズナーが左腕を上げる。整列していた騎士たちがざっと広がった。壁を背にする少女――リロットを扇の形に包囲ほういする。

 少女にとっては逃げるすべのない形。ドレス姿の少女を取り囲み、リュズナーは部下の怨嗟えんさを代表するかのように、大音声だいおんじょうを張り上げた。


「ここでったが百年目! 貴様のために犠牲ぎせいになった、数々のもののかたきをとらせてもらう!」

「私は一人として、あやめたりなどはしていません!」

「――消された有給休暇ゆうきゅうきゅうか! 支給しきゅうされるはずだった特別賞与とくべつしょうよ! 失われた妻の愛情! 向けられなくなった息子や娘の尊敬そんけい眼差まなざし! その他もろもろ! 全て――全て貴様のせいだ!!」

「それは――本当にごめんなさい!」

「許すものか! かかれ! 今夜こそこの娘をつかまえろ!」


 リロットを囲んだ五人の警備騎士たちが一歩、じりり、と間合いを詰めた。

 それでもおびえぬ少女の右手に、いつの間にか一本のムチが握られている――長さ五メルトほどのしなやかなムチ!


「俺も行きます!」

「おい、やめろ」


 隣の若い長身の若い騎士がはやるのを、アイガスが止めた。


「あんなご令嬢に合法的に抱きつけるなんて好機チャンス、そうそうありません!」

「危ないぞ、あのムチは」

「ムチを振るったとしても打てるのは一人です! 誰かが犠牲ぎせいになってる間に、俺は思いをげます!」

「そんな簡単にことがすんだら、とっくにつかまえられているんだ。いいから戻――」

「一斉にかかれ!」


 若い騎士をふくめた六人の騎士が、下った号令に合わせ、一度にリロットに飛びかかった。

 群がるようにして向かってくる騎士たちを前に、リロットは退しりぞかない――それどころか、鋭いみ込みが前にきざまれた。稲妻いなずまのような前進と同時に腕が振られ、風を切ってムチの先端が弾丸の勢いで飛んだ。


「ひぃっ!?」


 少女に飛びつこうとした六人の全員がそれぞれに悲鳴を上げる。ムチの先端がかれたように六つに分かれ、そのひとつずつが自分に向かって走って来たからだ!


「ぎゃっ!」「ぐぇっ!」「ああんっ!」「げふっ!」「ひゃうんっ!」「ごぁっ!」


 ムチの一撃はおそいかかってきた六人の急所――脳天のうてん、首筋、心臓、その他――を、防具の上から的確かつ同時に叩き、全員を一振りの元に打ち倒す。

 ズシャア、と音を立てて騎士たちが床に転がり、振り抜かれたムチの先端が生きている六匹の蛇のように鎌首かまくびをもたげ、やがて元の一本のムチに戻った。


「ちくしょう! まただ! だから止めたのに!」


 床に倒れて悶絶もんぜつしている六人、その内の天国に達したような表情を浮かべている二人を見てアイガスは怒りをあらわにした。


「これでまた二人が目覚めちまった! そのうち変な店に出入りするようになって身を持ちくずす! いったい何十人目なんだ!」


 王都警備騎士団、特に王都の全区域において事件が起こった際、真っ先に急行する遊撃隊ゆうげきたい崩壊ほうかいしかかっているおもな原因がこれだった。


「いい加減、そのムチで俺たちを変態へんたいとすのはやめろ!」

「言いがかりです! このムチにはそんな効果はありません!」

「俺たちが、小娘にムチで打たれたら目覚めてしまう変態の集まりだっていいたいのか! 許せん!」

「そんなことはどうでもいい!」


 リュズナーが怒声どせいを張り上げる。部下たちの無様な姿に、目が限界げんかいまで吊り上がっていた。


「一人の小娘に何を手間取っているんだ! 抜剣ばっけんしろ! 斬っていい!」


 転がってもだえる同僚たちの様子に士気をくじかれていた騎士たちが、動揺どうようの中で剣を抜いた。

 リロットもそれに応え、刀身が納まったレイピアのさやを握っている――レイピア?

 そんなものは、少女は帯びても差してもいなかったはずだ。今まで影も形もなかったものが、いつの間にかそんな所に――。


「何人来ようと私は負けません! 一度にかかって来られなさい!」

「望み通りにしてやる! 行け!」


 三人の騎士が呼吸を合わせ、一度に突きかかった。

 それに応じてリロットが動いたのは――またもや、前!

 冷たくてついた部屋に、乾いた音が重なるように響いた。


「いてっ!」「あだっ!」「ひでっ!」


 三人の騎士の手から三本の剣が叩き落とされ、加えられた腕の打撃に悲鳴を上げて騎士たちは倒れた。

 一呼吸のうちに少女から六つの電光のごとき突きがり出され、騎士たちの剣と腕をしたたかに打ったのだ。


 ぶん、と少女はレイピアで空をる。切っ先が空気を擦って鳴らした音に、包囲ほういしているはずの警備騎士たちが無意識のうちに半歩、後ずさった。


「つ……強えな、相変わらず!」


 アイガスは歯噛はがみするしかない。常に一対多数の戦いをいているというのに、傷一つつけることができたためしがない。いつも地面に転がされてうめかされるのは自分たちなのだ。


「は、はは、早く書類を取り返すのだ!」


 ようやく割り込む隙間すきまを見つけたゲルト侯爵が大声でわめいた。


「その書類は、絶対に外にらしてはいかんのだ! リロットとやら! それを返せ!」

「そうですか。では、お返しします」

「は?」


 素直すぎる返答に一同が呆気あっけにとられる前で、少女は書類を綴じているひもを引っ張り、するりといた。


「私の目的は、この書類を息苦しい箱の中から出してあげること――」


 ――そうだ。確かに、予告状にはそう書かれていた。

『書類をいただく』とは書いていなかったはずだ。

 書類を持った少女の手が、勢いよく上げられる――それを見たゲルト侯爵の、金属同士をこすり合わせたような悲鳴が地下室に響き渡った。


「目的は達しました――これは、そっくりそのままお返しいたします!」


 その手が広げられ、高い天井に届くほどに放り投げられた数十枚の紙が、花吹雪はなふぶきのように舞いながら散らばった。

 心が割れているかと思える甲高かんだかい悲鳴を上げ続ける侯爵の心をかき乱すように、たばになっていた紙は無残むざんほどかれ、ほぼ地下室全体の広範囲にばらまかれた。

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