「快傑令嬢、参上させていただきます!」
「…………」
耳鳴りと頭痛に耐えながら、全員が息を殺して今現在の状況を確かめた。
……何もない。何も起ころうという気配もない。
そんな均衡を最初に破ったのは、ゲルト侯の高笑いだった。
「……ははっ、はははは! ……なんだ、ついには来なかったではないか! 必ず予告通りに現れると聞いていたから、念には念を入れてみれば……まあ、当然だな! これだけ厳重な警戒を見れば、その場で引き返すだろうな!」
警備騎士たちの口から溜息が漏れる。もう少しで帰れそうだ。早く寝たい。
「ふふふ……しかしこれで、私があの快傑令嬢とやらの企みを打ち砕いた最初の人間になるのか。朝には号外が乱れ飛ぶだろうな。『ゲルト侯爵、あの快傑令嬢の野望を
「念のため、金庫の中を改めましょう」
リュズナーが進言する。
「以前ありました。金庫の中身が事前に抜き取られていたことが」
「馬鹿な。これは特別製の金庫だぞ。気づかれずにこれを開けられるわけが」
「その特別製の金庫から盗まれていたことがあるのです。万が一が」
「……よし、そこまでいうのなら」
侯爵が壁の金庫に向き合う。老執事が
「この金庫は十個の鍵を、特定の順番で差し込まないと開かないのだ」
一分間の作業の末、衝立が払われた。分厚い封筒を抱えた侯爵が現れる。
「……書類もちゃんとあったぞ!」
「中身はちゃんと入っていますか?」
「中身だと? ちゃんとあるではないか」
「いえ、以前にその中身がすり替えられていたんです。白紙の紙の束が入れられていました」
「はっ……」
侯爵があわてて中身を取り出す。紐で綴じた数十枚の書類だ。封筒を執事に預け、夢中でそれを手で
「……いや、本物だ! 抜けた
一陣の風がこの密室に近い空間を駆け抜けたのは、まさにその瞬間だった。
四方の壁に掛けられていた無数のランプが突然に割れる。最初は出口の階段近くのそれが砕かれ、十数個のランプが心臓の拍動よりも速く次々順番に破壊されていった。
「なんだ!?」「灯りが消えていく!?」
まるで円を描くかのようにひとりでに壊れていくランプの破壊音に囲まれ、その度に一段階ずつ暗くなっていく地下室の明るさに、全員の肝に氷が当てられる。
バリン、バリン、バリンバリンバリン――心を追い詰める調子で粉々になっていったランプの最後のひとつが潰されると、地下室はまさに一寸先も見えぬ真の闇と化した。
「何も、何も見えない!」「いてっ!」「下手に動くな!!」
「だ、誰か明かりをつけろ! 携帯ランプを!」
混乱する声が右往左往して渦を巻き、その中でなんとか一人が手探りで携帯ランプを灯すことに成功する。続いて天井から吊り下げられていたシャンデリアに誰かが火を点け、地下室は元の明るさを取り戻すのに成功した。
「な……なんだったんだ、今のは! 風にあんなことができるわけがあるまいに――」
その頭いっぱいに脂汗をにじませ、書類を抱えたまま十度もグルグルと回転していたゲルト侯爵が周囲を何度も見渡す。闇に乗じて
シュッ!
「うっ!?」
紐で硬く
「き、貴様、何をするか!?」
悪ふざけとは思えない。ムチ一本で巧みに書類を奪い取って見せた警備騎士にゲルト侯の悲鳴が飛び、その場の全員の注目が集まった。
「――感謝いたします」
全員の視線を浴びる警備騎士の口元に笑いが浮かぶ。兜を目深に被り、目元を見せないその姿は冷静に見るとかなり小柄だ。おそらくは、ここにいる全員の中で最も背が低いくらいの――。
「その金庫をどう開けようか悩んでいたんですが、ご自分で開けていただいて助かりました」
「お前、誰だ!」
唯一の正騎士であるリュズナーが剣を抜いていた。その切っ先を向けられても、その小柄な警備騎士は平然としていた。いや、笑っている。唇に
「……ふふふ」
小柄な警備騎士の姿が、ブレた。水平に走る無数の線にその輪郭が大きく揺れる。魔法による幻惑か、とリュズナーだけでなく、周囲の十数人が反射的に自分たちの目をこすっていた。
「奴は、予告通りに現れなかった。――それは訂正していただきます!」
声と共に体が翻った。背中から外されたマントが宙に広がった。リュズナーがそのマントに向かって突きを入れる――が、その剣はマント以外の何も貫かない。
絡みついたマントを剣が振り落とした向こうには――小柄な警備騎士などはいない!
「大変長らくお待たせいたしました!」
美しい
二の腕と胸元がのぞくドレス。髪を飾る花のような帽子、赤いハイヒールが少しだけのぞくほどに長く広く膨らんだスカート。
微かに青みがかった銀色の髪は、背中まで長く伸びて少女の印象を輝かせている。
小さな作りの顔は大人びてはいない。愛らしい、という表現が似つかわしい大きな目。アイスブルーに彩られた瞳がきらきらと輝き、なにより印象に残るのは、その目を縁取るようにかけられた赤いフレームのメガネ!
「くっ……!」
もう何度現場でお目に掛かったかわからない少女の姿に、アイガスは目をこらした。頭の奥に痛みが走る。
よほど集中して少女の顔を見ていないと、その顔立ちが脳に染みこまない。必死に覚えようとするその顔が脳に染みこまない!
「私のことをご存じない方もいらっしゃるようなので、ここで改めてご
翼を広げるようにスカートの裾を持ち上げ――うやうやしく膝を曲げて身をかがめ、少女――快傑令嬢は、その場の全員に対して見事なカーテシーを披露していた。
「快傑令嬢リロットはただいま、みなさまの前に参上させていただきました!」
明るいソプラノの声でそう歌った快傑令嬢――リロットと名乗った少女が、レンズの向こうのいたずらげな瞳に笑いを浮かべて、上目遣いに前を向いていた。
「よくも現れたな! いつもいつも――快傑令嬢などと自分で名乗りおって! 恥ずかしくはないのか!」
「まだちょっぴり恥ずかしいです――しかし、もう慣れました!」
リュズナーが左腕を上げる。整列していた騎士たちがざっと広がった。壁を背にする少女――リロットを扇の形に包囲する。
逃げる術のない形。ドレス姿の少女を取り囲み、リュズナーは部下の
「貴様のために、犠牲になった数々のものの仇をとらせてもらう!」
「私は一人として、
「――消された有給休暇! 支給されるはずだった特別賞与! 失われた妻の愛情! 向けられなくなった息子や娘の尊敬! その他もろもろ! 全て貴様のせいだ!」
「それは――本当にごめんなさい!」
「許すものか! かかれ! 今夜こそこの娘を捕まえろ!」
リロットを囲んだ五人の警備騎士たちが一歩、じりり、と間合いを詰めた。
怯えぬ少女のその右手に、いつの間にか一本のムチが握られている――長さ五メルトほどのしなやかなムチ!
「俺も行きます!」
「おい、やめろ」
若い長身の若い騎士が
「あんなご令嬢に合法的に抱きつけるなんて好機、そうそうありません!」
「危ないぞ、あのムチは」
「ムチを振るったとしても打てるのは一人です! 誰かが犠牲になってる間に、俺は思いを遂げます!」
「そんな簡単にすんだらとっくに捕まえられているんだ。いいから戻――」
「一斉にかかれ!」
六人の騎士が、下った号令に合わせて一度にリロットに飛びかかった。
リロットは
少女に飛びつこうとした六人が悲鳴を上げる。ムチの先端が裂かれるように六つに分かれ、それぞれが自分に向かって走って来たからだ!
「ぎゃっ!」「ぐぇっ!」「ああんっ!」「げふっ!」「ひゃうんっ!」「ごぁっ!」
襲いかかる六人の急所――脳天、首筋、心臓、その他――が、防具の上から的確かつ同時に叩かれ、その全てを一瞬で
振り抜いたムチの先端が六匹の蛇のように動く。生きているように自ら鎌首をもたげる。
「ちくしょう! まただ! だから止めたのに!」
床に倒れて悶絶している六人、その中で天国に達したような表情を浮かべている二人を見てアイガスは怒りを露わにする。うち一人は、アイガスの制止を振り切った若い騎士だった。
「これでまた二人目覚めちまった! そのうち変な店に出入りするようになって身を持ち崩す! いったい何十人目なんだ!」
王都警備騎士団、特に全区域において有事が起こった際、真っ先に急行する遊撃隊が崩壊しかかっている主原因がこれだった。
「いい加減、そのムチで俺たちを変態に堕とすのはやめろ!」
「言いがかりです! このムチにはそんな効果はありません!」
「俺たちが、小娘にムチで打たれたら目覚めてしまう変態の集まりだっていいたいのか! 許せん!」
「そんなことはどうでもいい!」
リュズナーが怒声を張り上げる。部下たちの無様な姿にその目が限界まで吊り上がっていた。
「一人の小娘に何を手間取っているんだ! 抜剣しろ! 斬っていい!」
転がって悶える同僚たちの様子に士気を
リロットもそれに応えるように左手にレイピアの鞘を握っている。今まで影も形もなかったものが、いつの間にかそんな所に――。
「何人来ようと私は負けません! 一度にかかって来られなさい!」
「望み通りにしてやる! 行け!」
三人の騎士が一度に突きかかった。
それに応じてリロットが動いたのは――またもや、前!
冷たく
「いてっ!」「あだっ!」「ひでっ!」
三人の騎士の手から三本の剣が叩き落とされ、加えられた腕の打撲に騎士たちが悲鳴を上げて倒れた。一呼吸のうちに六つの突きが繰り出され、騎士たちの剣と腕を打っていたのだ。
ぶん、とレイピアが空を斬る。包囲しているはずの警備騎士たちが無意識のうちに半歩、後ずさった。
「まだ来られますか! これ以上は容赦はできません――それでもいいというのなら、かかってこられませ!」
「つ……強えな、相変わらず!」
アイガスは
「早く書類を取り返すのだ!」
ようやく割り込む隙間を見つけて、ゲルト侯爵が大声で
「その書類は絶対に外に漏らしてはいかんのだ、リロットとやら! それを返せ!」
「では、お返しします」
「は?」
素直すぎる返答に一同が
「私の目的は、この書類を息苦しい箱の中から出してあげること」
そうだ。確かに、予告状にはそう書かれていた。
『書類をいただく』とは書いていなかったはずだ。
勢いよく腕が上げられる――ゲルト侯爵の、金属同士をこすり合わせたような悲鳴が地下室に響き渡った。
「目的は達しました。これはお返しいたします!」
その手が広げられた。数十枚の紙が吹雪のように舞う。
侯爵の心をかき乱すように、束になっていた紙はほぼ地下室全体の広範囲にばらまかれた。
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