第10話 名前。

 昨日、つまらないギャグと引き換えに教えてもらった宿題を提出し、帰路に就こうとした。

 「本多くん!」

 誰かが呼ぶ声がした。その「誰か」に思い当たる節があるのだけれど。

 「ねえねえ、本多くーん!」

 廊下を走る音が聞こえる。授業が終わり、解放感に満ちた高校生で溢れた廊下にとても小気味のいい音が僕の鼓膜だけに直接響いている。

 「本多くんってば! なんで無視するの?」

 「いや、僕のことを呼んでいたとは思わなくて」

 「本多、なんて名字の人は他にいないでしょ?」

 真面目な顔をしながら僕の顔を覗き込んでくる。……反則だ。

 「ところでさ、昨日の約束、覚えてるよね?」

 「昨日? 約束なんかしたっけ?」

 「忘れたの? 分かった、物理の先生に告げ口してくる……」

 僕は慌てた。物理の先生は普段優しいのだが、宿題を誰かに写させてもらったり、宿題を忘れたりすると、課題の点数を0点にする。しかし僕はあまり目立たない生徒だからか、平野に写させてもらったことは何度もあるのに、0点にされたことがない。信用されているのか、成績が悪いからお情けなのか分からない。

 答えを教えてもらったことを言われたら、ついに0点を貰うかもしれない。先生の信用を失うかもしれない。お情けされなくなるかもしれない。唯一の得点源である提出点がなくなると、マズいのだ。

 「それは困る!」

 「……約束は?」

 「覚えてます……」

 「よろしい」

 怒った顔から、満足げな顔に変わった。やっぱり表情筋が柔軟だ。

 「じゃ、帰ろう?」

 寺田さんの後をついていく。逃れられそうにないことを察し、僕はため息をついた。


 「本多くんは将来の夢とか目標ってある?」

 「う~ん、今のところはないかな」

 「今のところは? 昔はあったの?」

 「小学生の時はあったよ。卒業文集にも書いたし」

 小学生のほとんどがそれぞれ将来の夢を持っていた。女の子はケーキ屋さんや花屋さん。男の子はスポーツ選手が多かった。

 僕の小学生時代の夢は、バスの運転手だった。

 近所に小さなバスターミナルがあって、小さいころからバスターミナルの近くにある歩道橋から、バスを見ていた。

 在来線が二つ通っている、比較的大きな駅に向かうバスに乗り込む人々は、年齢・性別問わずいた。

 疲れた顔をしたサラリーマン。杖をついた腰の曲がっているおばあちゃん。その大変そうなおばあちゃんに優しく声をかける、眼鏡をかけた女子高校生。多くの人々が細長い車に乗って、ぎゅぎゅう詰めになりながら、駅に向かう。

 人々の一日に必ず関係して、身近にあったバス。責任もって目的地まで運ぶ姿が、とてもかっこいいと思った。そのとき、バスの運転手に強い憧れを持った。

 中学校、高校と学年が上がるにつれて将来の夢というものが現実的になってくる。安定的な公務員を目指したり、サラリーマンやOLになる。偏差値の高い大学に入り、就活戦争に打ち勝ち、大企業に入る。そして安定した生活を手に入れる。小学生のときの夢を現実にしようとする人はなかなかいない。

 僕は、描いていた将来の夢というのは本当に夢物語であると気づいた。将来の夢というものを気づいたら信じなくなっていた。

 「寺田さんは? 何か夢あるの?」

 「ん~私はね~」

 寺田さんは何か考え込んでいた。そんなに考え込むような質問したかなと思っていると、

 「あ、本多くん」

 「ん? 何?」

 「約束。」

 「え?」

 「忘れたの?」

 「……あ」

 「思い出した?」

 寺田さんは悪戯っぽく笑った。

 「うん……」

 僕は一息ついてから、その約束を果たそうとした。

 「……み、」

 「あ、平野くんがいる。平野くーん」

 「あ、みおちゃん!」

 「平野くんさ~、あの授業の話聞いてた? ずっと寝てたでしょ」

 寺田さんは平野と楽しげに話をしている。なんだなんだ。いつの間に、平野と寺田さんに接点があったのか? 

 僕はぐるぐると頭を回転させて検証していった。合唱祭の時? いや、違うな。あの時は女子と男子であまり話さなかったはずだ。しかもそのとき、平野はいつも僕の近くでいかがわしいタッチをしていたから、接点を持つことは不可能。

 となると、夏休みか? ……あり得るな。平野は意外とああ見えて社交的だ。女子の友達も多い気がする。

 ……ちょっと待てよ……。

 なんでお前が、寺田さんを下の名前で呼んでいるんだ?

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