第2話 放課後のラッキー・イベント?
一体誰だろう。
両脚を机の脚にグイッと押し付けているようにも見えた。
スカートの裾が乱れ、彼女の太ももが露わになる。
すると突然女の子が顔をこちら側に向けた。
目は閉じたまま。湿気なのか汗なのか、はたまた両方かは分からない。髪は乱れ、顔のほぼ半分を覆ていた。
知った顔だ。
しかし、その子はこのクラスの生徒ではなかった。
何度か廊下や登下校時にすれ違っていたんだろう。
おそらく隣のクラスの女子生徒だと思う。
名前を知っていないということは目立たないグループに属するか、あるいは三年間の高校生活で、一度も言葉を交わす機会のない生徒だったかもしれない。
まだ新学期が始まって一か月余り。
自分で言うのもなんだが、人見知りする性格で、初めて接する生徒と親しくなるまでに要する時間は人の二倍三倍も掛かってしまう。
そのせいもあって、親友と呼べるような心を割って話せる友人は二人ほど。
中学ではクラスになじむのが遅く、なかなかクラスの輪の中心へ入れなかった反省から、高校では少しでも早くクラスに溶け込めるよう努力した。
その甲斐あってかクラスメイトの顔と名前は全員分頭の中に入っている。
それだけに間違いはない。
表情は紅潮し、目は閉じられ、いや半開きだろうか? 恍惚とした表情をしている。
僕の耳に飛び込んできたのは、この場に最もふさわしくない、ややかすれたような濡れた声。
「……はぁ、はぁあぁ……はっ、ぁあぁぁ……」
指の動きが速くなるのに呼応して、彼女の口から洩れてくる喘ぎ声――とでも表現するのだろうか――も次第に間隔を縮まっていく。
しばらく間をおいて、再び途切れ途切れにピッチを速めた彼女の息遣いがはっきりと聞こえてきた。
「んっっ……んっ……はあ、はあ、はあ……」
もはや疑いようがない。彼女は……。
「はんっ、ああ……い、い、い」
幸い彼女はまだ 僕の存在には気づいていないようだ。
それだけ行為に没頭している証かもしれない。今ならまだ彼女に気付かれないよう、この場から引き返せるのではないかと思ったが、なぜだか躰が言うことを聞いてくれない。
このまま自分が気配を消し音もたてずに何事もなかったかのように立ち去れば、順風で波風も立たない高校三年間の生活……、ただし至極退屈な三年間が待っているはずだった。
その子の手の動き。小刻みに震える下肢。
靴の先端はピンと伸びきって床から上放れしたがっている。
そして何より陶酔しきって、快楽の極点に到達寸前であるかのような彼女の表情がそれを物語っている。
そしてついに“その時”を迎えたようだ。
僕は一瞬にして彼女が何を行っているのかを悟った。
そしてついに彼女の視線と僕の視線がバッティングする。
彼女もようやく僕の存在に気付いたようだ。
教室のドア付近に気配を感じた女の子が“ハッ”とした表情を見せたかと思うと一変、“キッ”と眉間にシワを寄せた鬼神のような表情で僕の方を睨み返してきた。
おそらく彼女の方もクラスは違うし、顔はたまに見かけるから存在は認知しているが、僕の名前までは分からないはずだ。
最初、さすがに「しまった!」といった驚きの表情をこちらに向けた彼女だったが、次の瞬間「見たわね!」と、でも言いたげな、凄みのある面で僕の心臓を射抜くように威嚇してきた。
そう、まるで捕食者が獲物を射程距離に追い詰めた時のような……。
おそらく、彼女には僕の態度が呆けてだらしのない、あるいは目が泳いで焦点の定まらない表情に見えたのだろう。
僕のそんな心象を見透かしたかのような彼女の冷たい眼差しが、僕の全身に注がれる。
その場の空気が一瞬凍り付いたようだった。
髪は、ややショート気味。
肩までかかるかどうかといった程度の長さだろうか?
髪は美容院ではなく、いまだに近所の理容院で散髪してもらったような髪形。
両の眉毛は乱れた前髪で隠れ、大きく見開かれた両目が僕を睨みつける。
全体の雰囲気はいまだに中学生時代をそのまま引きずっているかのよう。
『あか抜けない』あるいは『やぼったさ』が抜け切れていない。
それが僕の彼女に対しての第一印象だった。
女の子は普通、高校に入学すると途端に少女から大人のオンナに脱皮する。ためにこの時期の女の子は一気にステップアップして女子力に磨きをかける。
言い方を変えると色気づくとでも言えばいいのだろうか。
美容院に通いだし、髪形を大人びた雰囲気にイメチェンするのは自然な流れ。
化粧を始めるのもこの時期だろう。
そうやって、いつまでも精神的に子供の男子を容赦なく置いてきぼりにしていくものだが、目の前の女子は少し違って見えた。
顔の造りは一見派手で十分可愛い部類に入っていると思うのだが、さすがに眉間にシワを寄せてこちらを睨まれている身としては複雑な気分だ。
髪の毛が、汗と湿気で顔にまとわりついたままだというのに、彼女は払いのける様子もない。
でも、なぜ違うクラスの女子生徒が自分のクラスにいるのか?
そしてそこで、他人に見られる危険を冒してまで行う必要もない……と、僕個人は思うのだが……そんな恥ずかしい行為をなぜ行っていたのだろう?
あいにくと、その答えまでたどり着くまでの、明確な根拠を見いだせずにいた。
聞きたいことは山ほどあるが、まずはこの急場をどうやり過ごすかが最優先だ。
「…………」
だめだ! こんな状況でどんな声を、言葉を彼女に掛ければいいていうんだ。
いっそのこと何も無かったことにして、この場を立ち去ってしまいたい衝動に駆られていると彼女の方から口火を切ってきた。
「いつから見ていたの?」
初めて聞く彼女の声は意外にも冷静だった。
対して僕の口から咄嗟に絞り出した声は、情けなくも、男として呆れかえるほどヘタレな一言だった。
「 『はんっ、ああ……い、い、い』の辺から……」
彼女の顔色が一層怒色を帯びていくのが分かった。
「アッ、ごめん」
「ごめんってなに!? あなたは何に対して謝っているの!? 謝るっていうことは、私の今やっていた行為が何なのか理解しているということよね!?」
「えっ、それは、そのう……何なんのかな?」
「ごまかさないで! 分かっているんでしょ? 私が今ここで何していたかを? 代わりに私が今ここで答えてあげましょうか?」
彼女は声を一段と荒げて言った。
「そんなの言えないよ……」
「意気地なし!」
そう言われてなぜか「ぞくっ」としたのは、本意ではないがやや自分にMっ気があるってことなのだろうか?……
「もしかし、オナ……」
その次の言葉を言おうか言うまいか躊躇っていると、彼女の方から、「ほ~ら分かっているんじゃない、そうよその通り。
私は誰もいない放課後の教室で一人、気持ちいいことしてたの。はっきり言ってしまえば、オナニーよ! オ・ナ・ニ・イ!」
彼女は、僕が飲み込んだ言葉をなんのてらいもなく代弁してくれた。
なんて大胆な物言いをする女の子だろう。僕が言うのを躊躇っているというのに、あまりに開けっぴろげに……、相当気が強そうな女の子だ。
「あ~あっ。せっかく念入りに下調べも済ませて、準備万端整えて臨んだ今日という日だっていうのに、どうしてこうなった?……」
やや不貞腐れた顔つきの目の前の女の子は、僕をずっと睨みつけたまま上体を斜めに傾けたままの姿勢でつぶやいた。
しかし、その不遜な態度とは裏腹に朴訥として、憑き物が取れたかのような表情にも見えた。
「緊張感のある設定での自慰行為で、なにか掴めるかと思っていたんだけど、それもこれも、想定外のあなたの出現で台無しだわ」
ようやく冷静さを取り戻した僕は、「教室のドア、閉めていいよな」と、一応彼女に許しを得て、廊下に人影のないことを確認するとできるだけ音を立てずにドアを閉めた。
そして、あらためて、彼女の座る席に近づくと、気になっていたことを彼女に問い質してみることにした。
「えっと……そ、そこ確か出雲の席だったよな?」
「ど、どうしてそんな事知っているのよ?」
大胆さとはあべこべに不意を突かれて動揺したのか、彼女の声が裏返っているのが可笑しかった。
「だってその席の後ろ、僕の席」
「えっ?」
振り返る必要は感じないが、咄嗟に彼女は後ろの席を確認した。
席順はクラス担任の榊先生の怠慢のせいもあって入学した当初のまま。
一か月たった今でも席替え無しに、窓際最前列から出席番号順に、愛宕山、出雲、伊勢、大神……だったっけ。
僕は伊勢で前から三番目。
出雲はその一つ前。
当然出雲の席で彼女がなぜ、人にみられるリスクを冒してまで危険な行為に及んだのかを知る必要が僕にはある。
いや、そんな事は必ずしもないのだが……。
「どうして君は、出雲の席で……? もしかして君、出雲神内のことを?」
「そ、そんなのあなたにいう必要はないわ!」
ついさっきまで鬼の形相で僕を睨みつけていた彼女が、一瞬にして恋する乙女の顔になった。
どうやら図星らしい……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます