第3話 自慰行為の正当性

 僕の名字は『伊勢』で前から三番目の席が割り振られていた。


 出雲はその一つ前。


 もう一度確認の意味も込めて彼女に問うてみた。


「君がなぜその席で、自分を慰める行為に至ったかはあえて触れないでおくが、なぜその席なんだ? どうして出雲神内の席でなんだ? まあ、言いたくなければ無理強いはしないが……」


「……あなたが現れなければ……、あなたが私のテリトリーに土足で踏み込んでくるような、想定外の事態さえ起こらなければ全て順調にいっていたのに……。全部あなたの出現で台無しよ! 責任とってもらいたいくらいだわ! ほんと」


「分からず屋も良いとこだ、そんなの君の思い込みだろ。君は出雲に好意を寄せていることは何となくわかったが……その何ていうか、そんなに恋焦がれて……、オナニーするほど好きだっていうのか?」


「はっきり言うわね。ええそうよ、でも赤の他人のあなたには関係ないことでしょ?」


「そこのところをもう少し詳しく教えてくれないか? もしかしたら何か、二人のためにできることがあるかもしれないし。少なくとも君より僕の方が出雲に近しいのは確かな様だからな」


 やや、間をあけて彼女が口を開いた。


「そ、それは……めぼれよ……」


 さっきまでの元気良しは度どこへ行ったのやら、あまりに急変した彼女の心の内が読めないでいると、

「一目惚れよ! 一目惚れ! 私だってまさか偶然電車で出くわした見ず知らずの男の子に一目惚れなんてするなんて、夢にも思わなかったわ!」


 そう言うと彼女は頬を赤く染め下を向いた。


 まあ、正確に赤くなどなっていないのだが、僕の願望込みでそう見えたと言うべきだろうか? それとも、彼女のあまりに急激な表情の変化から、そんな風にうかがえたと言うべきだろうか?


 少し間をおいて彼女が頭をグイッと上げる。


「出雲君を見初めたっていうのかしら、初めて彼の存在を知ったのは中三の夏休み前だから七月の初旬くらいだったと思うんだけど。 ターミナル駅の駅ビルのスポーツ用品店に、サマーキャンプの飯盒炊飯で使う道具の買い出し向かう電車の車内だったわ」


 この子いきなり語りだしたよ……!


 そう語る彼女の声のトーンそれまでのトーンとは打って変わって、落ち着きのある柔らかな声音に聞こえた。


 彼女は、遠くを見つめるような目でこう続けた。


「私、お小遣い親からもらってないから」

「えっ、お小遣い無し?」

「スマホを買ってもらって通信費も親に払ってもらう代わりに、両親と約束した交換条件が小遣いゼロって訳」

「今時それは辛いな」


「でも、学校行事で必要な教材や道具類、文房具は、申告制だけどちゃんともらっているから」

「それじゃあオシャレしたり、学校帰りに美味しいスイーツを友達と一緒に食べたりってできないじゃないか」


「友達なんていないし、欲しいとも思わない。それに三食ちゃんと摂っていれば間食の必要性は感じないわ」


 ホントにこの子、今どきの女子高生かいな? 特段人見知りするタイプにも見えないし、育ち盛りの十五、十六の女の子なら、三度の飯より一食の間食(おやつ)を無視できない年頃じゃないのか!?


「さすがにお小遣いゼロで高校三年間を過ごすつもりは無いわ……今はまだ……」


 彼女は僕にどこまで打ち明けていいものか迷っているようだ。


「……今は詳しくは言えないけど孫の特権を利用して、手練手管を弄してそこは上手くやっているわ。孫としての立場を最大限利用しない手はないでしょ」


 計算尽くか、そこは……あざといというか、狡猾とでもいおうか……。


「……で、その後に同じ駅ビルの本屋でイギリス人の有名な天文学の大家が世界的に有名な専門誌に発表した論文を手に入れたかったの。素人にも分かりやすくかみ砕いて、新たに書き起こしたちょっと分厚い本なんだけど。学会だけならず、一部政府機関も巻き込んで大きな議論を呼んだ『宇宙の起源と終焉は須らく神から人類に対してのプロビデンスである』を買い求めた帰りだったから本来なら、早く読みたかったんだけれど、そんなことも一瞬にして吹き飛んでしまったくらいの電撃的な出会いだった」


 えらく具体的だな……。


「彼と私との距離は七、八メートルくらいだったかしら。電車内は結構込み合っていて、お互い立ったままだったけど、彼――出雲君は背も高いから電車内でも目立っていたわ。そうでなければ私の目に留まることも無かったかと思うと彼の背丈に感謝しなくちゃ」


「そうだな、出雲の身長は中学三当時で今の僕(百八十一センチ)位あったから、百八十センチはあったかも。高校に入学してからも、バスケ部で一年から唯一レギュラー張っているのはあいつだけだし」


 彼女は話を続けた。


「しばらく、チラチラと彼の姿を目で追っていると、ある駅で大勢の客が車内に流れ込んできたのね。出雲君の脇に小さい女の子を二人連れた若い母親が立っていたいんだけど、前の席に座っていたのは多分……、確か大学生くらいの男女のカップルだったと思う。声ははっきりと聞き取れなかったけど、出雲君がそのカップルに声を掛けて――おそらく席を譲ってくれないかと頼んだんじゃないかしら。そしたらそのカップルは少し照れた表情をしながらも、でも気持ちよく席を子供たちに譲ってくれた様子だったわ。その子たちの母親も席を譲ってくれたカップルだけじゃなく、出雲君にもお礼を言って頭を二度三度下げていたのが見えたの」


「へえ、何となくあいつらしいな。普通照れ臭くってなかなか積極的にそんな行動に出られないものだけど。まして相手が逆切れすることだってある訳だし……」


 中学時代の男子生徒なんて、生涯で一番愚かで、バカで、アホな年代なのは間違いない。その点、電車の中での出雲のとった行動は、いかに大人の対応だったのか分かるエピソードかもしれない。


「そうなの。私もそういうふうに受け止めて……、ちょっと陳腐な表現だけどその瞬間、躰全体に電気がビビビッと走ったようで、親近感を通り越して心惹かれた……でもでもない、なんかこそばゆくて、平静ではいられない……そんな感情が……。たぶんこれが恋なんだと確信したの。そしてもっと彼のことを知りたい、もっと彼との距離を縮めたいって思うようになっていったわ」


「へえ、なんか意外だな。君らしくもないっていうか……」


「あなたに私の何が分かるっていうのよ! まだ今日初めて口を利いただけの仲なのに!」


 彼女は、口からツバを飛ばしながら僕に食って掛かる。


さすがに、もう少し距離をとりながら接したほうが懸命か?


 これが地なのか、体裁を整えているだけなのかまだわからないが、たぶんどちらも本来の彼女の姿なのだろう。


「あっ、そうそう、一目惚れで結ばれた男女は、すぐに別れるって聞いたことがあるぞ」


「あなたねえ! どうして、そんな水を差すようなこと言うのよ! 意地悪なの? それとも私に興味があるの?」


 再び彼女は語気を荒げて僕に突っかかってきた。

 どうやら、また彼女の心象を悪くしたようだ。


 

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