第5話「其の無備を攻め、其の不意に出ず。此れ兵家の勢、先には伝う可からざるなり。」計篇第一・二

・其の無備を攻め、其の不意に出ず。此れ兵家の勢、先には伝う可からざるなり。計篇第一・二~所が戦いは思い通りには行かない~

 

 僕はここ迄、完全に状況をコントロールしている気でいた。さて、退社日も決まり、次の会社と入社日も相談して決めた。所が、入社日が迫っても、その会社から入社書類が一向に送られて来ない。普通、給食事業会社は、厨房に入る迄に検便を受けなければならないので、入社書類は早めに送られてくるものなのだが、入社日迄1週間を切っても送られて来ないので、僕は先方に問い合わせた。「それでは送ります。」との事で2日後にやっと送られて来たのは良いのだか、社則が記載された紙や、保証人を求める書面他どうでも良い入社時必要書類は何枚も入っているのだが、肝心の労働条件通知書が入っていない。検便のキットも入っていなかった。僕は改めて電話で労働条件通知書が入っていない事を問い合わせると、それは入社してから交付するとの答えだった。でも、いくら何でも僕も労働条件が全く分からない会社には入社できないので、事前に労働条件は明示して欲しいと伝えると、先方の人事担当者は「あなたがどれくらい我が社に貢献してくれるか分からない内に、給与は決められない。」と言い出した。一応面接の時、希望給与は伝えてあるが、あくまでこちらの希望なので、何の保証も無い。且つ「明日、社員研修があるので、O市内の本社まで来て欲しい。」とのことだった。僕は「イヤ、よしんぱパート従業員でも働く前に時給くらい教えてもらえるでしょ?」と食い下がったが、人事担当者は「入社してから決める。」の一点張りだった。僕は一応了承して、一旦電話を切ったが、急に腹が立ってきた。それにコロナが猖獗を極める状況で、ノコノコ電車に乗って市内に下らない研修を受けに行くのは、至極気が向かなかった。改めてリクルーターの女の子に連絡して事情を説明すると「そういう事なら、改めて違うちゃんとした面接先を紹介します。」との返答だったので、僕は再び電話して「今回の採用は辞退したい。」と申し出た。先方の人事担当者は驚いた様子で「え?どうしてですか?宜しければ理由をお聞かせ願えますか?」と尋ねて来た。僕の感覚では労働条件も報せないで入社を迫る方が驚くのだが、僕の方がおかしいの?と自分でも訳が分からなくなった。僕は「他社では入社前に労働条件を知らせてもらえますので、残念ですが御社の内定は辞退します。」と言って電話を切った。


 だが、僕は完全に状況を見誤っていた、調理師業界特に給食業界は万年人手不足だから、これまで面接で落とされた事など無かったし、次の就職先もすぐに決まるだろうと思っていたのだ。

 所が、就職活動は難航を極めた、コロナ禍で一般の飲食業界から多くの調理師が給食業界に流れ込んで来ていたのだ。確かに、給食業界は儲けは薄いが、時短営業や営業自粛等は無く、又そもそもアルコールを提供していないし、毎日安定した食数が見込める。殆どコロナの影響を受けないのだ。え?こんな会社に落とされるの?という会社からも不採用通知を受けた。唯、毎回面接に若くて可愛い女の子のリクルーターが同行してくれ、終わったら、近くの駅まで送ったり、ちょっとしたドライブ気分でそれだけは楽しかった。だが、追い詰められた僕は、とうとう他府県の車で1時間以上かかる遠隔地の求人にまで応募し始めた。この時は、流石に毎日生きた心地がしなかった。所が、ある企業の面接を受けた所、是非来て欲しいとの返答だった。驚いたことに、配属先は、リンゴ荘から目と鼻の先にある(本当に数百メートルしか離れていない)、県立の障がい者自立支援施設だった。通勤路がほとんど一緒なので、ある日など、ついクセで途中のリンゴ荘に登る坂道に入りそうになったくらいだ。


 さて、今度こそ就職先も決まり(今回はちゃんと最初に労働条件を確認した)、健康のお世話(株)から最後の給与が振り込まれたのを確認すると、僕は以前お世話になったことがある法律事務所に電話して、健康のお世話(株)の代表者の氏名を伝えて、法律事務所と利益相反関係が無いか確認した。折り返し電話するとの事だったので、待っていると直ぐに掛かってきて「利益相反関係は無く、問題無くご相談をお受けできます。」との回答だった。僕は以前お世話になったK弁護士が未だ在籍しているか尋ねた。

K弁護士は、以前、僕がある企業に未払い賃金を請求した時に、その1.5倍の金額を取り立ててくれたので、僕は信頼していた。

都合の良い事に、僕の家から近いI市の事務所に転勤したと言う。(だかこれが後に僕が大打撃を受ける原因となる…)僕は改めてその事務所に連絡して、K弁護士に相談したい旨を伝えた。

「あの、できれば1時間の無料相談を利用したいのですが。」とお願いしたら「ご相談の内容に依っては、有料になります。」との答えだったが、何点か確認された「勤怠記録の写しはお持ちですか?」「あります。」「労働契約書はお持ちですか?」「あります。」「給与明細はお持ちでしょうか?」「全て揃っています。」「分かりました。無料でご相談をお受けします。」との事だった。準備は万端だった。

約1週間後の休日に僕は無料相談の予約を取った。


話しは前後するが、その少し前から僕は新しい職場に入っていた。だが、ここもどうも様子がおかしい。僕が入社するのと入れ替わりに何人もの人が辞めていくのだ。それに、入社後担当マネージャーと面談し、その時の話しでは、僕と、もう一人の栄養士とを1カ月一緒に仕事をさせてみて、どちらか優秀な方をこの事業所の責任者にしたい。もし、責任者になったら、給与も増額される。その判断を待って、正式に僕と労働契約を締結したいとの事だった。僕はその栄養士が有能だったら、どうやって出し抜こうか考えていたのだが、現実は真逆だった。その栄養士は全くお話しにならないくらいポンコツだったのだ。食数管理も原価計算もパソコンを使う作業は全く出来ず、仕方無いから、社員の衛生チェックシートを作らせたら、退職した社員の名前が入っているわ、入った僕の名前は抜けているわ、果てには自分の名前も入れ忘れているという始末だった。仕方が無いから、せめて発注はしてくれと頼んでおいたら、サラダ油一本を発注するつもりで、一斗缶が10個くらい届いたり、ハムを大きなブロックで発注したり(パートさんが、こんなの仕込みできない!ってキレてた)、昼食の数名分のサラダの為に、イチイチドレッシングを1本発注するから、倉庫の中が、ドレッシングだらけになったりした。パンを二重に発注して、山積みになったこともある。だが、僕も通常の調理業務に加えて、本来ならその栄養士がしなければならない、食数管理、請求書の作成、勤怠管理、原価計算、と事務仕事も膨大に抱え込む事になったので、発注まで構っていられなかった。早朝は5時に出勤して、帰れるのは早くて夜の7時、8時という生活が続いた。加えてそのポンコツ栄養士は、自分は全然仕事ができないくせに、人のミスはどんな些細な事も指摘しないと気が済まないという困った人物だった。散々発注で厨房に迷惑を掛けておいて、人には、やれ缶詰の蓋を開けるのを忘れていたとか、物品を片付ける場所が違うとか、帰った後、更衣室の窓が少し空いていたとか、どうでも良い事をヒステリックに指摘してきた。僕は入れ替わりに辞めていった調理師からも、あの人にどうにも我慢できないから辞めると話しを聞いていた。僕はこれはマネージャーに口で言っても分からないだろうと予め予想して、彼女が毎日欠かさずしてくれるミスを、逐一記録し始めた。そして1カ月後の面談の日、僕はマネジャーに「あの栄養士のTさんが全く使い物にならないのは、前任の調理師や他の調理師からも話しを聞いてて、マネージャーも知ってはるんでしょ?」と尋ねた。案の定、マネージャーは「イヤ、彼女なりに努力しているから、まだ責任者をどちらにするか決めかねている。」とすっとぼけて来た。まぁ、そう言っておけば、あんまり僕の給料を増額しなくて済むという計算なのだろう。だが、僕は用意していた十数ページに及ぶT栄養士の業務実態についての報告書を差し出し「あの、Tさんね。担当のデザートの管理もできていないから、今日も消費期限切れの食品提供する所でしたよ。私が発見して、K調理師立ち合いの元で破棄しましたけど。県に対して消費期限切れの食品を提供したら、始末書じゃ済まないですよね。」と言った。

 マネージャーは報告書を受け取ると、暫く黙って読んでいたが、発注のドタバタである程度は知っていたのだろうが、実態は遥かに斜め上を行っていて、ショックを受けている様だった。人間は口で言われたことより、印刷した文章のことの方を遥かに強く信用する。

マネージャーは言った「実は、T栄養士は自分を責任者にしろと言っていまして…」

「ああ、良いんじゃないですか?僕はあんな人のする事の責任良う取りませんけど。」

「イヤ、彼女には無理です。あの年齢ですから(50代後半)、もう今からの成長の伸びしろも無いでしょうし。」

「だから、マネージャーは本当は分かってはったんでしょ?」

「…分かってました…」

「どうして、トボけるんですか?」

何て話をしていたら、早速T栄養士が厨房でヒステリックに助けを呼ぶ声がする。

 どうやら、その日は給食会議だったのだが、自分が夕食の配膳の担当なのにその段取りをせず、会議が長引いた為に、間に合わなくてパニックになっているらしい。それでも、ある程度は僕もそれを見越して用意しておいたのだが…

その日は僕とマネージャーも手伝って、何とか間に合わせた。

僕は、T栄養士と車で配膳に行き、彼女を降ろすと「後はお願いしますよ。」と声を掛けて帰ろとしたが、驚いたことにT栄養士は「カカケケさん。ワタシ帰り車要るんですけど…」と言ってきた。僕が彼女なら、申し訳無いから、自分が歩いて帰るのだが。まぁ、言っても分からないだろうから、僕は無言で車をその場所に残して事務所まで歩いて帰った。マネージャーは報告書に加えて、その日T栄養士の実態を目の当たりにして更にショックを受けている様子だった。僕は「マネージャー、僕は未だ試用期間なのに、月の残業時間過労死ライン超えていますよ。このままだったら倒れるか、車で事故でもしてしまいます。それに残業代本当に正味請求しますよ、凄い時間になりますけど良いんですか?1カ月後にT栄養士がまだここにいたら、僕はいなくなると思います。」と釘を刺した。マネージャーは「しかし、他の栄養士の人材確保も難しくて…」

と言ってきたが「そんな事、僕に言われても困りますよ。」と答えるしか無かった、「残業代はお支払いしますから、業務だけは宜しくお願いします。」と言ってマネージャーは帰って行った。

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