第3話「善く敵を動かす者は、之に形すれば敵必ず之に従い、之に予うれば敵必ず之を取る。利を以てこれを動かし、詐を以てこれを待つ。」勢篇第五・五

・「善く敵を動かす者は、之に形すれば敵必ず之に従い、之に予うれば敵必ず之を取る。利を以てこれを動かし、詐を以てこれを待つ。」勢篇第五・五


 フルタチーフとヘンミ役員の証言を得て、僕は一応これで充分な証拠は揃ったと思った。普通、これだけ上司に楯突けば、会社から何らかのお咎めがありそうなものだが、暫くしても何のアクションも無く、唯マツダ支社長のパワハラだけが連日続いていた。

 僕は会社を動かす為に餌を撒くことにした。丁度キクチマネージャーに事件に関して提出する報告書があったので、その下書きの余白に「会社は従業員に事件の罪を着せようとしている。」「事件は警察に通報すべきだ。会社は事件を隠蔽しようとしている。」「会社は従業員を守る気が無いのか?」「会社は、お客様に提供する食の安全性は絶対に担保しろと言うが、従業員が最低限健全に働ける労働環境を整備していないのは話の辻褄が合わない。」等と走り書きした物を、事務所のキクチマネージャーの目の付く所に置いておいた。

 言っておくが、キクチマネージャーは決して頭脳は明晰とは言えないが、性格はすこぶる悪い。普通に考えたら、こんな事書いた物、人目に付く場所に置いておくかどうか分かりそうなものだが、僕はキクチマネージャーなら絶対喰い付くと思った。

 案の定、キクチマネージャーは事務所に入った後、暫くすると慌てて、その報告書を持って僕の所に来て詰問してきた。

「かかけけさんこれ何?」

「何って、報告書の下書きですよ。」僕は平然と答えた。

「この色々書き込んでるのはどういうこと?」

「ああ、それは言ってみれば単なる僕の愚痴ですから、気にしないで下さい。報告書には書きませんから。」

「ちょっと写メ撮らせもらっていい?」

「え?まぁ…いいですけど。」僕は渋々といった振りをして了承した。

キクチマネージャーは熱心に何枚も写メを撮っていた、一枚撮れば十分だろうに…。

さぁ、これで会社は確実に何らかのアクションを起こして来るだろう、僕は何だかワクワクしてきた。

・3「先ず且つ可からずを為して、以て敵の勝つ可きを待つ。勝つ可からずは己に在るも、勝つ可きは敵にあり。故に善く戦う者は、能く勝つ可からざるを為すも、敵をして勝つ可からしむこと能わず。故に曰く、勝は知る可し、而して為す可からずと。」形篇第四・一~勝機は待つもの~


・予想外の大物が連れた。


その翌々日、僕が仕事をしていると、トシマ課長から電話があった。出ると自分の管理しているモロコシ苑事業所まで明日来て欲しいとのことだった。トシマ課長とは3年以上前、面接の時に会っただけだ。僕がトシマ課長の事業所に呼び出されるなんて、明らかに話がおかしいが、僕は「ははーん。」と思った。恐らく、キクチマネージャーは自分の手に余ると思って、上司である課長に泣きついたのだろう。確かに、キクチマネージャーでは、この状況を捌けないだろう。僕は気持ち良く了承した。



・「怒なれば之を撓し」計篇第一・三~敢えて怒らせて冷静な思考力を奪う~


明くる日、僕は勇んで、モロコシ苑事業所に向かった。実はモロコシ苑事業所は自宅から自転車で10分の距離にある。僕はトシマ課長に会うなり「トシマ課長、よくも僕をりんご荘事業所に売り飛ばしてくれましたね。」と冗談を言った。僕がこういったのには理由がある、実は僕は当初この事業所の求人に応募していた、が、採用後配属されたのが、自動車で20分かかるりんご荘事業所だった。

トシマ課長は明らかにムッとした様子だったが、僕を奥の事務所に通した。僕は早速切り出した「何の件ですか?事件のことですか?」

トシマ課長は逆に聞き返してきた「現場の方は、今事件は行けてるんですか?」

「今日もヘンミさんが来られて、色々指摘されて帰られましたけど。」

「ああ、注意してね、そらそうやわな。これは一大事ですのでね。」

「会社の方も、フルタチーフもこれは事故では無く、事件やと仰るんですけど、僕たち従業員からしても、これはどう考えても事件やと思うので、警察に捜査して欲しいと言ったんですけどね。」

「うん。あの、正直ね、会社はそこまでやりたくない。」

「みたいですね。」

「というのは、対お客さんの事が有りますのでね。あれがウチの店やったら、そら警察に入ってもらうんはええと思いますわ。でも、時々盗難ってあるんですよね。」

「はい。」盗難は何の関係が有るの?

「そういう時は警察に入ってもらったこともあります。唯ね、ああいったケースで起こりましたやんか?」

「はい。」

「それで、故意にしろ、過失にしろ、ウチの従業員がやった可能性が非常に高い、と思ってるんですね。」

「そうですか。」

「何らかの段階で入ったんやろうなって…」

「僕は過失と言うのは、ちょっとあり得ないんじゃないかなって思います。会社の方は色々な理由をこじつけてはりますけど、まぁ、ちょっとあり得んでしょ?どう理屈つけても。」

「あの、あそこのメンバー。かかけけさんを含めたあそこのメンバーならあるやろうなと思ってます。」

「ああ、そうですか。僕、でも…過失ですか?」

「うん。」

「過失ですか?」

「次亜塩素酸水に浸けた後の包丁とまな板を、洗わんと片付けるとかあったでしょ?」

「はい。」これは僕とKパート従業員がヘンミ役員に注意されたことだ。あの禿げ親父、せっかく見直してたのにこんな所に利用しやがった。

「そんな話聞いてると、それが例えばお客さんの方に、話が行くとするじゃないですか?こういうことがあったんですと。そらそうやろなって思われる訳なんですよ。」

「でも、あれかなり希釈した…」

「うん、希釈した液体やけど、そういう事を聞いてると、あの人達大丈夫なんかなと、あの事件(事件って言っちゃってるけど)があった後に、次亜塩素酸水を流さんと片付ける訳ですよ。あり得ないでしょ?あり得ないんですよ。あの事件があって気を付けないかん所なんですわ。それなのに、なんでそこをやるのかな?ってお二人ね。」

「二人って僕とKさんですか?」

「Kさん、うん。」

「でも僕、事件の当日は僕はお休みでしたけど。」

「休み休み、だから、そういうことを言ってるんじゃない。事件の当日、誰が入れたっていうのはもう分からんから(僕たちの責任にしたじゃん)、そんなことは起きてしまったことじゃないですか。」

「はい。」

「みなさんね、私そんなん違うわって、過失で入ったん違うわって仰ってるんやろうけど、第三者から見たら、どっかで入ってんちゃうの?って…」

「会社はそう思ってはる訳ですね。」

「みんなそう思ってる。」

「みんなそう思ってはる?」

「先方さんもね。」

「先方さんも?」

「もし、話を聞いたらやで。話は行ってないと思いますわ。(じゃあ、まだ思ってねぇじゃん)こんな話が行った日には、お前の所何やねんって、管理もできへんのか?って大目玉が来るような事案ですよね。」

「既に大目玉は来てますけど。」

「だから、結局皆さんね。誰か故意にやったんじゃないかって思ってはるのかも知れへんけど、そんな話聞いたら、結局誰かがボケてやったん違うんかって…」

「ボケて?」

「そう思わざるを得ない。」

「ああ、そうですか。」

「思わへん?あの話の後やで、普通流して使うやん。」

「個人的に僕がそう(過失で次亜塩素酸が混入したと)思うかどうかですか?」

「うん。」

「正直申し上げて、僕は思いません。」

「思わへんの?」

「確かに、僕は勉強不足で、希釈した塩素を流さずに(まな板を)片付けた。でも、塩素って言うのは揮発性のものですから、一晩殺菌庫で乾燥させたら飛ぶものですから、それは確かに僕の勉強不足でしたけれども、それやからと言って、あんなお茶に致死量に達する…」

「お茶の話じゃないねん、お茶の話の後に…」

「では、僕はそれは落ち度が有ったことは大変申し訳ないです。」

「皆さんね、ちょっと違うんちゃうかな?ってね思ってね私、意識が凄く低いのかな?って…カカケケさんだけじゃないよ。」

「意識が低いと言うよりね。トシマ課長、今りんご荘の従業員どういう状況で働かされているかご存じですか?」

「いや、知らん。」

「知らないんですか?」

「うん、何か報告書に『1分の休憩も休憩がく』って書いてあったから、それはそうなんやろうなって…」

「そうなんやろうなって、それじゃ不味いんじゃないですか?」

「うん、あの、ちょっと待って。その話と、この話は一緒じゃないんです。」何で都合良く分けるんだよ。

「イヤ、一緒やと思います。」

「それはそれで話しせないかんと思うんですね。」

「イヤ、ヘンミ役員は、お客様に提供する食の安全は第一やと仰いますけど、ヘンミ役員自身、労働組合の幹部でしょ?で、自分は最低限、従業員が健全に働ける職場作りを怠っていながら、従業員には、お客様に提供する食事の安全性は担保しろって言うのは理屈が合わないんじゃないですか?」

「あの、それは別途話をしましょう。これはこれ、それはそれで話をしないと、後で聞きますわ、それは。」

事件が有って、カカケケさんの報告書を見せて頂いて(キクチマネージャーが撮影した写メ)、カカケケさんをお呼び立てしたんですわ、僕りんご荘出禁になってるからね。」

「ああ、らしいですね。何か喧嘩しはったんでしょ?」

「喧嘩じゃないよ、食中毒出したから。」あんたも中々やっとるやん。

「えっと、まぁね。確かにフルタチーフの『誰かがやったと言ってくれたら良いと思ってる』のこれはね…」

「リーダーとしてあり得ない発言じゃないですか?」

「うん。そう思いますわ。」

「僕、次の日チーフに電話して怒ったんですよ。こんな事、朝礼でチーフが発言したって、会社に知れたら、チーフどないなると思います?って聞いたら、慌てて謝ってましたけど。」

「うん。」

「僕は性格悪いから、そう言っといて、みんなに告げ口して回ってますけどね。」

「うん。報告書に書いてあるからね。」

「まぁ、チーフ自身にもこの報告書見せてますけど。」

「この、致死量が混入することが果たしてあり得るでしょうか?って言うのは、ま、あり得たんですよね。」

「あり得たんですね。」

「あり得たんです。あり得るんでしょうか?じゃなくて現実問題ありえたんやから、これは、もう目の前の事実を認めるしかないんですよね。誰がどうやとか、過失がどうやとか言うのはもう分からへんのやけど。(しかし、結局、会社側はどうしても事故の原因を合理的に説明できる理由を考え付くことができず、結局りんご荘に対し「調理台を希釈次亜塩素酸水で濡らした布巾で拭く際、その絞り方が甘かった為に、そこから滴った希釈次亜塩素酸水が、調理台の下段に置いてあったやかんにたまたま混入し、5ℓものお茶を無色透明な液体に変えてしまった。」という無茶苦茶な説明をした。)


「僕はね、でもね、福祉業界長いんですよ。」

「うん。」

「だから、介護職員とか福祉職員の方とか看護師さんとかね。ストレス凄く強いお仕事なんで、そういう、薬物を故意に混入させるということは、ままある事件なんですよ。ニュースにも良くなってますよね。」

「うん。うーん、ウチがね完璧な仕事してたらね…」

「それ会社は何時も言わはるんですよ、完璧な仕事してたらって…」

「完璧な仕事と言うか、例えば誤配膳が多いとか、そういうのあるじゃないですか?」

「はい。」

「配膳ギリギリとか、間に合うとか間に合わへんとか、バタバタしてるとか、で、そういった日々の事が、こういう時に活きて来ますよね?」

「だから、僕が言うのは、今の人員じゃ、そら、完璧にやれって言われても、人手は足らんわ、時間は足らんわで、それで、今日なんかもマツダ支社長やヘンミ役員来て、色々衛生面でのご指摘があるでしょ?」

「うん。」

「それで、また、段々作業が押すやないですか?」

「人手が多いとか少ないとか、そんなんも有るんかも知れへんけど…」

「フルタチーフ自身ね。まぁ、何時も朝食もギリギリなんですけど。」

「うん。」

「それが終わったら、みんなすぐ昼食に取り掛かるやないですか?そしたら、フルタチーフ仕込み室に閉じ籠って出て来ないんですよ。そんなもんね、仕込みなんか言うたら、晩までにすれば良いことでしょ?何やったら、簡単な切り物くらい、パートさんでもできますやんか?で、みんなで協力して、取り敢えずお昼間に合わせたらええやないですか?それで、フルタチーフでも1人いたら、それなりに余裕が出ますわ。」

「うん。」

「でも、どんなにバタバタしてもね、大抵フルタチーフ仕込み室から出て来ないですよ。ずーっと独りで仕込みしてて、フルタチーフみんなに引き籠りって言われてますよ。」

「ははは、そうなんや。」笑いごとか。

「そんなもん、仕込みなんか、後でなんぼでも残ってやったらエエんやし…」

「うん。チーフが仕込みから出て来ない…」

「まぁ、先ず、どんなに厨房がバタバタしてても、まぁ、出て来ないですわ。」

「うーん、なるほどな。そこはちょっと変えていかなアカン所やろうな。で、今のそのお話もあったけどね。皆さん一人が一人分の仕事をしてへんなって感じを受けるんですよね。」

「僕らからしたら、一人で二人分の仕事をさせられている様な気分でいますけど。」

「結構ね、ちんたらしてる時間がある。それはカカケケさんが、とか誰がとか言うんじゃなくって…」

「ちんたらしてる(笑)」

「ちんたら言うたら、ちょっと何か変な言い方やけど…」

「それは確かに、変な言い方やなと僕は思います、正直言って。」

「ちんたらって言うか…非効率な時間。」

「僕は調理師ですから、常に段取り考えて動いてますけど…」

「例えば、待ってる?時間が有るんやないかなって…」

「待ってる?待ってる時間って何ですか?」

「何て言ったらええのかな?要は手持ち無沙汰な時間があるんやないかと…」

「いや、そんな時間なんか、お茶飲む時間も無いのに…。トイレ行くのもどのタイミングで行こうかと思ってる位ですから。」

「でね、さっきNさんが段取り悪いから早く出てきてるんですよって話なんやけど。ま、それはそれでええんやけどね。(アカンやろ)ホンマは時間通りに来て時間通り終わらせて帰ってくれよって言うのが正直な所なんですよ。」

「まぁ、会社側はそう言うんでしょうね。」

「そうなんです。

「僕は、現場で働く者の目線としては、トシマ課長の仰ることは承服しかねる部分もありますけどね、正直に申し上げて。非効率な時間があるんじゃないかとか…」

「あるかも知れないって…」

「それは可能性の問題でしょ?」

「可能性の問題。」可能性で言うなよ。

「現実問題、僕らは、一分一秒を追われる様に仕事してますから。

「で、えっとね。一度業務のタイムスケジュールを作って。ここで話しててもちょっと分からへんから。取り敢えずタイムスケジュール作って、動かしてみて検証してみないと。これは分からないのでね、本当にそこに空いた時間が有るんか無いんか検証しないと。」

「だから、それは客観的に判断できる方が来られて、そういう指導されたら良いんじゃないですか?」

「それは必要じゃないかなって。」

「はっきり言って、フルタチーフには無理やと思います。」

トシマ課長は急に激昂した「それはね、良いですわ!フルタチーフが無理かどうやと言うのは!そんなん無理なんや、あいつには能力無いんやって、カカケケさん、ここで言うてはる訳なんですよ!そういう所が職場の人間関係を悪くすることなんやと思うで!」え?僕はフルタチーフ以外の人間との関係は非常に良好に保ってますけど。

「カカケケさん今日ここに来はった時にも『よくも売り飛ばしたな』って言わはりましたよね?口は災いの元ですよ、そういうことを安易に口にするのが職場でも良くないんじゃないですか?」トシマ課長は、どうやら僕が最初に言った冗談がお気に召さなかったらしい。でも自転車で10分の職場の求人に応募して、車で20分かかる所に行かされたから、半分以上本気でしたけど。


「それはそうかも知れませんけど…でも、トシマ課長の仰る通りにフルタチーフができてたら、僕たちはもう既に楽な訳でしょ?」

「それはそうやけど。」認めるんかい。


「だから、ひょっとしたら時間は掛かるかも知れないが、それはやっていかなアカンなとは思っています。休憩時間取れる様にね、、パートさんもでしょ?」

「はい、全然無いですよ。」

「無いですよね、やっぱり申し訳無いですからね、そういうのって、やっぱりちゃんとしていかんと…」

「会社の労務管理の担当の方って、勤怠に休憩時間全然打刻してないのって、不思議に思わないんですか?」

「休憩時間の打刻の欄なんか有れへんし。」なんかって何だよ。

「無いんですか?」

「無いですよ。」

「え?何で無いんですか?」

「どこの会社のタイムカードにも無いで。」

「いえ、僕、前行ってた会社有りましたよ。」

「有りました?あの、無いです、残念ながらね。」

「物凄く、僕的には残念ですけど。え?ほんなら、僕ら休憩時間無しでも仕方無いって事ですか?」

「無しで仕方ないって事は無いですけどね。大きい企業やったらありますよ、例えばローソンとか。」え?何で急にローソン?僕らコンビニ?

「僕、朝8時から、晩12時まで働かせる様なブラックな所行ってましたけど、そこでも、休憩時間の打刻は有って、ちゃんと1時間は休憩はもらえましたよ。」

「外食産業やったら、そういうシステム導入されてるのかも知れへんけど、給食事業ってね、そういった空き時間、アイドルタイムが無いし、やっぱりそう言った必要性が感じられないのやろうね、きっと給食会社って。」必要性が感じられないから与えなくて良いんだったら、どこの企業も必要性感じないって言うだろ。

「でも、今の労務関係に厳しい世の中で、そう言う事では困るんじゃないですか?」

「うーん、まぁ、それはね、何とも答えようが無い、申し訳無いんやけど、ここでね、ああだのこうだのちょっと言われませんわ。」肝心なことは言えねぇのかよ。



「でね、ちょっと、ここからが本題なんやけど。」

「え!?ここからが本題ですか?」

トシマ課長は急に上機嫌になって言った「ここからが本題なんですよー。で、先程お話した様に、衛生上の事でカカケケさんの認識が無かったと言う事で、ワザとやってるんやったら、私、まだええかなって思うんですよ(ワザとやったらアカンやろ)、でも認識が欠如してたと言うことでね。りんご荘での勤務ってゆうのが難しくなって来てるんです。で、基本的には転勤をして欲しいという形なんですね。O市内のSの宮まで。」あの、ヘンミの禿げ親父、下らない衛生の注意を僕を左遷する為の理由に利用しやがった!せっかく一度は見直してやったのに…

「Sの宮は遠過ぎて、ちょっと良う行きませんけど。」

「うん、車じゃなくてもいいんで。Sの宮にある私立総合医療センター、電車で行ってもらったらいいんで。」

「総合医療センター?病院ですか?ああ、ちょっと苦手ですね。」

「あそこの病院は、病院じゃないよ。」

「は?どういう事ですか?」

「何て言うか、病院じゃない病院ですわ(どういう辞令?)大き過ぎて、弁当工場ですわ。」尚更お断りですわ。

「病院やったら、無理やと思いますわ。仕事が嫌いなんで、病院の。」僕の面接を担当したのは、他ならぬトシマ課長だ。僕は面接時、病院の業務は予め断っていた、だからワザと、病院を、それも自宅から電車で片道2時間以上かかる遠隔地の事業所を選んだのだ。つまり言外に辞めろと言っている訳である。

「でも、何で僕が転勤なんですかね?まな板のことはKさんも同じこと注意されてましたし。」

「事件とか、まな板の問題とは関係無いよこれは。唯ちょっとね、似た様なタイミングで転勤の話が出て来ただけで。」

「たまたまですか?」

「たまたまです、これは。」さっき衛生の認識の問題って言わなかった?

「だからね、偶然にしては出来過ぎやから、ちょっと話し辛かったんですよ、正直。」

「僕もね、え?と思いますわ。」

「正直、同じ時期に話しが重なってるから、正直、お話するの…」

「トシマ課長はたまたまと仰いますけど、僕としてはホンマに?って思いますわ。」

「本当に、これ、たまたまなんです。事件のこととかあるからね、私も話し辛いなと思いながら来たんですよー(じゃあ、止めときゃ良かったのに)。どうしても、この時期にってなってくると、え?そうなん?ってなるじゃないですか?」

「なりますね。」

「なりますでしょう?だからね、正直、私も躊躇したんです、でも、会社の方からもうアカーンって言われて。」


ふーん。何度も「正直」って言うのは、嘘ついてるからだろうけど、これが所謂制裁人事と言う奴ね。こっちの読み通りなんですけど。

「でも、色んな事を、マツダ支社長やヘンミ役員から、みんな指摘されてますけど、僕のまな板の片付け方が、左遷させられる程の問題なんですか?」

「カカケケさんだけじゃないねん。会社はりんご荘の従業員みんな入れ替えるつもりやねん。」

「全員?」

「正直、そんな勢いですよ、会社は。」嘘つけ。

「まぁ、その方が良いかも知れませんね。」

「そういう勢いですわ、本当にね。」


僕は出来るだけ苦渋に満ちた声で言った「率直に申し上げて、病院やったらお断りするかも分かりません…」

「でも、そんな、あれやでぇ。贅沢言うとったらあきまへんでぇ。」

「あきまへんなぁ。」この時には僕も何だか楽しくなって来ていた。僕は続けた「…まぁ、でも、この業界ブラック企業が多いんでね。」

「そうでしょ?ムッチャ多いブラック企業!ほぼブラックですよ。」お前が言うなよ。

「ウチの会社は未だ良い会社やと思ってたんですよ。お休みはちゃんとあるし、有休も消化できるし(フルタチーフは無茶苦茶嫌な顔してたけど)、無茶苦茶な時間外労働も無いし、だから今回の件に関しても、会社に正しい判断して頂きたくて、僕も一生懸命やったたつもりなんですけどね、却ってご迷惑やったのかも知れませんけど。」

「(笑)それは無いやろうけどね。」


「トシマ課長って将棋指さはります?」

「え?将棋?イヤ、指さへんなぁ。学生の頃、授業中に紙に書いた将棋盤で…」

「ああ!紙に書いてね。先生に見つからん様に回して、ほんで『お前、これ二歩やんけ!』とか言うてね。」

「そうそう!」

「僕はね、将棋指すんですよ。」

「強いの?」

「イヤ、一応アマ初段は持ってますけど、そんなに強く無いですよ。唯ね、調理も先を読んでする作業ですから、凄く役に立つんですよね。例えば、何か茹で物する時は、先にザルを持ってきとかなイカンとか、氷を用意せなイカンとか、詰将棋みたいにどの作業をどの順番でしたら、一番効率が良いか逆算するとかね。」

「ふーん。なるほどなぁ…」

この後、何故か僕とトシマ課長は一花将棋の話しで盛り上がった。

僕は将棋を指すので、この時点で、僕の方が会社より何手も先を読んで行動してますよ。と暗に示唆したつもりなのだが、トシマ課長は単に将棋の話しをしていると思っている様子だった。


2週間程度で正式に転勤の辞令が出ると言う事で、僕はモロコシ苑を後にすることになった。ご親切にも課長は出口まで見送ってくれた。僕は去り際「『駟も舌に及ばず』ですよね。」と言ってやった。「え?」トシマ課長は不思議そうな顔をしている。

「『口は災いの元』って事です。今日は失礼な冗談を言って申し訳ありませんでした。」

「イヤイヤ、僕は根に持たない人間だから、明日になったら今日の事なんて忘れているから。」それはそれは、お心が広いことで。でも、後になって嫌でも思い出すと思うけどな。


僕は建物を出ると、前に停めていた自転車のカゴにバッグを入れ、スマホを取り出して、録音のスイッチを切った。なるべくクリアな音声で録音できるように、バッグの口は開けていた。あの吉本の社長でも会話の録音を警戒したのに、トシマ課長は全く警戒していなかった。それにしても、まぁ、良くも一から十までこちらの喋って欲しいことを喋ってくれたものだ。僕は今の会話がちゃんと録音されている事を確認すると、上機嫌で家に向かって自転車のペダルを踏んだ。 


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