第2話「兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し」(孫氏計篇三)
・「兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し…」計篇第一・三
戦いとは相手を欺く仕業である。僕はバカになった振りをした。まぁ、賢かったら会社と喧嘩などしないのだが。
フルタチーフと事務所で二人切りになるタイミングを狙いこう切り出した「ヘンミさんって労働組合の役員でしょ?」
Yチーフは答えた「労働組合の役員兼衛生の指導者や。」
「ほんなら、僕たち労働者の立場を守る視点も持たなアカンのと違いますの?」
「せやから、そういう視点を持ってるから、聴き取り調査に来てるねん。」(は?)
「それでなくても、僕ら就業時間1時間前の朝5時から、N調理師なんか朝の4時半に出勤してはりますよ。それで終業時間の午後3時まで休憩も無くぶっ通しですよ。必要最低限の仕事をこなすだけでも、何とか時間を間に合わせているのに、O衛生管理担当者兼労働組合役員さんが言う様なマニュアルの建前通りに、衛生的に完璧になんかできませんやん、もうこれ以上。」
「それはどこの事業所でも一緒や。」
「僕ら休憩時間も無く、ぶっ通しで仕事してるのに、これ以上衛生面でも完璧にしろ、手順も全て明確にしろって言われたって、そら無理でしょ」
「身体に沁みつけば普通にできるようになるんやろうけどな。」(あんたが一番できてないでしょ。)
「イヤ、もうこれ以上は無理です。もう一杯一杯ですわ、まともに休憩できへん。大体、勤怠管理システム導入してるのに、ウチの会社の労務管理している人、おかしいと思わないんですか?誰も休憩時間打刻していないのに?」
「別にイチイチ打刻せんでエエことになってるからな」(は?)
「休憩時間を?」
「うん、勝手に引かれる」
「普通、常識的に何処の会社でも管理してるでしょ?」
「無い無い無い!社員には無い。」
「え?無い?無いの?社員には?」
「イヤ俺も社員で20年以上やって来たけど、一ミリたりとも無いな、そんなこと。(ミリって何だよ?)タイムカードはあったけど、残業すら付かんかった。」(Yチーフのことなんか知るか。)
「僕、今やから言いますけど、前に勤めてた会社も残業代とか、休憩時間とか全然くれなかったから、辞めた後に弁護士に相談したんですよ。そしらた、やっぱり相手はそれなりの金額支払わされましたよ。」
「そういう細かい部分は…」
「だから、そこら辺のこともちゃんとして、僕たちにあれをやれ、これをやれとか、あれも注意しろとか、これは守れとか言う前に、必要最低限の休憩時間が取れる様に、勤務体制を整えて欲しいです。」
「……」
吉田チーフはそれ以上何も言えなかった。
次はヘンミ衛生指導担当兼労働組合役員だ。事件に対する緊急の研修と称して、クソ忙しいのに僕たちは勤務中に順番に呼び出され、ヘンミ役員の有難い衛生上のご高説を賜ったその後、僕はワザとヘンミ役員を怒らせるつもりでこう切り出した。「ヘンミさんが言わはることは、衛生的な研修としては分かります。でも僕もT調理師もN調理師も朝5時には出勤して、終業時間もぶっ通しですよ、休憩時間無しですよ。」
意外にもヘンミ役員は「申し訳無いです」と一応は謝って来た。(でも、申し訳無いで済むなら労働組合なんか要らなくね?)
「僕は、会社に対してそんなことはしませんけど(嘘です)、N調理師なんかちょっと段取りが悪いから、朝4時半には出勤しています。それで夕方3時までぶっ通しですよ。この状況、もし訴えられたら負けますよ、ウチの会社。」
「まぁ、そうでしょうね。」(認めるのかよ)
「使用者が、被雇用者に適正な休憩時間を与えずに労働させた場合の賠償金って、どれくらいになるか知っていますか?」
「それは具体的には分からない。」
「僕はもらったことあるから知ってますよ。もの凄い額になりますよ。僕の前の会社には200万円近くの内容証明が行きましたから。」(ハッタリです。)
「まぁ、多分ね。裁判になると色んなものが、色んな事情で多分、弁護士が入って決めると思う。」
「勿論、互いの言い分がありますから、多少は減額されます。でもちょっと洒落にならん金額ですよ。」
「まぁ、そうだと思います。」(思うんかい。)
「現状、人手増やしてもらわないとまた同じ事が起きますよ。他の現場から回しても良いじゃないですか?」
「それも今ずっと検討してます。」
「検討してるってね。僕はここ(りんご荘事業所)へ来て3年間、まともに休憩取ったこと無いですけど、キクチマネージャーも僕がここへ来た時から『検討してる、検討してる』って言ってもう3年経ちますよ。」
「それは改めて、僕からもまた言っておきます。」
「ヘンミさんの言われることは、僕も理想的やと思いますよ。それが全部できたらね。現実問題もう、僕らも一杯一杯で、もう今日は何分に食事提供できるかどうか?配膳ミスも無い様に、二重三重にもチェックしたいけど時間が無いからできないじゃないですか?」
「だから、それについては、僕以外にも勿論、以前からお話しされていると言うことは、当然上の方にも伝わってると思うし。」
「イヤ、伝わってるのかな?僕、フルタチーフにも何度も言いましたよ。もう、面子見たら分かるでしょ?爺さん婆さんばかりでしょ?」
「まぁ、高齢の方ばかりですね。今は特にねこの間辞めはった方もいてましたし。」
「それは、若い人たちで、ちゃんと仕事できるんだったら、後はこれだけやってねと指示して、僕たちも定時に帰れるけど、あんな爺さん婆さんばかりじゃないですか?」
「うんうん、そうですね。」
「そんな人相手に、後やっといてねって帰れませんやん、僕らも。」
「そうですね。」
「だからそれはもう、僕らもヘンミさんの教えて頂いたことはやりたいんですよ。」
「うん、うん、うん。」
「僕らも、それができて一人前の調理師ですからね。やりたいけど、でも、言ったら、あっちからもこっちからも物が落ちてくるのに、全部拾えと言われても手が回らないじゃないですか?」
「それは限界がありますからね、勿論。」
「会社もそれは、ちゃんとして頂きたいな、と僕は思います。」
「はい、分かりました、それは僕からも関係各位に伝えます。」
「特にヘンミさん労働組合の役員さんでしょ?」
「そうですよ。」
「だったら、被雇用者の立場を守る視点も持って頂きたいです。」
「ああ、勿論それはね。はい、それは勿論その視点も持っているつもりですが。(つもりでは困る)はい、分かりました。」7
「僕は今、 恩地さんに怒られる覚悟でお話ししましたけど。」
「いやいや、怒ることは無い。」
僕はこの時、「ふーん、ヘンミさん、思ってたより懐深いな。」って見直してたのだが、その思いは後に裏切られることになる。
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