始めは処女の如くにして

@kakakeke

第1話「知り難きことは陰の如く」(軍争篇第七 三)

1.「知り難きこと陰の如く」


京都のお公家さんみたいな顔をしたトシマ課長は言った「カカケケさんの衛生上の認識が甘いということに関してね、O事業所での勤務が難しくなって来てるんですよ。で、転勤をして欲しいということなんですよね。Sの宮にある市立総合医療センター事業所に転勤して欲しい。」

僕は消え入る様な声で応えた「病院ですか…正直言ってお断りしたいです。それにSの宮は遠すぎますし…」僕の家からSの宮へはバスと電車を二本乗り継いで、片道2時間以上はかかる、これまでの通勤は車で片道20分程度だった。

トシマ課長はいけ好かない笑みを浮かべて言った「そんなもん、贅沢言うとったらあきまへんでー。」



事の発端はこうだ。ある朝、僕が休み明けに出勤すると職場がひっくり返った様な騒ぎになっていた。僕の休日に同僚の調理師が提供した、やかんに入れたお茶に大量の次亜塩素酸が混入されていたらしい。

僕は、一本松フードサービスグループの“健康のお世話(株)”という給食事業会社に所属していた。その健康のお世話(株)が、りんご荘という特別養護老人ホームから委託を受けて、朝・昼・夕食及び飲料を提供する業務を行っていた訳だが、お茶は大型の真鍮のやかんに入れて提供していた、確かおよそ5ℓ入るやかんだったと思う。そのやかん一杯のお茶が無色透明になり、強烈な塩素の異臭がする程の大量の次亜塩素酸ナトリウムが混入していたというのだ。

そのお茶を、りんご荘事業所の利用者が飲もうとした所、りんご荘の介護職員がお茶が無色透明であることに異変を感じ、寸前で止めて事無きを得たらしい。

僕はすぐにこれは明らかに、何者かが故意に混入したに違いないと思った。僕は医療・福祉業界での調理業務の経験が長いが、ストレス負荷の大きい医療・福祉業界に於いて、従業員に依る、この様な食品や医薬品への異物混入事件は珍しく無いからだ。所が、健康のお世話(株)側は、混入事件があった日の翌日朝にはマツダ大阪支社長を筆頭に、会社の幹部、キクチ(現場担当)マネージャーが揃ってりんご荘を訪れ、事件について原因を調査をする前から、次亜塩素酸の混入を我々健康のお世話(株)の従業員の過失と認め、りんご荘に謝罪してしまった。

 おいおいチョット待て。

それでは我々従業員の誰かが、仮にも人を殺しかけた事を安易に認めてしまったことになる。


 僕たち従業員はマツダ支社長を始め幹部連中に、お茶の沸かし方から、やかんへの注ぎ方、配膳車に乗せて提供する手順を何度も詳細に説明し、その過程で次亜塩素酸など混入し得ない事を何度も訴えた。それを一応一通り聞いたマツダ支社長はこう言った「でも、それって嘘じゃないの?」僕はカチンと来て言い返した「嘘なんてことを言われれば、もうそれ以上論理的に説明する方法がありません。」マツダ支社長以外の幹部連中は「それはそうだけど…」と困惑を隠せない様子だった。僕は内心「しっかりしてくれよ。こんな連中がウチの会社のお偉いさんなの?」と思った。

 そしてその日の内から、会社の従業員に対する執拗な取り調べが始まった。当日勤務していたT調理師とN調理師、Kパート従業員は、多忙を極める業務中に、順番に何度も呼び出され、幹部連中に囲まれて、何時何分にやかんは何処に置かれていて、何時何分にどの様にやかんを洗浄して、何時何分にやかんを厨房に持ち込み、何時何分に沸かしたお茶を、何時何分にやかんに注ぎ入れ、何時何分にどの様に配膳車に乗せて、何時何分にどの様な形で提供したか?と何度も同じ質問を繰り返し浴びせられていた。考えてもみて欲しい、多忙な業務の中、前日の何時何分にどの様な作業をしていたか、逐一正確に記憶している者などいるだろうか?


取り調べは連日に渡り終業後も続いた、健康のお世話(株)は労働契約に、みなし残業代として月25時間を設定している。つまり、残業代など全く出ないのに、前述の3人は終業時間後も執拗に取り調べを受けていた。僕も終業時間後帰ろうとすると、幹部の一人から「カカケケさんにも事情を聴きたい」と言われたが、「私は事件当日はお休みでした」と断って帰った。

 

 事件は週末に起こったが、週が明けた月曜日、連休明けの月曜日に出勤してきたフルタチーフ(事業所の責任者、自分だけは何時も土日に休む)は朝礼で従業員を集めて言った。「非常に不味いことになった、今会社が原因究明の為に幹部たちを現場に常駐させ調査している。」僕は抗議した「イヤ、会社は我々健康のお世話(株)の従業員しか調査していませせん。今回の事件は人命に関わることですから、ちゃんと事件を警察に通報して、りんご荘従業員も対象にした公平な捜査をしてもらうべきです。会社は従業員を守る意思が全然無いんですか?」

「イヤ、会社は従業員を守る為に調査しているねん。」

「イヤ、我々健康のお世話(株)の従業員しか調査してないでしょ?りんご荘側の従業員を調査対象にする為にも、警察に通報して下さいと言っています。」

「イヤ、これは誰かが自分がやったと名乗り出てくれれば、後は会社が何とか話を収めるから、それで済む話なんや。」

「じゃあ、チーフが名乗り出たらどうですか?」

「イヤ、俺は事件当日休みやったから…」

僕は頭に来たが、他の従業員の手前その場では黙っていた、しかし次の日の休み、自宅からスマホで事業所にいるフルタチーフに電話した。

「チーフ、誰かが罪を被ってくれたらって、どういうつもりで言ったんですか?」フルタチーフは「イヤ、あれはもしもの話しで…」と言い訳しようとしたが、僕が「チーフがリーダーとして、ああいう発言をしたこと、会社に知れたらどうなると思いますか?」と質すと

、フルタチーフ「…すいませんでした。」と渋々謝った。


それで無くても我々の業務は多忙を極める、本来の労働契約では朝6時出勤となっているが、介護食というものは料理を普通に調理して、配膳すれば良いというものでは無く、利用者の食事形態に合わせて、普通食、一口食、刻み食、ソフト、ミキサー食と、加工する工程があり、非常に時間がかかるのだ。厨房に入ってから、前日に洗浄した食器を乾燥庫から出して片付け、各種厨房機器を立ち上げ、調理器具を準備し、老朽化した火力の弱いコンロで湯を沸かす迄だけでも小1時間はかかる、朝7時半に朝食を提供する為には、定時に出勤していたのではとてもじゃないが間に合わない。僕は毎日1時間は早く出勤していたし、N調理師は少し段取りが悪いので、4時半に出勤していた。且つ、朝食を提供したら直ぐにまた昼食の調理・加工・配膳に取り掛からなければならず、それが未だ終わらない午前11時からは、りんご荘職員からの昼食のオーダーが次々に入り、午前11時半に昼食の提供を何とか間に合わせれば、午後12時にはデイサービスの昼食の提供が始まる。それから午後2時までにおやつの準備をしながら、今度は夕食の調理・加工・配膳に取り掛からなければならない。就業から終業時間の午後3時迄休憩時間など全く取れず、息をつく暇もない過酷な業務である。当然、僕たち従業員が朝食や昼食を摂る時間など全く無かったが、会社側は朝・昼食代として強制的に一日380円を給与から控除していた。


だが、健康のお世話(株)は、それだけ懸命に業務に取り組んでいる従業員が、仮にも人を殺しかけた事をアッサリと認め、既にりんご荘に謝罪してしまった。T調理師は「僕たち、これから此処でずっと人殺しだと思われながら仕事するんですね…」と酷く落胆していた。もう、そうなれば仕方が無い、今度はマツダ支社長を始め幹部連中、キクチマネージャー、ヘンミ衛生指導担当兼労働組合役員が連日事業所に常駐し、厚生労働省が定めた食品衛生基準マニュアルを引き合いに出して、僕たちの業務の仕方の此処が違う、あそこが間違っている、と逐一指摘し始め、ヘンミ衛生指導担当兼労働組合役員は、「洗浄したまな板や、調理器具を浸潤する為にバケツに溜める希釈次亜塩素酸水は、それぞれ水何ℓに対して次亜塩素酸何㏄を入れているか?(大型のポリバケツ1つと小型のバケツに6個分よ)また作った塩素水は検査紙で毎回全て検査しているか?」などと、そんな暇なことイチイチやってる訳ねーだろと思うしか無い事を執拗に注意し始めた。言っちゃ悪いが、道路交通法を全て守って車を運転できないのと一緒で、あんなマニュアルを全て順守してたら仕事にならないのである。挙句の果てには、マツダ支社長は多忙を極める従業員に対し、「調理器具入れの扉は空けたら閉めろ」「ビニール手袋は使う度に、異物の混入を防ぐ為にビニール袋に入れろ」「厨房の使い方が汚い」「調理中にコンロを汚すな」「調味料入れを開けっ放しにするな」「料理の盛り付けの量が違い過ぎる!」(この際盛り付けは関係無くね?)とまるで姑の嫁いびりの如き、重箱の隅をつつく様な指摘を重ね、「そんな仕事をしているから、あんな事故が起を起こすんだ!」と大声で従業員を叱責し、あから様に僕たちに罪を着せようとし出した。僕とKパート従業員は希釈次亜塩素酸水に浸潤したまな板を、流水で流さずに殺菌庫に片付けたことを注意された。N調理師に至っては、調理台を拭くときに、希釈次亜塩素水を滴らせてしまい、マツダ支社長に「あんた危ないんだよ!」と罵倒されていた。僕はこの時点で、もうこれ以上この会社では働けないと諦めた。そりゃそうだろう、もし同じ事が起こって、万が一にでも死者がでた時、その罪を着せられる様な職場では、いくら何でも働けない。


2.「欺くこと勿かれ、而してこれを犯せ」「論語」卷第七・憲問第十四・二十三


職務には誠実でなくてはいけないが、間違っていれば、上司だろうが社長だろうが、逆らってでも諫める。 恰好付ける様だが、これが僕の信条である。だが、会社員がこれを実践すると、漏れなくクビになる。そんな事は僕も経験上知ってはいたが、知命になる現在まで、ずっとそうやって生きて来たし、その信条はどうしても曲げられない性分なのだ。

 僕は将棋を指す。今回は会社相手に一番将棋を指してやろう、孫子の計謀を以て、僕たちを裏切った会社に一泡吹かせてやとうと思った。


・「軍争より難きは莫し」 軍争篇第七・一


戦いに於いては、戦いが決定し、お互いに武装して対陣する迄の間での、機先を制する争いが最も難しいとされる。会社と事を構えるに当たっては、先ず糧道を確保しなければならない。調理師が食うに困っては笑い話にもならない。これは全く偶然なのだが、丁度その前日あるリクルーターから連絡をもらっていた。その時は、今は転職の意思は無いと断っていたのだが、これも何かの導きかと思い、早速その晩そのリクルーターに「事情が変わったので、早急に転職したい」とLINEをした。最近はビジネスでもLINEを使うらしい、おまけにリクルーターは若い女の子でスタンプまで使ってくる。僕が若い頃には、普及したてのパソコンに付いて来れないオヤジ連中が、「重要な仕事の連絡をメールで済ませるなんて!」と憤っていたものなのだが、昭和の男には隔世の感があった。そのリクルーターの助けも有り、転職活動は1社受けただけであっさり決まった。これでどう転んでも失業はしない、今度は戦いに備えこちらの持ち駒、戦力をを増強しなければならない。

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