第3話 先代胤栄の活躍(前) 大内の客将
「
「ならん、もう下知してしまった事だ!」
村中本龍造寺の本拠である佐嘉城、その主である
少弐の威勢は未だ健在であり、討伐の兵を挙げるのは危険である。
そう訴える彼女に対し、胤栄は耳を傾けてはいたものの、顔を背けたままであった。
「佐嘉は我が庭だ。それに頼周を討った我らの勢いは昇龍の如し。少弐はもはや成す術があるまい」
語る胤栄は語気を強め、自信を漲らせる。
そして小姓達に手伝わせつつ甲冑を身に着け終えると、「よし!」と一言気合を入れ、ようやく奥方の方を向いた。
「心配するな、必ず冬尚の首を手土産に帰って参る。この肥前に龍造寺による新たな秩序を築くのだ!」
胤栄はそう告げて、きりりと引き締まった顔から、朗らかな笑みを奥方に向けて零すと、やがて軍勢を率い城を後にしたのだった。
隆信の先代当主、龍造寺豊前守胤栄。
父
後に水ヶ江家から家兼の孫娘(家門の娘、鑑兼の妹)を妻に迎えている。
その六年後、天文十四年一月に、例の龍造寺粛清の事件が起こる。
彼も少弐家への屈服を余儀なくされたが、三月、家兼に呼応して挙兵。少弐に加担した
だが彼はそれだけで満足しなかった。
翌年一月、今度は西隣の
ただその挙兵は、龍造寺三家の体制を覆すものだった。
これまでは三家の舵取りを家兼が担い、村中本家はその下で連携を図るというもの。だが馬場頼周を討ち取って以降、高齢の家兼は病に伏せる日が多くなっていた。
本来、惣領であり本家当主である、自分の方が立場が上なのだ。家兼が舵取りを担えないのならば、彼の下に甘んじる必要はない。
そう胤栄は判断し、他の二家に相談することなく、奥方の制止も振り切り、戦に臨んだのである。
しかし──
※ ※ ※
「兄上、脱落する者が後を絶ちませぬ。もう少し速度を落としてお進み下され」
「…………」
「兄上!」
現実は残酷だった。
胤栄の軍勢は、佐嘉郡内にやってきた少弐勢と合戦に及んだものの敗北。結果、佐嘉城に帰る事が出来なくなり、筑前へと落ち延びる羽目になってしまったのだ。
彼の背後からは弟、
「兄上‼」
痺れを切らした家就の口調が次第に強くなってゆく。
その憤りに配慮した胤栄は、ようやく足を止めると、ふうと一息ついて振り返った。
彼らがいたのは、
登り坂の真っ只中にいる彼らの眼下には、佐嘉郡の南から、有明海の水平線までを収めた景色が広がっていた。
旅を楽しんでいる者ならば、その広大さに心奪われ、思わず立ち尽くしているだろう。しかし今や彼は落武者。そして山内は少弐に味方する神代氏の勢力圏内である。
余裕など微塵もあるはずが無く、佐嘉城はどうなったのかと、その方角を不安気に眺めるのが精一杯だった。
やがてふらふらの家就がようやく追いついてくる。
それを見て、胤栄は
「このまま行くぞ、脱落者は放っておくしかあるまい」
「お、お待ちくだされ。しばし休息を……」
そして家就の懇願に耳を貸すことなく、疲れ果てた体に鞭打ち、再び獣道の様な悪路と格闘しながら山を越えていったのだった。
※ ※ ※
しかし胤栄一行は運に見放されていなかった。
彼ら頼ったのは西国屈指の大大名であった大内家。その家臣で筑前守護代だった杉興運の元へと向かったのである。
そして胤栄来訪を知った大内家は、三月、一行の入国を正式に許可し、扶持を与え客将として待遇したのだった。
大内家と少弐家は長年仇敵の間柄である。
室町の世に入ってから、九州探題渋川氏の後援を名目に大内家は九州に進出し、豊前と筑前に影響力を及ぼしてゆく。
その過程で本拠の大宰府奪還を狙う、少弐家との抗争を繰り返しており、敵の敵は味方という事で胤栄は厚遇されたのだった。
以後、彼は大内傘下の将として活動する事になる。
ようやく手に入った心身共に落ち着ける場。提供してくれた大内のために奉公に励まねばなるまい。心機一転そう彼は気合を入れていた。
だが、その意気をへし折る一通の書状が、佐嘉にいる旧臣からもたらされた。
──敗戦の後、佐嘉城に残っていた者達は少弐に降伏した
悲報に胤栄は
おそらく城では、差し押さえにやってきた少弐の者達がのさばっているはず。粛清からようやく取り戻した日常は、再び壊されてしまったのだ。領民は、妻は、娘は皆無事なのだろうか。
その原因は間違いなく己の見通しの甘さだ。
もしあの時、奥方の制止に耳を傾けていたら、与賀家や水ヶ江家と連携を図っていたら、少なくともこの最悪な結果は回避できたであろうに。
しかしあれこれ悔やんでも現実は変わらない。
今は大内家に認めてもらい、帰郷を果たせる様に懸命に励むしかないのだ。
そう胤栄は覚悟を決め、大内勢の中に身を投じ、西筑前や東肥前に出没する少弐方との戦に明け暮れていった。
※ ※ ※
だが、その日々も決して無駄なものではなかった。
(何だ、あの隊の強さは⁉)
とある少弐方の拠点を攻めた時のこと。
大内勢の中において抜きん出た働きぶりを見せる一隊に、胤栄は目を奪われていた。
乱戦の中から敵勢の弱点をいち早く見出し、そこへ戦力を集中させ崩す。そして攻めに転じると遮二無二だった。奪った主導権は決して手放さない。
迅速は相手の百の手段を封じると言うが、その言葉どおりの戦いぶりだ。おそらく率いている将は
彼らの旗指物には大内菱が印されている。大内一門にあのような、戦上手がいたとは──
興味を抱いた胤栄は、共に参陣していた将の一人に、あの隊を率いているのは誰かと尋ねてみる。
すると、その将はひどく驚いて返答するのだった。
「何と、貴殿は御存じないのか、黒川様を?」
「黒川様?」
黒川
元の名を
大内家に仕え、特に軍事面においてその才を発揮。大内家当主の義隆は彼を高く評価し、大内家の本姓である多々良姓と、一門黒川氏の名跡、更に自身の「隆」の一字を与えている。
以後、彼は義隆直属の一門格の武将として各地の戦陣に身を投じてゆく。
天文元年から三年間続いた大友家との戦いにおいては、筑前筑後を転戦し、特に要害立花山城を調略をもって攻略するという大功を挙げた。
また天文十年、尼子勢が毛利氏の吉田郡山城に押し寄せた際には、尼子に寝返った厳島神主の友田興藤を水軍を率いて打ち破り、厳島を占領している。
胤栄は、遠方からその軍勢の動向を凝視していた。
佐嘉にいては見る事の出来なかったであろう、戦場における生きた手本。それを間近に見れた事は、彼の人生において大きな財産となったのだ。
※ ※ ※
そして翌、天文十六年(1547)早々、胤栄は山口へ向かった。義隆に面会し、少弐討伐の許可を貰うためである。
義隆は天文十年(1543)に、出雲尼子氏の本拠、
だが一月もすると失意から立ち直り、戦後処理や尼子勢の襲来に備えて防衛体制を築くなど、以前と変わらず精力的に政務をこなしていた。
好調な石見銀山からの上納銀、遣明船派遣からもたらされる莫大な利益。
それらを以て朝廷に献金し、自身と家臣が昇進する事で高まってゆく権威。
そして繁栄と権威を聞きつけて、京都から下向してくる公家や文化人達。
彼の手腕により、大内領国は再び元の威勢を取り戻しつつあった。結果、兵馬を遠征へ赴かせる余裕が出来たのだろう。この頃から義隆は尼子に寝返った備後の国衆、山名氏の攻撃を本格的に始めている。
その西国最強の兵馬の力添えを、ぜひ佐嘉奪還のために賜りたい。
胤栄の訴えが功を奏したのは三月の事だった。大内家は胤栄の働きぶりを認め、彼を肥前国代官に命じ、四月には佐嘉郡内五千町、その他に千町、計六千町を恩賞として与えた。そして少弐家討伐のための軍事活動を行うと伝えてきたのである。
破格の恩賞と言っていい。
大内家は肥前守護職を持っていないので、代官と言う名称を使ったのだが、肥前を統治する権限を彼に認めた事に変わりはない。
また所領についても多くは未だに少弐家の威勢の下にある。なので六千町と言う数字については、「少弐家と傘下の者達を討てば、その領地を切り取り次第与える」と言う意図を含んだものだった。
やがて筑前に戻った胤栄に、作戦の詳細がもたらされる。
その陣容を見て、彼は思わず声を上げた。龍造寺後援を命じられた軍勢の大将に、あの黒川隆尚が任命されていたのだ。
「良かったですな、兄上!」
「ああ、手筈は整えた。以前と同じ轍を踏んでなるものか。必ず佐嘉をこの手で取り戻すのだ!」
笑顔の胤栄兄弟は、互いに頷き合う。
そして七月、彼らは大内から与えられた一軍を率い、肥前の東端へと侵攻していったのだった。
目指すは少弐氏の本拠、勢福寺城の陥落。
龍造寺豊前守胤栄、一世一代の逆襲が始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます