錮宮迅という封術師 1

 

「だから、あの人と私は、付き合ってないってば」

「信じられない。だってどう見てもアンタたちそういう空気出してるし」

「しつこいよ、二階堂にかいどう。あの人とは、そういう関係じゃないって、もう何度もいったでしょ、いい加減にして!」


 一ノ谷いちのやの手にあった花瓶が、音高くぜた。言葉尻の語気を強めた瞬間だった。


「なっ、……」


 手のひら、ブラウス、タイトスカートから、砂粒が床にこぼれ落ちていく。爆発的に膨れ上がった怒りが瞬時に収まり、一ノ谷は驚愕の声しか出なかった。

 会社の女子トイレで一ノ谷をからかっていた同期――二階堂も、出入り口付近で凍りついている。先ほどまで、にやけていたその顔も同様に。

 白々と蛍光灯が灯るトイレの片隅、スリット窓の外は暗い。ほんの少し前まで、そこを毒々しい赤色に染めていた夕焼けの明かりはもうない。今は、逢魔が刻すぎたばかりだ。


 一ノ谷がこわごわと己の両手のひらを見る。

 ついさっきまであった陶器製の花瓶がない。ただの細かい砂粒しかない。部署の女性たち気に入りの北欧デザインボーダー柄の花瓶は、どこにいってしまったのだろう。

 なぜ、砕け散ってしまったんだ。わけがわからない。落とさないよう、両手で握っていただけだ。どうして原型を留めないほど、粉砕されてしまったのだ。


 ただ少し荒れた感情に任せて強く握っただけなのに。


 まるで内側に爆発物でも仕込まれていたような爆ぜ方だった。しかし己の身体はどこにも痛みもなければ、怪我もない。それに洗ったばかりで中に何も入ってなかったのは、己が一番よく知っている。あり得ないだろう。


 顔を上げると、二階堂と目が合った。その目に怯えの色が走るのを、一ノ谷は見てしまった。


「……い、一ノ谷って……えっと、その、す、すごく……握力が強いのね……?」

「……えっ!? そ、そうかな? や、うん。そう、そうなの。実はかなり強いの! 学生の時ハンドボール部だったからっ」


 だいぶ無理がある。むろん双方とも承知している。

 いかに怪力であろうと、陶器の花瓶を粉々になるまでは砕けまい。しかも片手でようやくつかめる大きさだった。握り潰すなぞできようはずもない。

 あはは、と空笑いする一ノ谷の声が、二人しかいないトイレ内に木霊して潮を引くように消えた。

 気まずい沈黙が落ちるなか、かすかに鐘の音が聞こえる。蓬莱町の北区にある唯一の高層建築物、時計台が午後六時を告げた。


「ご、ごめん、私先に帰るね!」

「……お疲れさま」


 早口に告げた二階堂が長い髪をなびかせ、背を向ける。逃げるように足早に去っていった。

 一ノ谷は、揃いの社服が消えた出入り口をぼんやり見つめる。洗面台横に置かれた切り花の花弁が、ぽろりと一枚剝がれ落ちた。




 あの爆発は一体なんだったのだろう。

 その疑問だけが一ノ谷の脳裏に渦巻いていた。

 あれから手早く砂を片付けた後、急いで帰路に着き、現在は自宅である賃貸マンションの居間にいる。お気に入りのフレンチインテリアで揃えた部屋で、心を落ち着けようとしていた。

 傘つきフロアライトのもと、ソファに腰掛け、湯気の上がるマグカップを両手で持っている。あたたかい飲み物は、気持ちも寒さに強張った身体も少しは解してくれた。

 時間をかけて飲み干したマグカップをテーブルへと置いた。隣に置いていたクッションを抱え、背もたれに深々ともたれ掛かる。

 なんとか一息ついたものの、会社で起こった不可解な出来事はやはり頭から離れない。


「――たまたま花瓶が脆くなっていただけ、とか……」


 そんなわけない。どれだけ脆かろうが爆ぜるものか。

 考え続けるうちに、花瓶が砕ける直前、二階堂に後輩の男性との仲を勘ぐられ、からかわれていたのを思い出す。

 徐々に苛立ちが募った。身のうちから湧き出る泉のごとく沸々と怒りが込み上げてくる。


「あーっ、もう! 二階堂ってば、有る事無い事好き勝手に噂ばらま、いッ」


 力任せに両腕で締め上げたゴブラン織りのクッションが爆ぜた。

 天井にまで達した大量の羽根が、十畳の居間に舞い落ちる。どこか幻想的な光景だが、室内でなど場違いにもほどがある。驚きに開いた口にまで入り込み、咳き込む。


「あ、あたし? あたしのせいなの!? なんでッ」


 涙目で叫ぶと、テーブル上のマグカップが真っ二つに割れた。思わず、立ち上がる。


「うそ、やだっ、お気に入りだったのに――」


 慌てて口許を両手で押さえ、ソファに逆戻った。

 原因はわからない。だが叫んだ時に異変が起こるのは間違いないだろう。しんしんと降っていた羽根がすべて床に落ちてしまうまで、気を静めようと努めた。

 ほどなくして落ち着いたものの、今度は部屋の惨状にうんざりとなる。

 空腹のなか、またも掃除しなければならないなんて、やってられない。

 生気の抜けた目で室内を見回す。家具とカウチの上、床はおろか、己の身体にまで積もっていた。

 力なく頭を下げると、ぱらりと一枚の羽根が落ちていった。



 結局、ろくに眠れもせず、一ノ谷は朝を迎えた。

 いくら考えても原因に心当たりはまったくない。

 どころか、悩めば悩むほど状況は悪化していった。器物が割れたり、砕けたりは序の口で、しまいには電化製品が壊れ始めた。

 怒り、悲しみ、ひいては喜びまで。感情の降り幅が大きければ大きいだけ、周囲に甚大な被害が出る。

 それだけがわかったことだった。

 極力穏やかな気持ちで過ごすよう努力したものの、これが大層難しかった。食器の洗い物中、うっかり手を滑らせ、シンク内でグラスを割ってしまった際、思わず叫び声をあげた。すると背後で、炊飯器が破裂音とともに煙を上げたのだった。


 お手上げだ。己では、どうしようもない。


 異変が起こるのが家の中だけならば、まだいい。被害は己の物だけで済む。

 だが多種多様な機械製品がある会社でまた同じようなことをしでかしてしまえば、どうなる。弁償する羽目になるかもしれない。とてもではないが、出社はできない。

 それに、昨日の二階堂のように奇異な者を見る目を向けられるのは必定だろう。

 リビングに面した窓を開けると、朝の清々しい空気が焦げ臭を含む空気と入れ替わっていく。深々とため息を吐き出し、うみ疲れた様子でスマホを手に取る。会社に休暇申請の連絡を入れたのだった。



 ◇



 何かしら困った時は、真っ先に祖母に相談する。

 それが幼い頃から身に染みついている一ノ谷は、つい先日訪れたばかりの、同町の南区にある祖母宅へと駆け込んだ。藁をもつかむ思いであった。

 類似の家屋が建ち並ぶ住宅地の一軒家につくやいなや、玄関先で出迎えてくれた祖母に向かい、己に起こった異変を切々と訴え続けた。

 が、祖母は聞いているのか、聞いていないのか。

 怒涛の語りの最中、無言でいた祖母が不意に背を向け、家の奥へと向かってしまう。一ノ谷も慌てて靴を脱ぎ、その後に続く。居間を過ぎて和室へと入り、ともに座卓についた。

 こぢんまりとした和室は、飾り気はない。床の間にだけ、掛け軸が掛かり、造花が挿された一輪挿しが置かれている。

 中央に置かれた座卓には、祖母の好物である甘納豆とお茶道具があった。常通り、朝食後の甘味を嗜んでいたのだろう。

 それを視界に入れた時、一ノ谷はようやく、ここでもおかしな現象を起こしてしまうかもしれないと気づく。

 青ざめ、落ち着きなく席を立とうとすれば、祖母に待ったをかけられた。座り直しながらも、やや身を乗り出す。


「ねえ、お婆ちゃん。あたし、どうすればいいの」


 すがる眼差しを受けた祖母は、座卓上の甘納豆に手を伸ばす。「おいしいわあ」と呟き、朝食後のおやつタイムを再開した。


「……お婆ちゃん。あたしの話、聞いてた?」

「ええ、ええ、もちろんです。お茶を淹れてくださる?」


 一ノ谷は、しぶしぶ急須を手に取った。マイペースの祖母に振り回されるのはいつものことだ。急かしたところで無駄に終わるのは、幼き頃から身に染みて知っている。辛抱強く付き合うしかない。

 ひっつかんだ急須に茶葉を適量放り込み、エアーポットを無心でガシガシと押して熱湯を注いだ。待つことしばし。そつのない手つきで、湯飲みに入れて祖母の前へ。


「お待たせしました。粗茶ですが」

「玉露です。せっかくのいい茶葉ですのに、淹れ方が雑ねえ。貴女、それで事務員のお仕事ちゃんとこなせているのですか」


 痛いところを突かれ、グッと奥歯を嚙みしめた。熱湯が適温になるまで到底待ちきれず、ついやってしまった。

 常日頃、会社でも同様のことをしていて、味にうるさい上司に嫌みをいわれている。


 文句があるというのなら、自分で淹れればいいものを。


 日頃感じている苛立ちを思い出し、腹底から怒りが込み上げてきた。両手で座卓を強くつかむ。

 トンッと祖母が人差し指で座卓を叩いた。その音に、ハッと我に返った一ノ谷が胸に手を当てる。気を静めるべく深呼吸を繰り返した。祖母は、のんびりと湯飲みに息を吹きかけている。

 そして一口飲み下し、視線を上げた。

 その変わらぬ凪いだ瞳と表情を見て、一ノ谷は期待に胸を膨らませる。


 きっと大丈夫。お婆ちゃんは必ずいつものように的確な助言をくれるに違いない。過去、幾度ももらった助言は、一度として外れた試しはない。今まで何度もそれに助けられた。

 お婆ちゃんの言葉に従っておけば、間違いない。


 なぜなら、それはまるで未来を知っている預言者のごとき正確さを誇るのだから。

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