第9話


 そこは、当時、薄汚れていた。

 物の捨てられなかった雫の両親の物置だった。その場所を書庫にしたのは雫だった。物置にしては少し大きかった。

 そこに、みんなの本が集められた。

 雫は子供の頃から本が好きで、いなくなったと思ったら、だいたい書庫にいた。小さな電気スタンドの灯りのもとで、本を読む雫の姿は触れてはならない聖域のように思えた。

 彼女は本に囲まれて、本の世界に住んでいた。

 

 幼い俺は、その神聖に澄み切った彼女だけの領域に、恐る恐ると足を踏み出した。彼女の両親でさえ、読書中は近づいたりしないのに。集中しきっているということが傍目でも明らかな彼女と本の閉ざされた場所に、子供の好奇心で歩を進めた。


「誰?」


 雫は、本を閉じた。雫は、ちょうど読書を切り上げて、こちらを一瞥した。クリクリとしたあどけない瞳は、不思議なものを見ているようだった。ここにいるときに、人なんて来ないと思い切っているような――――。

 

「雄一、朝倉雄一」


 小学生の一年生の一番初めにしそうな自己紹介をした。顔も名前もすでに知っている同士なのに。イスに座っていた彼女は、静かに、わたしは雫、相川雫と返した。

 ちいさな手には大きいハードカバーの本を持っていて、両手で本棚に戻そうとしていた。俺はそれを危ないと思って、自分が戻すといって、二段だけの脚立にのって、もとにあったであろう場所に戻した。


「モンゴルって面白そうな場所だよね」


 彼女が言っていた言葉の意味を、俺は全く理解できなかった。彼女が読んでいたのは遊牧民の歴史についてで、小学生の俺にはまだ縁遠いものだった。小さな頭脳は日本海を挟んだ向こう側の、自分とは全く違う空間と時間を隔てた物事を夢想していたようだ。俺は、そんなことはできなくて、ただ周りにあふれているなんてことないものに感動する、ただの少年だった。


「どういうところが」


「ゲルっていうテントで移動しながら暮らすんだよ。定住なんかしないの」

 

 定住という言葉が理解できなかったけど、なんとなく、毎日キャンプ生活でもするイメージが湧いた。


「秘密基地みたいだ」


 そう、答えたのも、なんとなくだった。テント=秘密基地風みたいな短慮がもたらした言葉だった。本なんて読書感想文ぐらいでしか読まない自分の浅はかな会話のキャッチボールだった。

 でも、雫の電気スタンドに照らされた横顔を見ていると、考え込んでいるようで、チラチラといくつかの本棚の本に視線が揺らいでいた。


「秘密……基地……」


 雫は、なんだかそれを愛おしそうに口ずさんだ。

 リフォームで作られる書庫ができる前の話だ。

 

 


  ◇ ◇ ◇




 漫然と本を読む。登校途中の歩く時間、朝の読書の15分の時間、休み時間、昼飯を終えた昼休み、午後の休み時間、放課後、放課後の帰りの時間、休みの喫茶店、近くの大学の図書館――――。

 ただ習慣として、慣れた動作として、気づけば俺は本を読んでいる。

 集中して、というより他に何かやるべき事が分からないから。すくなくとも、本を読んでいれば間違いはないだろうという感覚で。教養はプラトーに達して何も得るものはないはずなのに、似たような事を繰り返すことで安心感を得ている。倦怠を自覚しながらも――――。

 今日も、目は文字の上を滑っていく。


「はーい、朝倉くん、さっきぶり」

 

 朝の読書を終えて、一限が始まる前。神崎は、俺の机に手をついて、己の存在を主張していた。読書の時間とペースを乱されて怒るような段階をとっくに過ぎていた俺は、栞を挟んで、神崎を眺めた。


「うわ、もっと嬉しそうな顔をしてよ」


「すまん、普通の対応で諦めてくれ」


 可愛い女子から話しかけられたら顔を綻ばせるのが通常の男子の反応であるべきなのだろう。

 すっと腰を机に軽くかけて、神崎はさらっと爆弾を投下する。


「今度の映画、なに見ようか」

 

 神崎の言葉は、クラスのみんなを沈黙させた。普通のトーンだったが、注目される女子の声は耳ざとくクラスメイトに聞かれた。


「神崎、元カレは男女の友情の成立の完成形ではないんだが」


「あ、まだ未練が、ごめんね」


 冗談めかして、言う神崎は、なんでもないことのように、話を進めた。


「これとか、どうかな」


 スマホを見せながら、神崎は、オススメの映画を勧める。

 元カレの準備のために映画を見るんじゃなかったのか、と訝しげに神崎を見ると、小声で答える。


「映画って、今やってるの観るしかないでしょ」


 確かに。元カレのための映画となると、もう映画館での上映が終わっているというオチか。それに気づいての力押し。 

 普通に付き合っている頃から映画を一緒に何度か観ていたかのようなお誘い、というわけか。

 

「これ、原作読んでるな」 


「原作を知っていると、どうなるの」


「ストーリーを知っているから、漫然と見て、ここが原作と違うと薀蓄うんちくを垂れることになる」


 俳優にも興味ないし、カメラワークなんて尚更だ。


「よし。パス」


 清々しいぐらいに神崎は、ぶった切った。

 

「同じものを初めて一緒にするという体験が大事なんだよ、ねぇー」


 同意を求めるな。そういうことは、カレシカノジョでするべきことだ。少なくとも元カレ元カノでするべきものではない。


「そうだな」


「あ、生返事だ。全然、共感してないやつだ」


「そうだな」


「今の、とても共感力高そう」


「読書をしているとEQが上がるんだ」


「一般的には、ね」


 神崎とふざけた会話をクラスで見せびらかしながら、映画の予定を決めていった。

 疲れた。やっぱり演技というのは向いてないんだな。神崎がコミュ力の高い人間で助かった。ただ、計画性があれば、もっといいんだが。

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