魔法

 ポケットから青色のハンカチを手に取り、自分の前で角を持って下に垂らすようにする。角を持つ右手を左手で覆って隠して、勢いよく右手を上に引き抜く。

 さっきまでハンカチを摘んでいた僕の右手には、安っぽい青薔薇の造花。

「すご〜い」

 ぱちぱち、と、一人分の拍手がただ響く第二視聴覚室。黒板には、いつ書いたか思い出せない、掠れた「手品部」の文字。不細工な鳩の絵。さっき書き換えたばかりの「五月二十六日」の文字。

「飽きないね、本当」

「飽きないね。本当に本当みたいだもの」

「僕は飽きた。はぁ、」

 薔薇を机に放って、椅子の背を肘掛けにして足を組む。もう十六時になるってのに、嫌なくらいの青空。

「早く帰宅部になりたい。さっさと帰ってゲームしたい。そっちだって勉強しなきゃでしょ。辞めちゃ駄目?」

 向かい合わせに座るミナミは、僕の放った薔薇を手に取った。

「駄目。新しい部員ゲットして、学校でいっちばん大きい部活にして、大会に出るんだから」

「ぜーったい出来ないよ。絶対」

「今出来てないのと、これから先出来ないかどうかは別だよ」

 良いことを言った風のミナミは、青薔薇を指先でくるくる回す。

「なーんにもしてない癖にさ……」

 背もたれに頬杖をついて、外を見やる。窓硝子の向こうにはいつも通りの静けさが広がる。目を閉じて見るのと変わらないな。

「ていうか、国立って言っても地方だぜ、大したことないよ」

「……香戸の何処が『大したことない』だよ」

 ミナミはなにも返してこなかった。自分勝手な奴、と思いながら、袖の中の青いハンカチをポッケにくしゃくしゃに突っ込む。そして薔薇で遊んでいるミナミを他所に、午後の青空を切る燕を探す。

 こうやって、文字にならない取り留めもないことをふんわり考える時は、それがどんどん膨らんで飛躍していくのにも気付かない。思考と宇宙は似ていると思った。そういえば宇宙の終わり方は、思考が展開し切るのと同じだ。

 そうして僕は思考がビッグリップするのを感じて、結局沈黙を割ってミナミに話しかけた。

「手品って、マジックって、魔法って言うじゃない」

「うん。」

「こんなので魔法だなんてさ。大きく出たなって思わない?」

「いやあ? どうだろう」

 ミナミは手に持った安物を愛おしそうに見つめている。なんだかむっとした。

「——ねえミナミ」

「僕がこんな安っぱちのマジックなんかじゃなくて、本当の魔法が使えるって言ったら?」

「是非見てみたいね」

「……あそ」

 溜め息をついて、僕は目を瞑った。瞼の裏で時を止めた景色の中で、ミナミの手から造花を取ることを想像した。そして僕は目を開く。さっきミナミがやっていたみたいに、自分の手の内の青薔薇を嗅いでみる。埃っぽい。

「どうだった?」

「何が?」

 ミナミは手に持った黄色の薔薇を、窓の外の太陽に翳して遊んでいた。

「……」

 ポケットの中に手を突っ込むと、くしゃくしゃの黄色のハンカチが出てきた。机に放る。そしてもう一度目を瞑った。

「今度はちゃんと見てて。筆箱の方」

「ん?」

 再度時を止めた景色の中で、机の上の自分の筆箱から青色の蛍光ペンを取って、ミナミの筆箱に挿してみる。目を開く。

「ほら、僕のペン、そっちに移動しなかった?」

「ペン? どれさ」

「これ」

 さっきまで僕の筆箱に入っていたペンを指差す。

「ん? お前のペンっていうか、これは僕のだけど。ずっとここにあったと思うよ。同じの持ってるの?」

 ミナミがそう言ったところで、頭に何かが流れて入ってくる感覚。ああ、そうだ。そうだよな。なんでミナミのものを僕のだなんて思ったんだろう。……なんて。今は『そうなった』らしい。はー、と溜息をついた。

「何をしたら魔法なのさ……」

「何でさっきのこれが魔法てじなじゃないの?」

 ミナミはまだ薔薇を手放していなかった。

「じゃあさ……じゃあ、」

 僕はミナミに向き直る。

「何でも思い通りに出来る力は?」

 僕は真剣だってのに、ミナミは考える素振りすら見せなかった。

「えー。それは違うな」

「はぁ……?」

 何だか自分の事を否定されたような気持ちがして、胸の奥がぐつぐつして熱くなるのを覚える。

「魔法ってのはさ。そういう全知全能みたいなのとは違うんだよ」

 僕が机に放った黄色のハンカチを、ミナミは手に取り、自分の前で角を持って下に垂らすようにした。

「なにか綺麗で、心が躍るようなものだ。」

 造花を持つ右手をハンカチで覆って隠して、勢いよく右手を上に引き抜く。

「丁度、この薔薇の花みたいに。」

 安っぽい造花は、変わらずそこにあった。

「思わない?」

「……思わない」

「ざーんねん」

 そう一言残して、ミナミは薔薇と二人の世界に入っていってしまう。こんな僕には、薄汚れたプラスチックの薔薇の美しさなんてこれっぽっちも分かりやしない。

「……」

 ああ、もしこの魔法が、嘘っぱちの魔法マジックみたいに、ミナミの目にも明らかに美しいものだったら。するとミナミの手から、ミナミがあんなに愛おしそうに眺めていた薔薇の花がするりと机に落ちた。そしてミナミは机の上のそれを靴でぐしゃりと踏み潰して、いきなり、僕のネクタイを乱暴に引っぱった。

「だから僕は君のこと、自分を失くしてしまいたくなるくらい羨ましいと思うんだ」

 鳥肌が立った。

 今の瞬き・・の間に、僕は一体何を考えた……?

「君もそう思えよ。なあ、僕と同じくらいに愚かであってくれよ、少し口を滑らすだけで良いんだ」

「な、何……」

 怖くて、思わず目を閉じた。すると突然強い力で突き飛ばされる。椅子を巻き込んで尻餅をつく。そこにはさっきと全然違う表情をしたミナミ。

「近づくなよ、気持ち悪い……!」

 違う。違う。何故? いや、焦ったんだ、焦っちゃいけない、兎に角、元に戻さなきゃ。肺を絞るみたいにしてどうにか震える息を吐き、目を瞑って何か普通のものを考えようとする。出来ない。出来ない!

 パニックになって、自分が何を考えているのか分からない。宇宙と違って頭蓋という限界があるというのに、どんどん無限に近づいて膨らむ思考に頭が追いつかない。反射で瞬きして目を開くたびに、ミナミの表情が変わって、全身殴られたみたいに痛くなったりなくなったりして、教室の見た目がおかしくなって、昼が夜になって、空に海月が泳いで、土星が間近に降って。

「全てが思い通りになるってなんて素敵なんだろうね」

「君のことなんてどうでも良い」

「嫌だ、遠くに行かないで」

「何もかも大嫌いだ、みんな終わってしまえ」

 どうすれば良いかわからない。いっそのこと、全部全部無かったことにしてしまえたら。

 僕は思わず目を閉じた。

 

「なあ」

「なあ起きろよ」

 はっとして飛び起きる。僕は教室の机に突っ伏していた。

「五分休みで爆睡とか、昨日何やってたの? 徹夜でゲーム?」

 くすくすと笑うミナミの顔。窓の外を燕が二羽、つうと横切っていく。黒板の日付を見る。五月二十五日……。

「ユリネ?」

「…………あ、んと、」

「早く行こうよ。チャイム鳴っちゃうよ」

「いま……なん……次、何だっけ」

「化学。次は実験だから第一理科室集合だって」

「あ……そう、だったね」

 僕は机の中から教科書とノートを引っ張り出して、ミナミを追いかけた。

 

 ……そうしてチャイムが鳴って、先生が聞き覚えのある実験の説明をする中。

「なあユリネ。さっきから顔色悪くない? 大丈夫?」

「え……あ、ああ。うん。大丈夫……」

「えー。本当? まあ、お前がそうなら良いんだけどさ」

 ミナミはそれだけ言って、前を向いた。

「今日は中和滴定です、まず机の上に……」

 机の上に、何かの液体が入った茶色の瓶が二つ。

「確認できたら、ワークシートの一番上……」

「……」

 

 僕は立ち上がって、その瓶の片方を手に取った。そして栓を取って、自分の眼の上にひっくり返した。

 椅子の倒れる音と、悲鳴。

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