ナイフ
あの日部屋のガラクタと一緒に燃えるゴミに捨ててしまったナイフのことを思い出して、今僕は文字を綴っている。
あれは父のナイフだった。父の草臥れた筆箱の中に入っていた。中学生の時の僕は酷く病んでいて、でもそれを自分で慰めることが出来ない卑しい人間だった。だから形の無いどこかの誰かに、本当は名前と生活があるような村人Aみたいなのではなく、実体のない黒い影や霧みたいな誰かに、如何に自分が可哀想な奴かを教えたくて、腕に何回も何回も切り傷を付けていた。最初は確か彫刻刀の平たい斜めの一つだった。だけれどかなり早い時に、より自分を可哀想な奴だと思いたいが為に、木のカバーを被った4cmほどの幅のいかついナイフを、父の筆箱から取り出して、勉強机の引き出しにしまった。そして自分のことを嫌な奴だと思う度に、何か辛いことがある度に、それを取り出して、手首を何回も何回も切りつけた。
けれど、もうそれをやめて二年は経つ。始めた時からは五年ほど経つ。あんな愚かなことを辞めて暫く経った今、腕に残る洗濯板みたいな傷を見て過去のことを思い出す時、本当に本当に嫌な気持ちになって、何であんなことをしたんだろうと酷く鬱々とした気分になる。特に悲しかったのがこれを彼女に見られた時だった。彼女はそれに気づくなり、がたがた震え出して虚な目で親指の爪を噛み始めた。どうやら傷跡というものが苦手らしかった。僕は深い悲しみと自己嫌悪を、高いビルから自分が身を投げる妄想で慰めた。たかが妄想。どうやらあの時から何も変わっていないらしい。
そうして半年くらい前、初めて断捨離をした。彼女と別れた時。案外落ち込むようなことは無いもんだなと思っていたけれど、人間自分が傷ついているかどうかなんて分からないみたいで、ちょっとしたことですぐ悲しくなってイラついて、何もかもが嫌になって、でもそれを慰める方法は今でも分からないから、ゲームの負けがかさんだ時に部屋の物という物に当たり散らして部屋が荒れた。その片付けをしなければならなかったのだった。その時に、勉強机の引き出しを開けて、木のカバーを被ったあのナイフを見つけた。父親の筆箱に入っていたナイフ。僕の血に少し錆びたナイフ。
腕を切るのは、その時の辛さや鬱々とした気持ちを無くすことではなくて、ふとそうして腕を切っていたことを思い出した時にそれを押し付けることだと思う。だから引き出しの中のナイフを見た僕は、またすごく嫌な気持ちになった。そして、僕は二度とあんな愚かなことはしないだろうとも思った。そんな軽薄な誓いと一緒に、僕は写真立ての割れた硝子だとか高校三年の集中講義の時間割の紙だとか、インクの出なくなったペンだとかが入っていた青の燃えるゴミ袋に、その父親のナイフを放った。……。
そうして水曜の朝、ゴミ袋の中のナイフは母にゴミ捨て場へ運ばれて、8:00に来るゴミ収集車の中に放られ、そのまま有象無象のゴミと一緒に処理場で真っ赤な火に包まれて、燃やされる。木の持ち手とカバーは灰になり、金属の刃はゆっくり赤くなって溶けていく。偶にそんな光景を妄想して、悲しくなる。今頃、あのナイフは、薄汚い灰に生もれる鉄の鈍になっているのだろうか、なんて考える。
あの暫く後、あの筆箱を開けて父親が、「あのナイフ、どこに行ったっけ。」と言ったのが、胸に深く突き刺さって抜けない。
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