遠江と平安京
数カ月後、笠置山の住居で、新たな世話人とともに暮らす明子のもとに、光遠が訪れた。怪我と火傷のおかげで休みをとってはいるが、じきに元の生業に戻れるという。明子は欠伸をして「おもしろい話は?」光遠は形ばかりの苦笑をした。「遠江の行者の話をしよう」明子はうなずいた。
光遠は傍らに徳利をおいて語りはじめた。
先月、遠江の国から珍味が献上された。見た目は干魚で頭と尾を落として切って開いた形をしているが、国司からの奏状によれば実際には蛇の肉なのだという。珍味の正体を聞いて、殿上人はみな気味悪がったが、国司の報せには続きがあった。
蛇といってもただの蛇ではなく、湖のほとりに庵を構える行者が特別な法で捕らえた格別の逸品。国司は二度、件の修験に遣いをやって蛇の肉を売ってくれと頼んだが、手に入れることは叶わなかった。三度目は国司自ら庵に赴き、相応の対価を差し出してやっと手に入れることができた。
行者によれば、蛇の肉を念入りに炙って炎の陽気を込めれば「ばっちりになる」薬になるのだという。その噂を聞いていたからこそ、当の国司も熱心に求めたのである。蛇の肉を手に入れた国司は、さっそく一切れ試した。効能について、手紙には「よし」とあるだけだった。
殿上人たちは不浄という名目で珍味を突き返したとされているが、下人や女房たちの間から漏れる噂によれば、貴顕の者たちは皆こぞって遠江の蛇の肉を求めているのだという。実際のところはただの蛇の骸にすぎないという者もいるが、そうした忠告が顧みられることはないという。
「ほかには?」「おいおい、怪我人をいたわってくれよ」口ではそういいつつも、光遠は嬉しそうに次の話を始めた。「今度は都の話だ」
数週間ほど前から、酉の刻になると羅生門へ、眉目秀麗な若者が現れるようになったという。日によって現れたり現れなかったりするが、現れた晩には道行く者に相撲を持ちかける。相手は必ず宮中に出入りする相撲人と決まっている。
いまのところ若者が全勝無敗。やっつけられた相撲人たちは、同僚が変装して悪ふざけをしているのかと思ったが、やがて怪我をしたり引退したりした者を除けば、全ての相撲人が若者の前に敗れ去った。相撲人たちは自分が誰に負かされたのかてんで見当がつかないという。
人々は若者の正体は誰かと噂し合った。あるものは、かつて名のしれない大学の衆が、高名な相撲人たちを打ち負かした出来事を引き合いに出し、あのときの大学の衆こそ羅生門の若者だというが、別のものは源博雅が対峙した羅生門の鬼の息子がやってきたのだという。
語り終えると、光遠は喉が乾いたというように徳利からぐいと酒をあおった。「医者に何かいわれなかった?」「言いつけなんてのは無視するためにあるんだ」光遠はニヤリと笑って、もう一口呑んだ。「それじゃあ、元気でな」話を終えると、光遠は去っていった。
いつもなら、ばあやみたいな小言をよこす兄が、何もいわずに帰っていったと気付くには、薪一本分の時間がかかった。
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