鬼
明子は、検非違使がわななきながら従者を呼び寄せるのを見た。「三郎、縄をもってこい」顔を青ざめさせた従者がよろめきながら立ち上がり、小走りで土間に降りる。持衡は縄をひったくり、弓矢を従者に押し付け、自らの手で老婆の捕縛にかかった。「これ以上の殺人はさせぬぞ」
「新しい世話人はどうする」光遠が口を拭い徳利を下ろして明子に尋ねた。「どうって、それどころじゃないでしょ」「嫁にいくか?」光遠は悪気のない、至極当然といった口調だ。「だからさ…」明子はため息まじりの返事をしようとしたが、結局は口を閉じた。
明子は黙ったまま、検非違使の縄が老婆の肉に食い込み、がんじがらめにするのを見つめた。縄が装束に見えるほどの縛りぶりであった。「暇を出された女房を探すよ」「あ、そう」明子は兄のほうは見ずに返事をして、視線を囲炉裏やかまど、隅にしまってある鍋やら椀やらの上にさまよわせた。
明子は家の中を見回すだけではなく、過去の記憶も手繰り寄せた。ばあやが血まみれになって帰ってきて、返り血は狸二匹によるもので、自分は猿梨でお腹いっぱいだと語ったあの日、ばあやが食べてきたのは本当に木の実だったのか。出された山盛りの肉は、本当に全部たぬきの味がしただろうか。
「ばあや、あたしが食べてきた肉はすずめ?たぬき?」明子の額にじっとり汗が浮かぶ。「キジもいれば、きつねもいましたよ」「わかってるでしょ」明子のこめかみを汗が伝い落ちる。「これはこれはひいさま、ご心配おかけして申し訳ありません。ご安心下さい、人の肉はまだですから」
「まだ?」明子の肌が粟立った。「契約を交わしたあとの馳走です」老婆は微笑みを消し、明子の目を見た。「鬼め、この期に及んでまだ悪事を企むか!?」持衡が詰問するも老婆は意に介さない。「答えろ!」「親分、この婆さんはやめましょう」三郎が持衡を見上げて口を挟んだ。
「なぜだ?」「高名の相撲取りの家のもんに手を出したら、やんごとなき方々の不興をかうかも…」三郎は胸の前で両手をいじりながら話した。「法は法だ。見逃すわけにはいかぬ」持衡は拳を握りしめた。「我慢しましょうよ、あの蛇売りだけで…」
ここに来てようやく、捕吏たちもまた、太郎の逃走に気付いた。戸口のそばから外へと、泥汚れが続いている。持衡も三郎も手を額に当てて天を仰いだ、と、同時に明子は何かがちぎれる音を聞いた。媼を縛っていた縄である。太縄がはらりと床に落ち、老婆は体の自由を取り戻した。
続く出来事に明子は息を呑んだ。傍らにいる光遠すら目を見開き、まばたきを繰り返している。もともと老婆は肉つきがよく、もし男であれば昔は相撲人だったといって人を欺けたかもしれない体つきだった。
いまや媼の肉体は横に細くなり、かわりに縦に長くなったが、痩せぎすではない。均整の取れた武人の体軀である。鬼の背筋は真っ直ぐ伸びており、頭頂の角は太刀の切っ先めいている。爪は鷲で、歯は狼だ。「まことのオニババか」光遠が言い、鬼が動いた。
重いものが倒れる音が二つ重なった。
鬼の足元に持衡と三郎が倒れている。首がありえない角度に曲がっている。「ひいさま、契約を済ませたら、あれを頂きましょう。筋張っていますが時間をかければ柔らかくなりますよ。臓物も血も頂けます」明子は額の汗を拭った。「何の話?」「相撲節会に出ていただく話です」
明子は眉根を寄せた。「ひいさまのことですよ」鬼婆は笑った。明子は鼻白んだし、光遠も同じだった。「女は相撲人になれないでしょ」「この木っ端役人共を始末したのはなぜだと思います?」「だから何の話?」明子は火箸を囲炉裏の灰に刺そうとしたが、怒りのせいか手元が狂い、鉄は敷板に刺さった。
「女を男に変える秘術があるのですよ」明子はあごで続きを促した。山姥はかまどの傍らに立ったまま答える。「術を受けた女は、男の肉をたんと食らう必要がございます。文字通りの意味です。女の体は男に比べると骨付きが華奢ですから、足りない分を補うわけです」
「妹を男にできるのか?」「さようでございます、光遠さま」鬼婆はうやうやしく礼をした。「ひいさまの願いが叶うのですよ」明子は唇を噛み締めて兄を睨みつけた。「女が相撲人になれないという天下の決まり事はわたしでも動かせませんが、女を男にするのは赤子の手をひねるようなもの」
「ただでというわけにはいかないのか?」光遠は妹と土間の死体とを見比べた。「残念ではありますが男の肉は不可欠です。しかしながら、もしひいさまが男になれば、嫁に行けないだのなんだの、わたしの小言を聞かずにすむのですから、お互いにとって良い話でございましょう」鬼は明子を見て笑った。
明子は俯いていたが、光遠は前のめりになっていた。「何が望み?」明子は顔を上げて土間にいる鬼を見つめた。「あたしを相撲人にして、そっちに何の得がある?」「さすがひいさま。力も強ければ頭も切れる。さぞ立派な相撲人に…」「聞いてるのはこっち」
鬼婆は牙を見せて苦笑した。「宮中の相撲節会を勝ち抜いて頂きたいのです」「おまえなら朝飯前だろう?」「兄さんは黙ってて」明子は眼力で兄を下がらせ、力を山姥に振り向けた。家の中に赤光が差し込むなか、睨み合いが続いた。
鬼婆が観念したようにため息をついたが、顔つきはどこか誇らしげである。「玄象ですよ。最上の相撲人ともなれば、栄誉を称えるために玄象を演奏することもありましょう。そのときこそ、わたしがもう一度、かの銘器を手にする機会なのです」光遠は首をひねっていたが、明子には合点が行った。
この老婆こそ、源博雅と対峙した存在にちがいない。あの太郎という男をして宮城に火を付けるよう唆したのも、ひとりでに動くという玄象を外に出すための策謀なのだろう。明子は歯を食いしばると、傍らに転がっていた鏃を摘んで腕をいっぱいに振り上げ、板敷き目掛けて振り下ろした。
柳刃の鋼が突き立つ。明子が大口で吠える。「そんなに琵琶がほしけりゃ、おまえ一人の力でやれ!あたしを道具にするな!」大音声のあまり明子は家が震えたように感じたし、かまどの火すら揺れたようだった。隣では光遠が弾かれたように立ち上がり、妹を見て目を見張っていた。
「ならば口を封じるまで」鬼婆の目が細くなった。
山姥の両足に力が籠もったが、兄の光遠のほうが一足早い。光遠は助走なしで跳び、囲炉裏の隅の一つを越えて、勢いを殺すことなく土間に駆け下りた。囲炉裏を四角く回りこむような時間の無駄はせず近道をしたのだ。酒が入っているとは到底思えない立ち回りである。
光遠は明子に飛びかからんとする鬼めがけ、斜めから組み付きにかかった。鬼は老婆だったとは思えぬ腰のひねりで左腕を袈裟に振る。顔をそむけたくなる色をした鉤爪が、光遠の腹を抉り取りにかかる。
光遠は右腕を振り出し、鬼の腕を抑え込む。互角に見えたが、光遠は呻いた。鬼が手を握り込み、爪を光遠の上腕に食い込ませたのだ。「痛いだろう」「なんの」「安心しな。すぐ死ぬ」反対からも鉤爪。相撲人の豪腕が抑え込むが、爪までは止められない。両腕に血が伝う。
光遠は偽の動きを混ぜた足さばきで、自身の体とかまどの間に鬼を位置させた。鬼と光遠は額を突き合わせ、互いの腕を掴み合ったままだ。鬼が牙をむき出しにして噛み付きにかかると、光遠は避けるどころか頭突きを返した。頑強な体つきからは想像できない迅速かつ巧妙な動きだ。
光遠の頭突きに閉口したのか、鬼は再び力比べの体勢に入った。「逃げよ!」光遠は両手両足を突っ張ったまま叫んだ。明子は立ち上がりこそしたが、動けなかった。逃げたとしてどうする。兄はどうなる。土間に一つ、二つと血の染みが生じる。
加勢に入るつもりで明子は目を凝らしたが、光遠と鬼婆の間の緊張は、持衡との間にあった緊張すら凌駕するものであった。下手に突けば思いもよらぬかたちに弾けて、明子にとっても、光遠にとっても望まない結果がくる。
窓から差し込む落日の光が両者を真っ赤に染める。光遠の背中が張り詰め、火の熾っているかまどへと、山姥を押しつけにかかる。両者の位置は変わらないかに見えたが、やがて鬼の両足がじりじりと後退をはじめた。一方で、土間につく血の染みの数も、生じる頻度も増していく。
鬼の脚がまた下がる。あと拳二つ押し込めば、炎の中に鬼の踵が入り込むだろう。「酒臭いですよお、光遠さまあ」押されてなお鬼が笑いを浮かべるさまが、明子のいる板敷きからも見えた。明子には憶えのある笑いだった。鬼が老婆のなりをしていたころ、肝が冷えるような話を切り出すときの顔だ。
「臭くて臭くて」「そんなに臭いか」光遠が笑い混じりに答えると、鬼はしかめっ面で顔をのけぞらせた。「ならこれでどうだ」ばあっと、光遠が息を吐き出す。鬼の白髪が舞い上がるほどだ。明子が兄の間違いに気付くのと、光遠が失敗を悟り目を見開くのと、鬼婆が勝利の笑みを浮かべたのは同時だった。
鬼婆が甲高い声とともに相撲人を持ち上げた。光遠に抵抗する力はない。肺腑から息を吐ききったからだ。鬼婆は光遠を掲げて、かまどに面した壁へ背中から叩きつけた。壁にヒビが入り、脱力した体がかまどの上に落ちたが、光遠は身動きひとつしない。
一刻も早く光遠をかまどから下ろさねば、相撲人として復帰するどころか、命すら失う羽目になる。「火急の要件とはこのこと」鬼は明子へにんまりと笑いかけた。「契約すれば、光遠さまをお助けしましょう」明子は歯を食いしばった。「しないなら」鬼は血に染まった鉤爪を掲げる。
明子が口を開きかけた瞬間、窓のそとから何かが、鬼目掛けて飛んできた。まだら模様の紐じみたものが、鬼の角にひっかかる。一瞬、鬼の顔が明子から窓のほうへと向いた。明子は手を一閃させ、床から火箸を引き抜いた。
裂帛の気合とともに、明子は振りかぶった腕を振り抜く。二本の金棒が、鬼婆のこめかみに突き立つ。鬼の姿から肉付きの良い老婆へ、やがて萎びた媼となり、骸が床にくずおれた。かまどの炎が、白髪を焦がす。臭いのひどさに明子は顔をしかめたが、屍には足の指でさえ触れようとしなかった。
明子は熱せられた兄の体をかまどから下ろし土間に横たえた。裏手の井戸から水を汲んでは浴びせかけているうちに、光遠は息を吹き返した。「徳利は無事か?」強がってみせる兄に笑い返したとき、明子の目は土間の隅に転がっている紐らしきものにひきつけられた。
「危ない」明子は血相を変えた。紐だと思ったものはマムシである。考えるより先に手を出して飛びこみかけたところで、明子は蛇がピクリとも動かないことに気付いた。兄と一緒に恐る恐る近づいてみると、蛇の頭の付け根には刺し傷があって、致命傷となっていた。
光遠が死んだマムシと窓を交互に見比べるなか、明子は蛇を魚と偽ったという太郎の話を反芻していた。
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