庭先

「助けてっ、助けっ、…てっ」


 太郎はお守りのようにしていた腰の短刀すら放り捨て、息を切らしながら疾走する。泥のしぶきがはねる。雨に打たれながら前を見据えるが、寄せ手たちの列に切れ目はない。数十人はいる光遠の門人たちはさながら大楠で、検非違使が柳にみえる。


「止まれ、逃亡は無益だ」持衡が征矢を向けて警告した。三郎も尻馬に乗った。「てめえごときに矢はもったいねえってんだよ」太郎は止まれない。止まる力すらない。足がもつれて体が宙に浮いた刹那、荒猪をおもわせる相撲人たちが群狼のごとく押し寄せた。


 巨漢が降ってきた。太郎は現から夢へと飛んだ。


 意識がもどり、太郎がはじめに気づいたのは、血の味がしたことだ。前歯が折れたらしい。とつぜん、口の中に酒の味が入りこみ、血と混ざった温かいものが胃袋に流れおち、甘いような鉄くさいようなにおいが鼻孔を突きぬけた。


 太郎は目をひらく。「上物だぞ」光遠が徳利片手に笑いかけてきた。ぬかるみに仰向けになったまま、太郎は目だけ動かして辺りを探った。見えるのは光遠の姿だけだ。手足を動かさないようにしつつ、力だけをこめて自分のありさまをたしかめる。あちこち痛むが、骨は平気らしい。


 光遠は徳利から直飲みすると、たまらなそうな声をあげて口元を拭った。「いい気付け薬だろう」光遠は首の向きをかえて「これで貴殿らも泥まみれの男を担がずにすむ」太郎は、追手たちがやってきて、鈍色の空を後ろに自分を見下ろしてくるのをみとめた。


「大井様、ご協力頂き、誠に感謝しております」持衡は背中がびしょ濡れになるのも構わず深々と礼をした。三郎も主人にならう。仰向けの太郎には、三郎の気だるそうな顔が見てとれた。太郎がうかつにも笑ってしまったのだろう。三郎は咳き込んだふりをして、太郎に唾の嵐を浴びせかけた。


 光遠は、礼を片手で受けながし「おおい、おまえたちは修行にもどれ。力仕事は終わりだ」門人たちを帰しにかかった。「大井様、少々早計と存じます」持衡は目を見開き、早口で抗議する。「まだ牢に繋いではおりません、囲む人手が必要です」


「足を折っちまえばいい」三郎が太郎にだけ聞こえるように呟いた。「あの家では弟子たちを収められない。貴殿の仕事が終わるまで雨ざらしにせよというのか」「そういうわけでは」「なら、よかろう。こやつは」光遠は太郎を小突いた。「口がうまいだけの狗鼠なのだろう?」


「取り逃がせば将来の禍根となり、本朝の瑕疵となりましょう。獅子は鼠を狩るにも全力を尽くすといいます」持衡は烏帽子をぐっしょりと濡らしながら、光遠の目を正面から見た。三郎のあきれ顔に気づいたようすもない。光遠は苦笑した。


「検非違使としての本分を全うせんという貴殿の心中はお察しする。されど、私の門人は私の門人だ。退くも行かすも私の勝手。どうか口出しはなされぬよう願い申し上げる」持衡は黙ってうなずいた。誰が誰の命令を聞くのかという理屈が、官吏には効果てきめんらしい。


 持衡の渋い面を見て、太郎はほくそ笑んだ。三郎もおなじ考えだったらしい。主人に意味ありげな一瞥をくれたあと、太郎を見下ろして唇の端を釣りあげた。「先に帰っていいぞ。雨なのにわるかったな」光遠は門人たちに合図した。


 男たちの不満げなざわめきが雨の中に消え去ったが、太郎は身を固くしたままだった。相撲人、検非違使、その下人からなる三者はのこっている。太郎は泥まみれの服を握りしめた。


「おそれいりますが、お宅をお借りできますか?」持衡は明子の住まいを示した。「小官は、この罪人を取り調べる必要があります。ですから…」「妹の家を泥だらけにするのか?」光遠はしかめっ面をした。


「罪人とはいえ、風邪を引かれて獄中に広められては困ります」持衡の言葉に乗じて、三郎がゲホゲホと咳き込んだ。「ううむ」光遠はこめかみに指をあてて、ぬかるみのなかの太郎と明子の住まいとを見くらべ「土間ならよい」小さく頷いた。


「三郎よ、罪人を縛ってくれ」「泥鼠ですよ、勘弁してくださいよ。逃げたら射殺せばいいでしょう」三郎は顔を歪めた。「では」と腕まくりした持衡を三郎が遮った。「それはそれで困ります。親分は念を入れるとかいってわけのわからない結びをするから」


 主従はしずくを垂らしながらにらみあった。「肝っ玉の小さいやつは、この泥野郎だけで十分。縛らなくても大事あるまい」光遠が焦れたように口を挟むと、持衡はしぶしぶとうなずき、三郎は安堵のため息を漏らした。


「さあ、起きろ」持衡が太郎をうながす。「歩くんだ。ゆっくりとだぞ、ゆっくりと」太郎は三人の目にさらされながら立ちあがり、言われたとおりにした。太郎の視界のすみで、持衡は引き絞りさえすればいつでも矢を放てるようにしていたが、むだな心配だった。


 馬鹿力の明子の兄がいるのだ。どうして歯向かったり逃げ出したりする気がおきようか。光遠は竹をたわめる遊びにもどっている。太郎は背中に突きたつ視線を感じながらも、役立つものはないかとあたりを探りながら歩いていったが、実りを得られないまま戸口をくぐることとなった。

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