形勢不利
太郎は、あたりをきょろきょろと見回したが、小屋の柱は無事である。煤汚れに染まってこそいるが、腐って悪くなったわけではない。茅葺屋根も雨をよくはじいているらしい。太郎の家のように雨漏りなどしない。倒木にしては音が近いし、地鳴りもない。
もう一度音がした。太郎のすぐ脇だ。音の正体を知って太郎はたまげた。明子が竹矢の柄を、しかも節のところを潰している。持衡が射掛けてきた矢である。乳棒や金槌もなしで、小指のみでぺしゃんこだ。太郎の胃が縮み上がったが何も出てこない。都落ちしてから飲まず食わずだったおかげだ。
「あの堅物め、ボロっちいのは装束だけじゃないんだな。矢が腐ってら」矢柄を素手で潰せる人間などいるはずがない。太郎は明子を見つめた。すでに明子は、矢のうち一本を、平べったくのして、ほうきみたいにほぐしてしまっている。「腐ってたんでしょう?」
明子は黙ったままで、かわりに老婆が口を開く。「いいや。おまえさんが見たとおり、れっきとした竹だよ。安物ではあるが腐ってはいないねえ」太郎が口にしたくなかったことを、媼は詳らかにしてみせた。
太郎は歯を食いしばると床を叩いて立ち上がり、立ちくらみをこらえて女達をにらみつけた。なかでも腹立たしいのは山姥じみた老婆だ。これまでのおしゃべりは、いったい何だったのか?
もしも喋りが、応援がくるまでのあいだ太郎をおとなしくさせておくための時間稼ぎだったのなら、太郎は歯噛みこそすれ床を叩くような真似はしなかったろう。「おれはさぞ楽しい暇つぶし相手だったろうな」馬鹿力の娘をけしかければ、おれなど造作もなく退けられただろうに。
「およしよ。下手に飛びだせば、ひどい目に合わされるよ」老婆は目を見開き、戸口を塞ぐように動くのといっしょに、明子に苦々しげな目をむけた。明子は悪びれた素振りもなく矢羽をいじっている。
「おれは出ていく」「いまはやめなって。一対二くらいじゃ、捕り手も手加減できないものだよ」「だから逃げるんだ」太郎は板敷きの上から、土間にいる老婆を見下ろしたが、老婆は口を真一文字に引き結んで、一歩も譲ろうとしない。太郎は一歩踏みだした。
老婆は表情をゆるめ、孫をいつくしむような顔になった。「腹減って無いかい?」老婆が示したさきには、椎の実で一杯の器がある。「いまから蒸すから、腹ごしらえしてからでもいいじゃないか」「飯くらい探せる」太郎が一歩踏み出そうとしたとき、がやがやと男たちの声が流れてきた。
太郎の足が止まった。「あの人たちにおごってもらうのはどうだい?」老婆の顔はニヤニヤ笑いになっていて、手は窓の一つを示している。太郎は鉛のように重くなった体を動かし、顔半分だけで窓の外をのぞいた。
太郎の目に飛びこんできたのは、三郎が相撲人らしき男たちを十人ばかりつれて、小屋に向かってくるところだった。男たちは棒やら熊手やらを構えて、雨のなか駆り出されたことを恨んでいるような顔つきである。
三郎と並んでいるのが大井光遠であろう。背こそ低いが相撲人の風格は十分にあった。一本の竹竿を手にしており、粘土でもこねるかのように弛めたり伸ばしたりしている。光遠の妹は小指で竹をつぶせるのだから、兄ともなればひとにらみするだけで石でも鉄でも粉々に砕いてしまうかもしれない。
やってきた男たちのなかで、光遠だけは仏のように柔らかな顔つきで、雨に打たれながら微笑みさえたたえていた。妹と、その世話役が人質になったという報せを受けたと、いうようすは光遠の顔からはうかがえない。三郎は当惑顔で、太郎も同じような顔をしているに違いなかった。
「兄さんたちが来たみたいね」「そうですねえ。向こうで食事を済ませてきてくれてるとありがたいんですけど」太郎は倒れ込みそうになる己の体を、どうにかして壁で支えた。脂汗を流しながら小屋の内と外とを、かわるがわるに見る。
ふたたび、明子が竹矢をつぶした。先程とは反対の手の小指である。一本の竹材だった矢柄が、みるみるうちに藁苞のようなかたちへ変じる。太郎の呼吸は次第に浅くなる。「ヒッヒッヒ」老婆がたまりかねたように、腹を抱えて笑い出した瞬間、太郎は小屋の外に飛び出した。
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