太郎と明子

 ひとまずのところ、増援が来るまでは休戦、互いに血だけは流さないと、話がついた。持衡たちは太郎からは見えないところに移った。捕吏の言葉は石となり、太郎の胃を痛めつけている。太郎は呻き声を漏らしたが、慌てて短刀を構えなおし「名乗れ」と娘に詰問した。出せるかぎりの低い声だ。


 都の女は飢えているが、この娘は腹減り知らずのようで薄物も上質だ。得物に力がこもりはじめたが、罪を重ねることへの怯えが太郎の夢想を絵空事の域にとどめる。二人は明子、太郎と名乗りあった。太郎は生唾を飲み込むと盗賊らしい顔を作って娘を睨みつけた。


「太郎?聞かない名だねえ。五畿七道の賊どもについちゃ、氏も名も、字に偽名だって余さず頭に詰めといたつもりなんだけど、こぼしちまったのかねえ」土間から成行を見守っていた老婆が口を挟んだ。白すだれの奥に品定めをするような目があった。


「おれほどになると、みな怖がって名を口にしないのさ」太郎はこれみよがしに短刀を揺すった。「そういう婆さんは何もんだ」「わたしは人だよ。ヒ、ト」太郎は眉根を寄せた。「わたしもおまえさんとおんなじ、名をはばかるほどおっかないのさ」


 老婆は口をいっぱいに広げて笑った。歯は揃っているし、唇のつやは人質の娘ほどではないにせよ、都の路地をさまよう女房崩れの媼どもとは比べ物にならない。「からかってんのか?」太郎は短刀を握りしめた。老婆の笑いはなお一層大きくなった。太郎は眉間にしわを寄せて睨みつけた。


「みんな、はばかって人の肉を『口にしない』だろう?だから、わたしは人なのさ」太郎は舌打ちした。「婆さん、でかい口叩いてっと、ぶっ叩くぞ。血さえ出さなきゃ…」「なにムキになってんのさ」明子が割って入った。「宮仕えしてたせいで、謎掛けやら物語やらに入れ込みすぎたんだ。じきに慣れるよ」


「そういやさっき、検非違使たちのことを笑ってたが、ありゃどういう了見だ?」太郎は明子の顔を覗き込んだが、つやのある横顔に不安の色は見当たらない。老婆も同じである。太郎は握りしめた短刀の刃に目線をうつした。


「兄さんがちょっと行ったとこにいてね、門人を抱えてる」太郎は全身総毛立った。「助けにくるやつがいるのか」「とにかく人はいる。わたしらに味方がいないってアテは外れってわけ」太郎の口中を旱魃が見舞った。「山ごもりの坊主か?山伏か?」


「相撲人だよ。大井光遠って、知ってる?」


 知らぬものなどいない相撲人のなかの相撲人である。太郎は気が遠くなるのを必死でこらえた。人質に刃を刺せばことだし、目がさめたら怒れる相撲人に囲まれていた、ということにもなりかねない。太郎は短刀を力なく下ろすと、膝を動かして火箸からも離れた。


「暇だから都の話でもしてよ」

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