笠置山

 羅生門をくぐり抜けた次の日。午の刻ごろの山中で、太郎の健脚は再び活躍の場をえた。持衡と三郎が追って来たのだ。太郎なりに今後の身の処し方をあれこれ考えていたのだが、いまは走って跳んで、登れぬ滝を諦めて、泥道を這いずって、逃げをうつのみである。


 太郎は笠置山の奥へと分け入ってゆく。汗が目に染みて恨めしい。野に伏せるのは食うためだ。好きでやっているのではない。持衡はねちっこく、追跡の手を緩めるどころか引き締めるばかりだ。いまだに追手を振り切れないなか、太郎は行く先の一点を見つめて己を鞭打った。


 傷を三つ四つこしらえて、太郎が駆けこんだのは茅葺の家のまえだ。道中、木々の切れ間から見つけて、頼みの綱と決めていたところである。林を切りはらった一角に建つ土壁で四角の住まいだ。戸口のまえは広場で、神事でもするかのように掃き清めてあって、小石一つ見あたらない。


「助けとくれえぇっ」


 太郎が戸を叩きあけて転がりこむのと一緒に、矢が一本、右足にかすった。さらに一本、左足をかすめた。「へぼ検非違使め」太郎は壁のかげに回りこんで外に野次を飛ばした。三本目は来ない。


 持衡が放ったのであろう矢は、二本とも板の間に落ちていた。矢尻が欠けている。土間にある石臼に跳ねかえったのだろう。太郎は家の中をぐるりと見わたし、長い髪の娘と白髪の媼だけなのを見てとった。


「動くなっ」


 太郎は腰の短刀を抜きざまに、板の間に坐っている娘に駆け寄った。「動いたり、なんかしたりしたら、婆さんもだぞ、ただじゃすまさないぞ」太郎は脅し文句を並べ立てる。「おれは本気だぞ。血だって見たんだぞ。腹だってかっさばけるんだぞ」


「産婆にはおなじみのことですねえ」老婆が歯をむき出しにして太郎に笑いかけたが、太郎が眉を逆ハの字にしてにらみつけると、老婆は肩をすくめておとなしくした。「こっちにはこれがあんだかんな」太郎が短刀を娘の喉に近づける。「ふざけた口きくんじゃねえ」


 太郎は汗だくであった。不思議と、娘も老婆もおとなしくしている。人質を取ったのだという自覚が湧きあがって胸も痛んだが、囲炉裏の炎にぎらつく刃が度胸をつけてくれた。


 太郎の傍らに焼串かとまがうような火箸が転がっている。「こういう物騒なもんは片付けとくからな」ニヤリと笑ってひっつかみ、膝で抑え込んだ。思ったよりも径があって膝に食い込む。痛みを表に出さぬようこらえたが、芝居がうまくいったかは分からない。


「おかしな真似すんなよ。女二人、預かってんだからな」太郎は開け放ったままの戸口の外へ呼ばわった。ほどなくして持衡と三郎の姿が、太郎の位置からも見えた。「おまえの要求は何だ?」追手たちの手は空だが、太郎は人質の娘を盾にするように這いずった。


「きまってんだろ。おれを無罪放免にしろ」「断る」持衡は丸腰だというのに、征矢のごとき視線を太郎に突き刺してくる。「私は朝廷のあらゆる法に通じてこそいないが、かようなご婦人に刃を突きつけることを許す法が本朝にあろうはずがない」


「融通の効かねえやつだ」太郎が怒鳴り返すと、三郎がニヤついたが、検非違使は気付いた様子もない。「私の性分だ。直せと言われるが、直せない」持衡は首を横にふると、従者のほうに向き直った。三郎は弾かれたように背筋を伸ばし真顔を作る。


「増援を頼む」三郎は威勢のいい返事と一緒に駆け出して場を離れた。「ここを都と思ってんのか?こんな山ん中で、都合よく味方が集まるわきゃねえだろ」太郎が持衡を嘲笑うと、なぜか娘も老婆も笑った。「おい、なに笑ってんだ」答えはない。


「いつまで立てこもるつもりだ?」持衡の声が割って入ってきた。「お前たちが帰るまでだ」「我々は帰らない」三郎が音を立ててため息をついたが、持衡は太郎に目を合わせたままだ。「てめえなあ、諦めろや。水やら飯やらもたねえだろ」三郎は舌を出してきた。


 太郎は目だけ動かして家の中を探った。食べ物はあるようだが、水瓶は見当たらない。空の桶があるだけだ。人質たちを見ると、二人とも都の者より肉付きがよく、娘の服は値打ちがあるものに見えた。太郎は短刀を握りしめて、声を張りあげた。


「はじめにもたなくなるのは、この家の者じゃねえかな」「人質に危害を加えるな」持衡の手が弓矢に伸びる。「違う。おれは一日じゅう飲まず食わずだったこともあるが、人質はどうだってこったよ」太郎は空いているほうの手で、娘の服装や、媼の血色よい顔を示した。


 持衡は歯噛みして、手を弓矢からはなした。しばらくのあいだ人の声が途絶え、囲炉裏の火が爆ぜる音が続き、モズのさえずりが飛びこんできた。相変わらず人質たちは怯えたようすもなく、検非違使は仁王立ちである。太郎は心臓が脈打つのを感じながら、小屋のなかを見渡す。


 娘がいる板の間には、黒漆塗りのお膳や手筥があり、うち一つには蒔絵までほどこしてある。噂にきく貴人の暮らしほどではないが、太郎とはくらべものにならない。都から男が通ってくるのかとも思えたが、なにかの事情で家財道具をもって京を離れ山にこもったとも思えた。


 一方、老婆のいる土間には草やらカエルやらミミズやら干したのが並べてあり、化け物屋敷のようだった。なかでも太郎の目をひきつけたのは、かまどのそばにある火除らしい御札である。漢字でも梵字でもない、まして仮名でもないが絵とも思えない何かをかきつけた札だ。


 家の中にあるあれこれは、どこから、誰からもたらされたのか。太郎は短刀こそ構えているが、首を曲げたり唇をむずむずさせたりしつづけている。「おまえに一つ、伝えることがある」持衡が沈黙を破った。「おれからはもうないぞ」太郎は戸口を睨んだ。


「もう詐欺の罪だけでは済まなくなったと、いうことだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る