正法眼蔵 見仏
釈迦牟尼仏、告、大衆、言、
若、見、諸相、非相、即、見、如来。
いまの見、諸相と見、非相と、透脱せる体達なり。
ゆえに、見、如来なり。
この見仏眼、すでに参開なる現成を見仏とす。
見仏眼の活路、これ、参仏眼なり。
自仏を他方にみ、仏外に自仏をみるとき、条条の蔓枝なりといえども、
見仏を参学せると、
見仏を弁肯すると、
見仏を脱落すると、
見仏を得、活すると、
見仏を使得すると、
日面仏見なり、月面仏見なり。
恁麼の見仏、ともに、無尽面、無尽身、無尽心、無尽手眼の見仏なり。
而今、脚尖に行履する発心、発足より、このかた、弁道、功夫、および、証契、究徹、みな、見仏裏に走入する活眼睛なり、活骨髄なり。
しかあれば、自尽界、他尽方、遮箇頭、那箇頭、おなじく、見仏、功夫なり。
如来、道の若、見、諸相、非相を拈来するに、参学眼なきともがら、おもわくは、諸相を相にあらずとみる、すなわち、見、如来、という。
そのおもむきは、諸相は、相にはあらず、如来なりとみる、というとおもう。
まことに、小量の一辺は、しかのごとくも参学すべしといえども、仏意は、道成は、しかにはあらざるなり。
しるべし。
諸相を見取し、非相を見取する、即、見、如来なり。
如来あり、非如来あり。
清涼院、大法眼禅師、云、
若、見、諸相、非相、不見、如来。
いま、この大法眼、道は、見仏、道なり。
これに法眼、道あり、見仏、道ありて、通語するに、競頭来なり、共出手なり。
法眼、道は、耳処に、聞著すべし。
見仏、道は、眼処に、聞、声すべし。
しかあるを、この宗旨を参学する従来の、おもわくは、
諸相は、如来相なり。
一相の如来相にあらざる、まじわれること、なし。
この相をかりにも非相とすべからず。
もし、これを非相とするは、捨、父、逃逝なり。
この相、すなわち、如来相なるがゆえに、諸相は、諸相なるべし、と道取するなり、
といいきたれり。
まことに、これ、大乗の極談なり、諸方の所証なり。
しかのごとく、決定、一定して、信受、参受すべし。
さらに、随、風、東西の軽毛なることなかれ。
諸相は、如来相なり、非相にあらず、と参究、見仏し、決定、証信して受持すべし、諷誦、通利すべし。
かくのごとくして、自己の耳、目に見聞、ひま、なからしむべし。
自己の身心、骨髄に、脱落ならしむべし。
自己の山河、尽界に、透脱ならしむべし。
これ、参学、仏祖の行履なり。
自己の云為にあれば、自己の眼睛を発明せしむべからず、とおもうことなかれ。
自己の一転語に転ぜられて、自己の一転、仏祖を見、脱落するなり。
これ、仏祖の家常なり。
このゆえに、参取する隻条、道あり。
いわゆる、
諸相、すでに非相にあらず。
非相、すなわち、諸相なり。
非相、これ、諸相なるがゆえに、非相、まことに、非相なり。
喚、作、非相の相、ならびに、喚、作、諸相の相、ともに、如来相なり、と参学すべし。
参学の屋裏に両部の典籍あり。
いわゆる、参見典と参不見典となり。
これ、活眼睛の所参学なり。
もし、いまだ、これらの典籍を著眼看の参徹せざれば、参徹眼にあらず。
参徹眼にあらざれば、見仏にあらず。
見仏に、諸相所見、非相所見あり。
吾、不会、仏法なり。
不見仏に諸相所不見、非相所不見あり。
会仏法人、得なり。
法眼、道の八、九成、それ、かくのごとし。
しかありといえども、この一大事、因縁、さらに、いうべし、若、見、諸相、実相、即、見、如来。
かくのごとくの道取、みな、これ、釈迦牟尼仏之所加被力なり。
異面目の皮肉骨髄にあらず。
爾時、釈迦牟尼仏、在、霊鷲山。
因、薬王菩薩、告、大衆、言、
若、親近、法師、即、得、菩薩道。
随順、是師、学、得見、恒沙仏。
いわゆる、親近、法師というは、二祖の八載、事、師のごとし。
しこうしてのち、全臂得髄なり。
南嶽の十五年の弁道のごとし。
師の髄をうるを親近という。
菩薩道というは、吾、亦、如是。汝、亦、如是。なり。
如許多の蔓枝、行履を即、得するなり。
即、得は、
古来より現ぜるを引、得するにあらず、
未生を発、得するにあらず、
現在の漫漫を策把するにあらず、
親近、得を脱落するを即、得という。
このゆえに、一切の得は、即、得なり。
随順、是師、学は、猶、是、侍者の古蹤なり。
参究すべし。
この正当恁麼行履時、すなわち、得見の承当あり。
そのところ、見、恒沙仏なり。
恒沙仏は、頭頭、活鱍鱍聻なり。
あながちに見、恒沙仏をはしり、へつらうことなかれ。
まず、すべからく、随、師、学をはげむべし。
随、師、学、得、仏見なり。
釈迦牟尼仏、告、一切証菩提衆、言、
深入、禅定、見、十方仏。
尽界は、深なり。
十方仏土中なるがゆえに。
これ、広にあらず、大にあらず、小にあらず、窄にあらず。
挙すれば、随、他、挙す。
これを全収と道す。
これ、七尺にあらず、八尺にあらず、一丈にあらず。
全収、無外にして入之一字なり。
この深入は、禅定なり。
深入、禅定は、見、十方仏なり。
深入、裏許、無、人、接、渠にして得、在なるがゆえに、見、十方仏なり。
設使、将来、他、亦、不受のゆえに、仏、十方、在なり。
深入は、長長出、不得なり。
見、十方仏は、只、見、臥如来なり。
禅定は、入来、出頭、不得なり。
真龍をあやしみ恐怖せずば、見仏の而今、さらに疑著を抛捨すべからず。
見仏より見仏するゆえに、禅定より禅定に深入す。
この禅定、見仏、深入、等の道理、さきより閑功夫漢ありて造作しおきて、いまの漢に伝授するにあらず。
而今の新条にあらざれども、恁麼の道理、必然なり。
一切の伝道受業、かくのごとし。
修因、得果、かくのごとし。
釈迦牟尼仏、告、普賢菩薩、言、
若、有、受持、読誦、正憶念、修習、書写、是法華経、者、当、知、是人、則、見、釈迦牟尼仏。
如、従、仏口、聞、此経典。
おおよそ、一切諸仏は、見、釈迦牟尼仏、成、釈迦牟尼仏するを成道、作仏というなり。
かくのごとくの仏儀、もとより、この七種の行所の条条より、うるなり。
七種行人は、当、知、是人なり、如、是当人なり。
これ、すなわち、見、釈迦牟尼仏所なるがゆえに、したしく、これ、如、従、仏口、聞、此経典なり。
釈迦牟尼仏は、見、釈迦牟尼仏より、このかた、釈迦牟尼仏なり。
これによりて舌相、あまねく三千を覆す。
いずれの山海か仏経にあらざらん?
このゆえに、書写の当人ひとり、見、釈迦牟尼仏なり。
仏口は、よのつねに万古を開す。
いずれの時節か経典にあらざらん?
このゆえに、受持の行者のみ、見、釈迦牟尼仏なり。
乃至、眼耳鼻、等の功徳も、また、かくのごとくなるべきなり。
および、前後左右、取捨、造次、かくのごとくなり。
いまの此経典にうまれ、あう、見、釈迦牟尼仏をよろこばざらんや?
生、値、釈迦牟尼仏なり。
身心をはげまして受持、読誦、正憶念、修習、書写、是法華経者、則、見、釈迦牟尼仏なるべし。
如、従、仏口、聞、此経典。
だれが、これをきおい、きかざらん?
いそがず、つとめざるは、貧窮、無福慧の衆生なり。
修習するは、当、知、是人、則、見、釈迦牟尼仏なり。
釈迦牟尼仏、告、大衆、言、
若、善男子、善女人、聞、我、説、寿命、長遠、深心、信解、
則、為、見、仏、常在、耆闍崛山、共、大菩薩、諸声聞衆、囲遶、説法。
又、見、此娑婆世界、其地、瑠璃、坦然平正。
この深心というは、娑婆世界なり。
信解というは、無回避所なり。
誠諦の仏語、だれが信解せざらん?
この経典にあいたてまつれるは、信解すべき機縁なり。
深心、信解、是法華、深心、信解、寿命、長遠のために、願、生、此娑婆国土しきたれり。
如来の神力、慈悲力、寿命長遠力、よく、
心を拈じて信解せしめ、
身を拈じて信解せしめ、
尽界を拈じて信解せしめ、
仏祖を拈じて信解せしめ、
諸法を拈じて信解せしめ、
実相を拈じて信解せしめ、
皮肉骨髄を拈じて信解せしめ、
生死去来を拈じて信解せしむるなり。
これらの信解、これ、見仏なり。
しかあれば、しりぬ。
心頭眼ありて見仏す。
信解眼をえて見仏す。
ただ見仏のみにあらず。
常在、耆闍崛山をみる、というは、耆闍崛山の常在は、如来、寿命と一斉なるべし。
しかあれば、見、仏、常在、耆闍崛山は、
前頭来も、如来、および、耆闍崛山、ともに、常在なり。
後頭来も、如来、および、耆闍崛山、ともに、常在なり。
菩薩、声聞も、おなじく、常在なるべし。
説法も、また、常在なるべし。
娑婆世界、其地、瑠璃、坦然平正をみる。
娑婆世界をみること、動著すべからず。
高所、高平。
低所、低平。なり。
この地は、これ、瑠璃地なり。
これを坦然平正なるとみる目をいやしくすることなかれ。
瑠璃、為、地の地は、かくのごとし。
この地を瑠璃にあらずとせば、耆闍崛山は、耆闍崛山にあらず、釈迦牟尼仏は、釈迦牟尼仏にあらざらん。
其地、瑠璃を信解する、すなわち、深、信解、相なり。
これ、見仏なり。
釈迦牟尼仏、告、大衆、言、
一心、欲、見仏、不自惜、身命、時、我、及、衆僧、倶、出、霊鷲山。
いうところの一心は、凡夫、二乗、等のいう一心にあらず。
見仏の一心なり。
見仏の一心というは、霊鷲山なり、及、衆僧なり。
而今の箇箇、ひそかに欲、見仏をもよおすは、霊鷲山心をこらして欲、見仏するなり。
しかあれば、一心、すでに霊鷲山なり。
一身、それ、心に倶、出せざらんや?
倶、一身心ならざらんや?
身心、すでに、かくのごとし。
寿者命者、また、かくのごとし。
かるがゆえに、自惜を霊鷲山の但、惜、無上道に一任す。
このゆえに、我、及、衆僧、霊鷲山、倶、出なるを見仏の一心と道取す。
釈迦牟尼仏、告、大衆、言、
若、説、此経、則、為、見、我、多宝如来、及、諸化仏。
説、此経は、我、常住、於、此、以、諸神通力、令、顛倒衆生、雖近、而、不見なり。
この表裏の神力如来に則、為、見、我等の功徳そなわる。
釈迦牟尼仏、告、大衆、言、
能、持、是経、者、則、為、已、見、我。
亦、見、多宝仏、及、諸分身者。
この経を持すること、かたきゆえに、如来、よのつねに、これをすすむ。
もし、おのずから持是経者あるは、すなわち、見仏なり。
はかりしりぬ。
見仏すれば、持経す。
持経のもの、見仏のものなり。
しかあれば、すなわち、乃至、聞、一偈、一句、受持するは、
得見、釈迦牟尼仏なり。
亦、見、多宝仏なり。
見、諸分身仏なり。
伝、仏法蔵なり。
得、仏正眼なり。
得見、仏命なり。
得、仏向上眼なり。
得、仏頂𩕳眼なり。(「𩕳」は「寧頁」という一文字の漢字です。)
得、仏鼻孔なり。
雲雷音宿王華智仏、告、妙荘厳王、言、
大王、
当、知、
善知識者、是、大因縁。
所謂、化導、令、得見、仏、発、阿耨多羅三藐三菩提心。
いま、この大会は、いまだ、むしろをまかず。
過去、現在、未来の諸仏と称すといえども、凡夫の三世に準的すべからず。
いわゆる、過去は心頭なり、現在は拳頭なり、未来は脳後なり。
しかあれば、雲雷音宿王華智仏は、心頭、現成の見仏なり。
見仏の通語、いまのごとし。
化導は、見仏なり。
見仏は、発、阿耨多羅三藐三菩提心なり。
発菩提心は、見仏の頭正尾正なり。
釈迦牟尼仏、言、
諸有、修、功徳、柔和、質直者、則、皆、見、我身、在、此、而、説法。
あらゆる功徳と称するは、拕泥帯水なり、随、波、逐、浪なり。
これを修するを吾、亦、如是。汝、亦、如是。の柔和、質直者という。
これを泥裏に見仏しきたり、波心に見仏しきたる、在、此、而、説法にあずかる。
しかあるに、近来、大宋国に禅師と称するともがら、おおし。
仏法の縦横をしらず。
見聞、いとすくなし。
わずかに臨済、雲門の両、三語を諳誦して仏法の全道とおもえり。
仏法もし臨済、雲門の両、三語に道尽せられば、仏法、今日にいたるべからず。
臨済、雲門を仏法の為尊と称しがたし。
いかに、いわんや、いまのともがら、臨済、雲門におよばず。
不足、言のやからなり。
かれら、おのれが愚鈍にして仏経のこころ、あきらめがたきをもって、みだりに仏経を謗す。
さしおきて修習せず。
外道の流類といいぬべし。
仏祖の児孫にあらず。
いわんや、見仏の境界におよばんや?
孔子、老子の宗旨に、なお、いたらざるともがらなり。
仏祖の屋裏児、かの禅師と称するやからに、あいあうことなかれ。
ただ見仏眼の眼睛を参究、体達すべし。
先師、天童古仏、挙。
波斯匿王、問、賓頭盧尊者、
承聞、
尊者、親、見仏来。
是? 否?
尊者、以、手、策起、眉毛、示、之。
先師、頌、云、
策起、眉毛、答、問端。
親、曾、見仏、不相瞞。
至、今、応供、四天下。
春、在、梅梢。
帯、雪、寒。
いわゆる、見仏は、見、自仏にあらず、見、他仏にあらず、見仏なり。
一枝、梅は、見、一枝、梅のゆえに、開華、明明なり。
いま、波斯匿王の問取する宗旨は、尊者、すでに見仏なりや? 作仏なりや? と問取するなり。
尊者、あきらかに眉毛を策起せり。
見仏の証験なり。
相瞞すべからず。
至、今して、いまだ、休罷せず。
応供、あらわれて、かくるることなし。
親、曾の見仏、たどるべからず。
かの三億家の見仏というは、この見仏なり。
見、三十二相には、あらず。
見、三十二相は、だれが境界をへだてん?
この見仏の道理をしらざる人、天、声聞、縁覚の類、おおかるべし。
たとえば、払子を竪、起する、おおしといえども、払子を竪、起するは、おおきにあらず、というがごとし。
見仏は、被、仏、見成なり。
たとえ自己は覆蔵せんことをおもうとも、見仏、さきだちて漏泄せしむるなり。
これ、見仏の道理なり。
如、恒河沙、数量の身心を功夫して審細に、この策起、眉毛の面目を参究すべし。
たとえ百、千、万劫の昼夜、つねに釈迦牟尼仏に共住せりとも、いまだ策起、眉毛の力量なくば、見仏にあらず。
たとえ二千余載より、このかた、十万余里の遠方にありとも、策起、眉毛の力量、したしく見成せば、空王已前より、見、釈迦牟尼仏なり、見、一枝、梅なり、見、梅梢、春なり。
しかあれば、親、曾、見仏は、
礼三拝なり。
合掌、問訊なり。
破顔微笑なり。
拳頭、飛、霹靂なり。
跏趺坐、蒲団なり。
賓頭盧尊者、赴、阿育王宮、大会、斎。
行、香、次、王、作、礼、問、尊者、曰、
承聞、
尊者、親、見仏来。
是? 否?
尊者、以、手、撥、開、眉毛、曰、
会、麼?
王、曰、
不会。
尊者、曰、
阿那婆達多龍王、請、仏、斎、時、貧道、亦、預、其数。
いわゆる、阿育王、問の宗旨は、尊者、親、見仏来、是? 否? の言、これ、尊者、すでに尊者なりや? と問著するなり。
ときに、尊者、すみやかに眉毛を撥、開す。
これ、見仏を出現、於、世せしむるなり、作仏を親、見せしむるなり。
阿那婆達多龍王、請、仏、斎、時、貧道、亦、預、其数という。
しるべし。
請、仏の会には、唯仏与仏、稲麻竹葦すべし。
四果、支仏の、あずかるべきにあらず。
たとえ四果、支仏、きたれりとも、かれを挙して請、仏のかずに、あずかるべからず。
尊者、すでに自称す、請、仏、斎、時、貧道、また、そのかずなりき、と。
無端にきたれる自道取なり。
見仏なる道理あきらかなり。
請、仏というは、請、釈迦牟尼仏のみにあらず、請、無量、無尽、三世、十方、一切諸仏なり。
請、諸仏の数にあずかる、無諱、不諱の親、曾、見仏なり。
見仏、見師、見自、見汝の指示、それ、かくのごとくなるべし。
阿那婆達多龍王というは、阿耨達池、龍王なり。
阿耨達池、ここには、無熱悩池という。
保寧仁勇禅師、頌、曰、
我仏、親、見、賓頭盧、
眉、長。
髪、短。
双眉、麤。
阿育王、猶、狐疑、
唵、摩尼、悉哩、蘇嚧。
この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の参学なるがゆえに、拈来するなり。
趙州真際大師、因、僧、問、
承聞、
和尚、親、見、南泉。
是? 否?
師、曰、
鎮州、出、大、蘿蔔、頭。
いまの道、現成は、親、見、南泉の証験なり。
有語にあらず。無語にあらず。
下語にあらず。通語にあらず。
策起、眉毛にあらず。撥、開、眉毛にあらず。
親、見、眉毛なり。
たとえ軼才の独歩なりとも、親、見にあらずよりは、かくのごとくなるべからず。
この鎮州、出、大、蘿蔔、頭の語は、真際大師の鎮州、竇家園、真際院に住持なりしときの道なり。
のちに、真際大師の号をたてまつれり。
かくのごとくなるがゆえに、見仏眼を参開するより、このかた、仏祖、正法眼蔵を正伝せり。
正法眼蔵の正伝あるとき、仏、見、雍容の威儀、現成し、見仏、ここに巍巍堂堂なり。
正法眼蔵 見仏
爾時、寛元元年癸卯、冬、十一月朔十九日、在、禅師峰山、示、衆。
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