正法眼蔵 面授
爾時、釈迦牟尼仏、西、天竺国、霊山、会上、百万衆中、拈、優曇華、瞬目。
於、時、摩訶迦葉尊者、破顔、微笑。
釈迦牟尼仏、言、
吾有、正法眼蔵、涅槃妙心、付属、摩訶迦葉。
これ、すなわち、仏仏、祖祖、面授、正法眼蔵の道理なり。
七仏の、正伝して迦葉尊者にいたる。
迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる。
菩提達磨尊者、みずから震旦国に降儀して、正宗太祖普覚大師、慧可尊者に面授す。
五伝して曹谿山、大鑑、慧能大師にいたる。
一十七授して先師、大宋国、慶元府、太白名山、天童古仏にいたる。
大宋宝慶元年乙酉、五月一日、道元、はじめて先師、天童古仏を妙高台に焼香、礼拝す。
先師古仏、はじめて道元をみる。
そのとき、道元に指授、面授するに、いわく、
仏仏、祖祖、面授の法門、現成せり。
これ、すなわち、霊山の拈華なり。
嵩山の得髄なり。
黄梅の伝衣なり。
洞山の面授なり。
これは、仏祖の眼蔵、面授なり。
吾屋裏のみ、あり。
余人は、夢也未見聞在なり。
この面授の道理は、釈迦牟尼仏、まのあたり、迦葉仏の会下にして面授し護持しきたれるがゆえに、仏祖面なり。
仏面より面授せざれば、諸仏にあらざるなり。
釈迦牟尼仏、まのあたり、迦葉尊者をみること親付なり。
阿難、羅睺羅といえども、迦葉の親付におよばず。
諸大菩薩といえども、迦葉の親付におよばず、迦葉尊者の座に座すること、えず。
世尊と迦葉と、同座し同衣しきたるを一代の仏儀とせり。
迦葉尊者、したしく、世尊の面授を面授せり、心授せり、身授せり、眼授せり。
釈迦牟尼仏を供養、恭敬、礼拝、奉覲したてまつれり。
その粉骨砕身、いく千、万変ということをしらず。
自己の面目は、面目にあらず。
如来の面目を面授せり。
釈迦牟尼仏、まさしく、迦葉尊者をみまします。
迦葉尊者、まのあたり、阿難尊者をみる。
阿難尊者、まのあたり、迦葉尊者の仏面を礼拝す。
これ、面授なり。
阿難尊者、この面授を住持して、商那和修を接して面授す。
商那和修尊者、まさしく、阿難尊者を奉覲するに、唯面与面、面授し面受す。
かくのごとく、代代、嫡嫡の祖師、ともに、弟子は師にまみえ、師は弟子をみるによりて、面授しきたれり。
一祖、一師、一弟子としても、あい面授せざるは、仏仏、祖祖にあらず。
たとえば、水を朝宗せしめて宗派を長ぜしめ、灯を続して光明つねならしむるに、億、千、万法するにも、本、枝、一如なるなり。
また、啐啄の迅機なるなり。
しかあれば、すなわち、まのあたり、釈迦牟尼仏をまもりたてまつりて一期の日夜をつめり。
仏面に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。
これ、いく無量(劫)を往来せりとしらず。
しずかに、おもいやりて随喜すべきなり。
釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏眼をわがまなこにうつしたてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつりし、仏眼睛なり、仏面目なり。
これをあいつたえて、いまにいたるまで、一世も間断せず面授しきたれるは、この面授なり。
而今の数十代の嫡嫡は、面面なる仏面なり。
本初の仏面に面受なり。
この正伝、面授を礼拝する、まさしく、
七仏、釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。
迦葉尊者、等の二十八仏祖を礼拝、供養したてまつるなり。
仏祖の面目、眼睛、かくのごとし。
この仏祖にまみゆるは、釈迦牟尼仏、等の七仏にみえたてまつるなり。
仏祖、したしく自己を面授する正当恁麼時なり。
面授仏の、面授仏に面授するなり。
葛藤をもって葛藤に面授して、さらに断絶せず。
眼を開して眼に眼授し眼受す。
面をあらわして面に面授し面受す。
面授は、面所の受授なり。
心を拈じて心に心授し心受す。
身を現して身を身授するなり。
他方、他国も、これを本祖とせり。
震旦国以東、ただ、この仏、正伝の屋裏のみ、面授、面受、あり。
あらたに如来をみたてまつる正眼をあいつたえきたれり。
釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世、ならびに、七仏、祖宗、ならべるに、あらず、つらなるに、あらざれども、倶、時の面授あり。
一世も師をみざれば、弟子にあらず。
弟子をみざれば、師にあらず。
さだまりて、あいみ、あいみえて、面授しきたれり。
嗣法しきたれるは、祖宗の面授所、道、現成なり。
このゆえに、如来の面光を直拈しきたれるなり。
しかあれば、すなわち、千年、万年、百劫、億劫といえども、この面授、これ、釈迦牟尼仏の面、現成、授なり。
この仏祖、現成せるには、世尊、迦葉、五十一世、七代祖宗の影、現成なり、光、現成なり、身、現成なり、心、現成なり、尖脚来なり、尖鼻来なり。
一言、いまだ領覧せず、半句、いまだ不会せずというとも、師、すでに裏頭より弟子をみ、弟子すでに頂𩕳より師を拝しきたれるは、正伝の面授なり。(「𩕳」は「寧頁」という一文字の漢字です。)
かくのごとくの面授を尊重すべきなり。
わずかに心跡を心田にあらわせるがごとくならん、かならずしも大尊貴生なるべからず。
換面に面授し、回頭に面授あらんは、面皮、厚、三寸なるべし、面皮、薄、一丈なるべし。
すなわちの面皮、それ、諸仏大円鏡なるべし。
大円鑑を面皮とせるがゆえに、内外、無、瑕、翳なり。
大円鑑の、大円鑑を面授しきたれるなり。
まのあたり、釈迦牟尼仏をみたてまつる正法を正伝しきたれるは、釈迦牟尼仏よりも親曾なり。
眼尖より前後三三の釈迦牟尼仏を見、出現せしむるなり。
かるがゆえに、釈迦牟尼仏をおもくしたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつらんは、この面授、正伝をおもくし尊崇し難値、難遇の敬重、礼拝すべし。
すなわち、如来を礼拝したてまつるなり。
如来に面授せられたてまつるなり。
あらたに面授、如来の正伝、参学の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもいきたりつる自己なりとも、他己なりとも、愛惜すべきなり、護持すべきなり。
屋裏に正伝し、いわく、
八塔を礼拝するものは、罪障、解脱し、道果、感得す。
これ、釈迦牟尼仏の道現成所を生所に建立し、転法輪所に建立し、成道所に建立し、涅槃所に建立し、曲女城辺にのこり、菴羅衛林にのこれる。
大地を成じ、大空を成ぜり。
乃至、声香味触法、色処、等に塔、成ぜるを礼拝するによりて、道果、現感す。
この八塔を礼拝するを西、天竺国のあまねき勤修として在家、出家、天衆、人衆、きおうて礼拝、供養するなり。
これ、すなわち、一巻の経典なり。
仏経は、かくのごとし。
いわんや、また、三十七品の法を修行して、道果を箇箇生生に成就するは、釈迦牟尼仏の亙古亙今の修行、修治の蹤跡を所所の古路に流布せしめて古今に歴然せるがゆえに、成道す。
しるべし。
かの八塔の層層なる、霜華、いくばくか、あらたまる。
風雨、しばしば、おかさんとすれど、空にあとせり、色にあとせる、その功徳をいまの人に、おしまざること、減少せず。
かの根、力、覚、道、いま、修行せんとするに、煩悩あり、惑障ありといえども、修、証するに、そのちから、なお、いま、あらたなり。
釈迦牟尼仏の功徳、それ、かくのごとし。
いわんや、いまの面授は、かれらに比準すべからず。
かの三十七品菩提分法は、この仏面、仏心、仏身、仏道、仏光、仏舌、等を根元とせり。
かの八塔の功徳集、また、仏面、等を本、基とせり。
いま、学仏法の漢として透脱の活路に行履せんに、閑静の昼夜、つらつら思量、功夫すべし、歓喜、随喜すべきなり。
いわゆる、わがくには、他国よりも、すぐれ、わが道は、ひとり無上なり。
他方には、われらがごとくならざるともがら、おおかり。
わがくに、わが道の無上独尊なる、というは、霊山の衆会、あまねく十方を化導すといえども、少林の正嫡、まさしく、震旦の教主なり。
曹谿の児孫、いまに面授せり。
このとき、これ、仏法、あらたに入泥入水の好時節なり。
このとき証果せずば、いずれのときか、証果せん?
このとき断、惑せずば、いずれのときか、断、惑せん?
このとき作仏ならざらんば、いずれのときか、作仏ならん?
このとき坐仏ならざらんば、いずれのときか、行仏ならん?
審細の功夫なるべし。
釈迦牟尼仏、かたじけなく迦葉尊者に付属、面授するに、いわく、
吾有、正法眼蔵、付属、摩訶迦葉。
とあり。
嵩山、会上には、菩提達磨尊者、まさしく、二祖にしめして、いわく、
汝、得、吾髄。
はかりしりぬ。
正法眼蔵を面授し、汝、得、吾髄の面授なるは、ただ、この面授のみなり。
この正当恁麼時、なんじが、ひごろの骨髄を透脱するとき、仏祖、面授あり。
大悟を面授し、心印を面授するも、一隅の特地なり。
伝尽にあらずといえども、いまだ欠悟の道理を参究せず。
おおよそ、仏祖、大道は、唯、面授、面受、受面、授面のみなり。
さらに、剰法あらず、虧闕あらず。
この面授の、あうに、あえる、自己の面目をも、随喜、歓喜、信受、奉行すべきなり。
道元、大宋宝慶元年乙酉、五月一日、はじめて先師、天童古仏を礼拝、面授す。
やや堂奥を聴許せらる。
わずかに身心を脱落するに、面授を保任することありて、日本国に本来せり。
正法眼蔵 面授
爾時、寛元元年癸卯、十月二十日、在、越宇、吉田県、吉峰精舎、示、衆。
仏道の面授、かくのごとくなる道理をかつて見聞せず、参学なきともがら、あるなかに、大宋国、仁宗皇帝の御宇、景祐年中に、薦福寺の承古禅師というものあり、上堂、曰、
雲門、匡真大師、如今、現在。
諸人、
還、見、麼?
若、也、見得、便、是、山僧、同参。
見、麼?
見、麼?
此事、直、須、諦当、始、得。
不可、自、謾。
且、如、往古、黄檗、聞、
百丈和尚、挙、
馬大師、下、喝、因縁、
佗、因、大省。
百丈、問、
子、
向後、莫、承嗣、大師? 否?
黄檗、云、
某、雖、識、大師、要、且、不見、大師。
若、承嗣、大師、恐、喪、我児孫。
大衆、
当時、馬大師、遷化、未得、五年。
黄檗、自、言、
不見。
当、知、
黄檗、見所、不円。
要、且、祗、具、一隻眼。
山僧、即、不然。
識得、雲門大師。
亦、見得、雲門大師。
方、可、承嗣、雲門大師。
祗、如、雲門、入滅、已得、一百余年。
如今、作麼生、説、箇親見底道理?
会、麼?
通人達士、方、可、証明。
眇劣之徒、心、生、疑謗。
見得、不在、言、之。
未見者、如今、看取? 不?
久立。
珍重。
いま、なんじ、雲門大師をしり、雲門大師をみることをたとえゆるすとも、雲門大師、まのあたり、なんじをみるや? いまだしや?
雲門大師、なんじをみずば、なんじ、承嗣、雲門大師、不得ならん。
雲門大師、いまだ、なんじをゆるさざるがゆえに、なんじも、また、雲門大師、われをみる、と、いわず。
しりぬ、なんじ、雲門大師と、いまだ相見せざり、ということを。
七仏、諸仏の過去、現在、未来に、いずれの仏祖が師資、相見せざるに嗣法せる?
なんじ、黄檗を見所、不円、ということなかれ。
なんじ、いかでか黄檗の行季をはからん? 黄檗の言句をはからん?
黄檗は、古仏なり。嗣法に、究参なり。
なんじは、嗣法の道理、かつて夢、也、未、見聞、参学、在なり。
黄檗は、師に嗣法せり。祖を保任せり。
黄檗は、師にまみえ、師をみる。
なんじは、すべて、師をみず、祖をしらず。
自己をしらず、自己をみず。
なんじをみる師なし、なんじ、師眼、いまだ参開せず。
真箇、なんじ、見所、不円なり。嗣法、未円なり。
なんじ、しるや? いなや? 雲門大師は、これ、黄檗の法孫なることを。
なんじ、いかでか百丈、黄檗の道所を測量せん?
雲門大師の道所、なんじ、なお、測量すべからず。
百丈、黄檗の道所は、参学のちからあるもの、これを拈挙するなり。直指の落所あるもの、測量すべし。
なんじは、参学なし、落所なし。しるべからず。はかるべからざるなり。
馬大師、遷化、未得、五年なるに、馬大師に嗣法せずという、まことに、わらうにも、たらず。
たとえ嗣法すべくば、無量劫ののちなりとも、嗣法すべし。
嗣法すべからざらんば、半日なりとも、須臾なりとも、嗣法すべからず。
なんじ、すべて仏道の日面、月面をみざる。暗者、愚蒙なり。
雲門大師、入滅、已得、一百余年なれども、雲門に承嗣す、という。
なんじに、ゆゆしきちからありて雲門に承嗣するか?
三歳の孩児より、はかなし。
一千年ののち、雲門に嗣法せんものは、なんじに十倍せる、ちから、あらん。
われ、いま、なんじをすくう。
しばらく、話頭を参学すべし。
百丈の道取する、子、向後、莫、承嗣、大師? 否? の道取は、馬大師に嗣法せよ、というには、あらぬなり。
しばらく、なんじ、
獅子奮迅話を参学すべし。
烏亀倒上樹話を参学して、進歩、退歩の活路を参学すべし。
嗣法に恁麼の参学力あるなり。
黄檗のいう恐、喪、我児孫のことば、すべて、なんじ、はかるべからず。
我の道取、および、児孫の人、これ、だれなり、とか、しれる?
審細に参学すべし。
かくれず、あらわして、道、現成せり。
しかあるを、仏国禅師、惟白という、仏祖の嗣法にくらきによりて承古を雲門の法嗣に排列せり。あやまりなるべし。
晩進、しらずして、承古も、参学あらん、とおもうことなかれ。
なんじがごとく文字によりて嗣法すべくば、経書をみて発明するものは、みな、釈迦牟尼仏に嗣法するか? さらに、しかあらざるなり。
経書によれる発明、かならず、正師の印可をもとむるなり。
なんじ、承古が、いうごとくには、なんじ、雲門の語録、なお、いまだ、みざるなり。
雲門の語をみしともがらのみ、雲門には、嗣法せり。
なんじ、
自己眼をもって、いまだ雲門をみず。
自己眼をもって、自己をみず。
雲門眼をもって、雲門をみず。
雲門眼をもって、自己をみず。
かくのごとくの未参究、おおし。
さらに、草鞋を買来買去して正師をもとめて、嗣法すべし。
なんじ、雲門大師に承嗣す、ということ、なかれ。
もし、かくのごとくいわば、すなわち、外道の流類なるべし。
たとえ百丈なりとも、なんじがいうがごとくいわば、おおきなる、あやまりなるべし。
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