正法眼蔵 仏経
このなかに、教菩薩法あり、教諸仏法あり。
おなじく、これ、大道の調度なり。
調度、ぬしにしたがう。
ぬし、調度をつかう。
これによりて、西天、東地の仏祖、かならず、或、従、知識、或、従、経巻の正当恁麼時、おのおの発意、修行、証果、かつて間隙あらざるものなり。
発意も、経巻、知識により、
修行も、経巻、知識による。
証果も、経巻、知識に一親なり。
機先句後、おなじく、経巻、知識に同参なり。
機中句裏、おなじく、経巻、知識に同参なり。
知識は、かならず、経巻を通利す。
通利す、というは、
経巻を国土とし、経巻を身心とす。
経巻を為、他の施設とせり。
経巻を坐臥、経行とせり。
経巻を父母とし、経巻を児孫とせり。
経巻を行、解とせるがゆえに、これ、知識の、経巻を参究せるなり。
知識の洗面、喫茶、これ、古経なり。
経巻の、知識を出生する、というは、黄檗の六十、拄杖、よく、児孫を生長せしめ、黄梅の打、三杖、よく、伝衣、付、法せしむるのみにあらず。
桃華をみて悟道し、竹、響をききて悟道する、および、見、明星、悟道、みな、これ、経巻の、知識を生長せしむるなり。
あるいは、まなこをえて、経巻をうる、皮袋、拳頭あり。
あるいは、経巻をえて、まなこをうる、木杓、漆桶あり。
いわゆる、経巻は、尽十方界、これなり。
経巻にあらざる時、所なし。
勝義諦の文字をもちい、
世俗諦の文字をもちい、
あるいは、天上の文字をもちい、
あるいは、人間の文字をもちい、
あるいは、畜生道の文字をもちい、
あるいは、修羅道の文字をもちい、
あるいは、百草の文字をもちい、
あるいは、万木の文字をもちいる。
このゆえに、尽十方界に森森として羅列せる長短、方、円、青、黄、赤、白、しかしながら、経巻の文字なり、経巻の表面なり。
これを大道の調度とし、仏家の経巻とせり。
この経巻、よく、蓋時に流布し、蓋国に流通す。
教、人の門をひらきて、尽地の人家をすてず。
教、物の門をひらきて、尽地の物類をすくう。
教諸仏し、教菩薩するに、尽地、尽界なるなり。
開、方便門し、開、住位門して、一箇、半箇をすてず、示、真実相するなり。
この正恁麼時、あるいは、諸仏、あるいは、菩薩の、慮知念覚と無慮知念覚と、みずから、おのおの強為にあらざれども、この経巻をうるを各面の大期とせり。
必、得、是経のときは、古今にあらず。
古今は、得、経の時節なるがゆえに。
尽十方界の目前に現前せるは、これ、得、是経なり。
この経を読誦、通利するに、仏智、自然智、無師智、こころよりさきに現成し、身よりさきに現成す。
このとき、新条の特地、とあやしむことなし。
この経の、われらに受持、読誦せらるるは、経の、われらを摂取するなり。
文先、句外、向下、節上の消息、すみやかに散華、貫華なり。
この経を、すなわち、法となづく。
これに八万四千の説法蘊あり。
この経のなかに、成、等正覚の諸仏なる文字あり、現住、世間の諸仏なる文字あり、入、般涅槃の諸仏なる文字あり。
如来、如去、ともに、経中の文字なり、法上の法文なり。
拈華瞬目、微笑破顔、すなわち、七仏、正伝の古経なり。
腰雪断臂、礼拝得髄、まさしく、師資、相承の古経なり。
ついに、すなわち、伝法、付、衣する、これ、すなわち、広文全巻を付属せしむる時節、至なり。
みたび臼をうち、みたび箕の米をひる、経の、経を出、手せしめ、経の、経に正嗣するなり。
しかのみにあらず、是、什麼物、恁麼、来、これ、教諸仏の千経なり、教菩薩の万経なり。
説、似、一物、即、不中、よく、八万蘊をとき、十二部をとく。
いわんや、拳頭、脚跟、拄杖、払子、すなわち、古経、新経なり、有経、空経なり。
在、衆、弁道、功夫、坐禅、もとより、頭正、也、仏経なり、尾正、也、仏経なり。
菩提葉に経し、虚空面に経す。
おおよそ、仏祖の一動、両静、あわせて把定、放行、おのれずから仏経の巻、舒なり。
窮極あらざるを窮極の標準と参学するゆえに、鼻孔より受経、出経す。
脚尖よりも、受経、出経す。
父母未生前にも、受経、出経あり。
威音王以前にも、受経、出経あり。
山河大地をもって、経をうけ、経をとく。
日月星辰をもって、経をうけ、経をとく。
あるいは、空劫以前の自己をして、経を持し、経をさずく。
あるいは、面目以前の身心をもって、経を持し、経をさずく。
かくのごとくの経は、微塵を破して出現せしむ、法界を破して、いださしむるなり。
第二十七祖、般若多羅、尊者、道、
貧道、
出息、不随、衆縁。
入息、不居、蘊界。
常、転、如是経、百、千、万、億巻。
非、但、一巻、両巻。
かくのごとくの祖師、道を聞取して、出息、入息のところに転、経せらるることを参学すべし。
転、経をしるがごときは、在、経のところをしるべきなり。
能転、所転、転経、経転なるがゆえに、悉、知、悉、見なるべきなり。
先師、尋常、道、
我箇裏、不用、焼香、礼拝、念仏、修懺、看経。
祗管、打坐、弁道、功夫、身心脱落。
かくのごとくの道取、あきらむるともがら、まれなり。
ゆえは、いかん?
看経をよんで看経とすれば、触す。
よんで看経とせざれば、そむく。
不得、有語。
不得、無語。
速、道。
速、道。
この道理、参学すべし。
この宗旨あるゆえに、
古人、云、
看経、須、具、看経眼。
まさに、しるべし。
古今に、もし経なくば、かくのごときの道取あるべからず。
脱落の看経あり、不用の看経あること、参学すべきなり。
しかあれば、すなわち、参学の一箇、半箇、かならず、仏経を伝持して仏子なるべし。
いたずらに外道の邪見をまなぶことなかれ。
いま、現成せる正法眼蔵は、すなわち、仏経なるがゆえに、あらゆる仏経は、正法眼蔵なり。
一異にあらず。
自他にあらず。
しるべし。
正法眼蔵、そこばく、おおしといえども、なんだち、ことごとく開明せず。
しかあれども、正法眼蔵を開演す、信ぜざることなし。
仏経も、しかあるべし。
そこばく、おおしといえども、信受、奉行せんこと、一偈、一句なるべし。
八万を解会すべからず、仏経の達者にあらざればとて、みだりに、仏経は仏法にあらず、ということなかれ。
なんだちが仏祖の骨髄を称し、きこゆるも、正眼をもって、これをみれば、依、文の晩進なり。
一句、一偈を受持せるに、ひとしかるべし。
一句、一偈の受持におよばざることも、あるべし。
この薄解をたのんで、仏正法を謗ずることなかれ。
声、色の、仏経よりも功徳なる、あるべからず。
声、色の、なんじを惑乱する、なお、もとめ、むさぼる。
仏経の、なんじを惑乱せざる。
信ぜずして謗ずることなかれ。
しかあるに、大宋国の一、二百余年の前後に、あらゆる杜撰の臭皮袋、いわく、
祖師の言句、なお、こころにおくべからず。
いわんや、経教は、ながく、みるべからず、もちいるべからず。
ただ身心をして枯木死灰のごとくなるべし。
破木杓、脱底桶のごとくなるべし。
かくのごとくのともがら、いたずらに外道、天魔の流類となれり。
もちいるべからざるをもとめて、もちいる。
これによりて、仏祖の法、むなしく狂顛の法となれり。
あわれむべし。
かなしむべし。
たとえ破木杓、脱底桶も、すなわち、仏祖の古経なり。
この経の巻数、部、帙、きわむる仏祖、まれなるなり。
仏経を仏法にあらずというは、仏祖の、経をもちいし時節をうかがわず、仏祖の、従、経、出の時節を参学せず、仏祖と仏経との親、疎の量をしらざるなり。
かくのごとくの杜撰のやから、稲麻竹葦のごとし。獅子の座にのぼり、人、天の師として、天下に叢林をなせり。
杜撰は、杜撰に学せるがゆえに、杜撰にあらざる道理をしらず。
しらざれば、ねがわず。
従、冥、入、於、冥。
あわれむべし。
いまだかつて仏法の身心なければ、身儀、心操、いかにあるべし、としらず。
有、空のむね、あきらめざれば、人もし問取するとき、みだりに拳頭をたつ。
しかあれども、たつる宗旨にくらし。
正、邪のみち、あきらめざれば、人もし問取すれば、払子をあぐ。
しかあれども、あぐる宗旨にあきらかならず。
あるいは、為、人の手をさずけんとするには、臨済の四料簡、四照用、雲門の三句、洞山の三路、五位、等を挙して、学道の標準とせり。
先師、天童和尚、よのつねに、これをわらうて、いわく、
学、仏、あに、かくのごとくならんや?
仏祖、正伝する大道、おおく心にこうむらしめ、身にこうむらしむ。
これを参学するに、参究せんと擬するに、いとまあらず。
なんの間暇ありてか晩進の言句をいれん?
まことに、しるべし。
諸方、長老、無道心にして、仏法の身心を参学せざること、あきらけし。
先師の示衆、かくのごとし。
まことに、臨済は、黄檗の会下に後生なり。
六十、拄杖をこうむりて、ついに、大愚に参ず。
老婆心話のしたに、従来の行履を照顧して、さらに、黄檗にかえる。
このこと、雷聞せるゆえに、黄檗の仏法は臨済ひとり相伝せり、とおもえり。
あまりさえ、黄檗にも、すぐれたり、とおもえり。
まったく、しかにはあらざるなり。
臨済は、わずかに黄檗の会にありて随衆すといえども、陳尊宿、すすむるとき、なにごとをとうべし、としらず、という。
大事、未明のとき、参学の玄侶として、立地、聴法せんに、あに、しかのごとく茫然とあらんや?
しるべし、上上の機にあらざることを。
また、臨済、かつて勝、師の志気あらず、過、師の言句きこえず。
黄檗は、勝、師の道取あり、過、師の大智あり。
仏、未道の道を道得せり。
祖、未会の法を会得せり。
黄檗は、超越、古今の古仏なり。
百丈よりも、尊長なり。
馬祖よりも、英俊なり。
臨済に、かくのごとくの秀気あらざるなり。
ゆえは、いかん?
古来、未道の句、ゆめにもいまだ、いわず。
ただ多を会して一をわすれ、一を達して多にわずらうがごとし。
あに、四料簡、等に道味ありとして、学、法の指南とせんや?
雲門は、雪峰の門人なり。
人天の大師に堪為なりとも、なお、学地というつべし。
これらをもって得、本とせん、ただ、これ、愁、末なるべし。
臨済、いまだきたらず、雲門、いまだいでざりしときは、仏祖、なにをもってか学道の標準とせし?
かるがゆえに、しるべし。
かれらが屋裏に仏家の道業つたわれざるなり。
憑拠すべきところなきがゆえに、みだりに、かくのごとく胡乱説道するなり。
このともがら、みだりに仏経をさみす。
人、これに、したがわざれ。
もし仏経、なげすつべくば、臨済、雲門をも、なげすつべし。
仏経もし、もちいるべからずば、のむべき水もなし、くむべき杓もなし。
また、高祖の三路、五位は、節目にて、杜撰のしるべき境界にあらず。
宗旨、正伝し、仏業、直指せり。
あえて余門に、ひとしからざるなり。
また、杜撰のともがら、いわく、
道教、儒教、釈教、ともに、その極致は、一揆なるべし。
しばらく、入門の別あるのみなり。
あるいは、これを鼎の三脚にたとう。
これ、いまの大宋国の諸僧の、さかりに談ずるむねなり。
もし、かくのごとく、いわば、これらのともがらがうえには、仏法、すでに地をはらうて滅没せり。
また、仏法、かつて微塵のごとくばかりも、きたらず、というべし。
かくのごとくのともがら、みだりに仏法の通塞を道取せんとして、あやまりて、仏経は、不中用なり。祖師の門下に別伝の宗旨あり。という。
小量の機根なり。
仏道の辺際をうかがわざるゆえなり。
仏経、もちいるべからず、といわば、祖経あらんとき、もちいるや? もちいるべからずや?
祖道に仏経のごとくなる法、おおし。
用、捨、いかん?
もし、仏道のほかに祖道あり。といわば、だれが祖道を信ぜん?
祖師の、祖師とあることは、仏道を正伝するによりてなり。
仏道を正伝せざらん祖師、だれが祖師といわん?
初祖を崇敬することは、第二十八祖なるゆえなり。
仏道のほかに祖道をいわば、十祖、二十祖、たてがたからん。
嫡嫡、相承するによりて、祖師を恭敬するゆえは、仏道の、おもきによりてなり。
仏道を正伝せざらん祖師は、なんの面目ありてか人、天と相見せん?
いわんや、仏を慕う、深き志を翻して、あらたに仏道にあらざらん祖師にしたがいがたきなり。
いま、杜撰の狂者、いたずらに仏道を軽忽するは、仏道、所有の法を決択すること、あたわざるによりてなり。
しばらく、かの道教、儒教をもって仏教に比する愚痴の、かなしむべきのみにあらず、罪業の因縁なり、国土の衰弊なり。
三宝の陵夷なるがゆえに。
孔、老の道、いまだ阿羅漢に同ずべからず。
いわんや、等覚、妙覚におよばんや?
孔、老の教は、わずかに聖人の視聴を天地、乾坤の大象にわきまうとも、大聖の因果を一生、多生に、あきらめがたし。
わずかに身心の動静を無為の為にわきまうとも、尽十方界の真実を無尽際断に、あきらむべからず。
おおよそ、孔、老の教の、仏教よりも、劣なること、天地懸隔の論におよばざるなり。
これをみだりに一揆に論ずるは、謗、仏法なり、謗、孔、老なり。
たとえ孔、老の教に精微ありとも、近来の長老、等、いかにしてか、その少分をも、あきらめん?
いわんや、万期に大柄をとらんや?
かれにも教訓あり、修練あり。
いまの庸流、たやすくすべきにあらず。
修し、こころむるともがら、なお、あるべからず。
一微塵、なお、他塵に同ずべからず。
いわんや、仏道の奥玄ある、いまの晩進、いかでか弁肯することあらん?
両頭、ともに、あきらかならざるに、いたずらに一致の胡説乱道するのみなり。
大宋、いま、かくのごとくのともがら、師号に署し、師職におり、古今に無慚なるをもって、おろかに仏道を乱弁す。
仏法ありと聴許しがたし。
しかのごとくの長老、等、かれこれ、ともに、いわく、
仏経は、仏道の本意にあらず。
祖伝、これ、本意なり。
祖伝に奇特玄妙つたわれり。
かくのごとくの言句は、至愚の、はなはだしきなり、狂顛の、いうところなり。
祖師の正伝に、まったく、一言、半句としても、仏経に違せる奇特あらざるなり。
仏経と祖、道と、おなじく、これ、釈迦牟尼仏より正伝、流布しきたれるのみなり。
ただし、祖伝は、嫡嫡、相承せるのみなり。
しかあれども、
仏経をいかでか、しらざらん?
いかでか、あきらめざらん?
いかでか読誦せざらん?
古徳、いわく、
なんじ、経にまどう。
経、なんじをまよわさず。
古徳、看経の因縁、おおし。
杜撰にむかうて、いうべし、
なんぢが、いうがごとく、仏経もし、なげすつべくば、仏心も、なげすつべし。仏身も、なげすつべし。
仏身心なげすつべくば、仏子なげすつべし。
仏子なげすつべくば、仏道なげすつべし。
仏道なげすつべくば、祖、道なげすてざらんや?
仏道、祖、道、ともに、なげすてば、一枚の禿子の百姓ならん。
だれが、なんじを喫、棒の分なし、と、いわん?
ただ王臣の駆使のみにあらず、閻老のせめ、あるべし。
近来の長老、等、わずかに王、臣の帖をたずさえて、梵刹の主人というをもって、かくのごとくの狂言あり。
是非を弁ずるに人なし。
ひとり先師のみ、このともがらをわらう。
余山の長老、等、すべて、しらざるところなり。
おおよそ、異域の僧侶なれば、あきらむる道かならず、あるらん、とおもい、大国の帝師なれば、達せるところ、さだめて、あるらん、とおもうべからず。
異域の衆生、かならずしも僧種にたえず。
善、衆生は、善なり。
悪、衆生は、悪なり。
法界の、いく三界も、衆生の種品、おなじかるべきなり。
また、大国の帝師となること、かならずしも有道をえらばれず。
帝者、また、有道をしりがたし。
わずかに臣の挙をききて登用するのみなり。
古今に有道の帝師あり。
有道にあらざる帝師、おおし。
にごれる代に登用せらるるは、無道の人なり。
にごれる世に登用せられざるは、有道の人なり。
そのゆえは、いかん?
知、人のとき、不知、人のとき、あるゆえなり。
黄梅のむかし、神秀あることをわすれざるべし。
神秀は、帝師なり。
簾前に講、法す。
箔前に説法す。
しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。
黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。
樵夫より行者にうつる。
搬、柴をのがるとも、なお、碓、米を職とす。
卑賤の身うらむべしといえども、出俗、越僧、得法、伝衣、かつて、いまだ、むかしも、きかざるところ、西天にも、なし。
ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。
七百の高僧も、かたを比せず。
天下の龍象、あとをたずぬる分なきがごとし。
まさしく、第三十三代の祖位を嗣続して仏嫡なり。
五祖、知、人の知識にあらずば、いかでか、かくのごとくならん?
かくのごとくの道理、しずかに思惟すべし。
卒爾にすることなかれ。
知、人のちからをえんことをこいねがうべし。
人をしらざるは、自他の大患なり、天下の大患なり。
広学、措大は、要にあらず。
知、人のまなこ、知、人の力量、いそぎて、もとむべし。
もし知、人のちからなくば、曠劫に沈淪すべきなり。
しかあれば、すなわち、仏道に、さだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、弁道の標準とすべきなり。
正法眼蔵 仏経
爾時、寛元元年癸卯、秋、九月、庵居、于、越州、吉田県、吉峰寺、示、衆。
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