正法眼蔵 諸法実相

仏祖の現成は、究尽の実相なり。

実相は、諸法なり。

諸法は、

如是相なり。

如是性なり。

如是身なり。

如是心なり。

如是世界なり。

如是雲雨なり。

如是行住坐臥なり。

如是憂喜動静なり。

如是拄杖払子なり。

如是拈華破顔なり。

如是嗣法授記なり。

如是参学弁道なり。

如是松操竹節なり。


釈迦牟尼仏、言、

唯仏与仏、乃、能、究尽、諸法実相。

所謂、諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。


いわゆる、如来、道の本末究竟等は、

諸法実相の自道取なり、闍梨自道取なり、一等の参学なり。

参学は、一等なるがゆえに、唯仏与仏は、諸法実相なり。

諸法実相は、唯仏与仏なり。

唯仏は、実相なり。

与仏は、諸法なり。

諸法の道を聞取して、一と参じ、多と参ずべからず。

実相の道を聞取して、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず。

実は、唯仏なり。

相は、与仏なり。

乃能は、唯仏なり。

究尽は、与仏なり。

諸法は、唯仏なり。

実相は、与仏なり。

諸法の、まさに、諸法なるを唯仏と称す。

諸法の、いまし実相なるを与仏と称す。

しかあれば、諸法のみずから諸法なる如是相あり、如是性あり。

実相の、まさしく、実相なる如是相あり、如是性あり。

唯仏与仏と出現、於、世するは、諸法実相の説取なり、行取なり、証取なり。

その説取は、乃能究尽なり。

究尽なりといえども、乃能なるべし。

初中後にあらざるゆえに、如是相なり、如是性なり。

このゆえに、初中後善という。

乃能究尽というは、諸法実相なり。

諸法実相は、如是相なり。

如是相は、乃能究尽、如是性なり。

如是性は、乃能究尽、如是体なり。

如是体は、乃能究尽、如是力なり。

如是力は、乃能究尽、如是作なり。

如是作は、乃能究尽、如是因なり。

如是因は、乃能究尽、如是縁なり。

如是縁は、乃能究尽、如是果なり。

如是果は、乃能究尽、如是報なり。

如是報は、乃能究尽、本末究竟等なり。

本末究竟等の道取、まさに、現成の如是なるがゆえに、果果の果は、因果の果にあらず。

このゆえに、因果の果は、すなわち、果果の果なるべし。

この果、すなわち、相、性、体、力をあい罣礙するがゆえに、諸法の相、性、体、力、等、いく無量、無辺も実相なり。

この果、すなわち、相、性、体、力を罣礙せざるがゆえに、諸法の相、性、体、力、等、ともに、実相なり。

この相、性、体、力、等を、果報、因縁、等のあい罣礙するに一任するとき、八、九成の道あり。

この相、性、体、力、等を、果報、因縁、等のあい罣礙せざるに一任するとき、十成の道あり。

いわゆるの如是相は、一相にあらず。

如是相は、一如是にあらず。

無量、無辺、不可道、不可測の如是なり。

百、千の量を量とすべからず。

諸法の量を量とすべし。

実相の量を量とすべし。

そのゆえは、

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実性なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実体なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実力なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実作なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実因なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実縁なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実果なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実報なり。

唯仏与仏、乃能究尽、諸法実本末究竟等なり。

かくのごとくの道理あるがゆえに、十方仏土は、唯仏与仏のみなり。

さらに一箇、半箇の唯仏与仏にあらざるなし。

唯と与とは、たとえば、体に体を具し、相の相を証せるなり。

また、性を体として性を存せるがごとし。

このゆえに、いわく、

我、及、十方仏、乃、能、知、是事。


しかあれば、乃能究尽の正当恁麼時と、乃能知是の正当恁麼時と、おなじく、これ、面面の有時なり。

我もし十方仏に同異せば、いかでか及十方仏の道取を現成せしめん?

這頭に十方なきがゆえに、十方は、這頭なり。

ここをもって、実相の、諸法に相見す、というは、

春は、華にいり、

人は、春にあう、

月は、月をてらし、

人は、おのれにあう。

あるいは、人の、水をみる、

おなじく、これ、相見底の道理なり。

このゆえに、実相の、実相に参学するを仏祖の、仏祖に嗣法するとす。

これ、諸法の、諸法に授記するなり。

唯仏の、唯仏のために伝法し、与仏の、与仏のために嗣法するなり。

このゆえに、生死去来あり。

このゆえに、発心、修行、菩提、涅槃あり。

発心、修行、菩提、涅槃を挙して、生死去来、真実人体を参究し接取するに、把定し、放行す。

これを命脈として華開、結果す。

これを骨髄として迦葉、阿難あり。

風、雨、水、火の如是相、すなわち、究尽なり。

青、黄、赤、白の如是性、すなわち、究尽なり。

この体、力によりて転凡入聖す。

この果、報によりて超仏越祖す。

この因、縁によりて握、土、成、金あり。

この果、報によりて伝法、付、衣あり。


如来、道、

為、説、実相印。


いわゆるをいうべし。

為、行、実相印。

為、聴、実性印。

為、証、実体印。

かくのごとく参究し、かくのごとく究尽すべきなり。

その宗旨、たとえば、珠の、盤をはしるがごとく、盤の、珠をはしるがごとし。


日月灯明仏、言、

諸法実相義、已、為、汝等、説。


この道取を参学して、仏祖は、かならず、説、実相義を一大事とせりと参究すべし。

仏祖は、十八界、ともに、実相義を開説す。

身心先、身心後、正当身心時、説、実相、性、体、力、等なり。

実相を究尽せず、実相をとかず、実相を会せず、実相を不会せざらんは、仏祖にあらざるなり。

魔党、畜生なり。


釈迦牟尼仏、道、

一切菩薩、阿耨多羅三藐三菩提、皆、属、此経。

此経、開、方便門、示、真実相。


いわゆる、一切菩薩は、一切諸仏なり。

諸仏と菩薩と、異類にあらず。

老少なし、勝劣なし。

此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自他にあらず。

過、現、当来箇にあらざれども、作仏は、行、菩薩道の法儀なり。

初発心に成仏し、妙覚地に成仏す。

無量、百、千、万、億度、作仏せる菩薩あり。

作仏よりのちは、行を廃して、さらに所作あるべからず、というは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。

いわゆる、一切菩薩は、一切諸仏の本祖なり。

一切諸仏は、一切菩薩の本師なり。

この諸仏の無上菩提、

たとえ過去に修、証するも、

現在に修、証するも、

未来に修、証するも、

身先に修、証するも、

心後に修、証するも、

初中後、ともに、此経なり。

能属、所属、おなじく、此経なり。

この正当恁麼時、これ、此経の、一切菩薩を証するなり。

経は、有情にあらず。

経は、無情にあらず。

経は、有為にあらず。

経は、無為にあらず。

しかあれども、菩提を証し、人を証し、実相を証し、此経を証するとき、開、方便門するなり。

方便門は、仏果の無上功徳なり、法住法位なり、世相常住なり。

方便門は、暫時の伎倆にあらず、尽十方界の参学なり。

諸法実相を拈じ参学するなり。

この方便門、あらわれて、尽十方界に蓋十方界すといえども、一切菩薩にあらざれば、その境界にあらず。


雪峰、いわく、

尽大地、是、解脱門。

曳、人、不、肯、入。


しかあれば、しるべし。

尽地、尽界、たとえ門なりとも、出入、たやすかるべきにあらず。

出入箇のおおきにあらず。

曳、人するに、いらず、いでず。

不曳に、いらず、いでず。

進歩のもの、あやまりぬべし。

退歩のもの、とどこおりぬべし。

又、且、いかん?

人を挙して門に出入せしむれば、いよいよ門と、とおざかる。

門を挙して人にいるるには、出入の分あり。

開、方便門というは、示、真実相なり。

示、真実相は、蓋時にして、初中後際断なり。

その開、方便門の正当開の道理は、尽十方界に開、方便門するなり。

この正当時、まさしく、尽十方界を覰見すれば、未曾見の様子あり。

いわゆる、尽十方界を一枚、二枚、三箇、四箇、拈来して、開、方便門ならしむるなり。

これによりて、一等に開、方便門とみゆといえども、如許多の尽十方界は、開、方便門の少許を得分して、現成の面目とせり、とみゆるなり。

かくのごとくの風流、しかしながら、属、経のちからなり。

示、真実相というは、

諸法実相の言句を尽界に風聞するなり。

尽界に成道するなり。

実相諸法の道理を尽人に領覧せしむるなり。

尽法に現出せしむるなり。

しかあれば、すなわち、四十仏、四十祖の無上菩提、みな、此経に属せり。

属、此経なり。

此経、属なり。

蒲団、禅板の阿耨菩提なる、みな、此経に属せり。

拈華、破顔、礼拝得髄、ともに、皆、

属、此経なり。

此経之属なり。

開、方便門、示、真実相なり。


しかあるを、近来、大宋国、杜撰のともがら、落所をしらず、宝所をみず。

実相の言を虚設のごとくし、さらに老子、荘子の言句を学す。

これをもって、仏祖の大道に一斉なり、という。

また、三教は、一致なるべし、という。

あるいは、三教は、鼎の三脚のごとし、ひとつも、なければ、くつがえるべし、という。

愚痴のはなはだしき、たとえをとるに物あらず。

かくのごときのことばあるともがらも仏法をきけり、とゆるすべからず。

ゆえ、いかん? となれば、仏法は、西天を本とせり。

在世、八十年、説法、五十年、さかりに人、天を化す。

化、一切衆生、皆、令、入、仏道なり。

それより、このかた、二十八祖、正伝せり。

これをさかりなるとし、微妙、最尊なるとせり。

もろもろの外道、天魔、ことごとく降伏せられ、おわりぬ。

成仏作祖する人、天、かずをしらず。

しかあれども、いまだ儒教、道教を震旦国にとぶらわざれば、仏道の不足、といわず。

もし決定して三教一致ならば、仏法、出現せんとき、西天に儒宗、道教、等も同時に出現すべし。

しかあれども、仏法は、天上天下、唯我独尊なり。

かのときの事をおもいやるべし。

わすれ、あやまるべからず。

三教一致のことば、小児子の言音におよばず。

壊、仏法のともがらなり。

かくのごとくのともがらのみ、おおきなり。

あるいは、人、天の導師なる、よしを現じ、あるいは、帝王の師匠となれり。

大宋、仏法、衰薄の時節なり。

先師古仏、ふかく、このことをいましめき。

かくのごときのともがら、二乗、外道の種子なり。

しかのごときの種類は、実相のあるべしとだにもしらずして、すでに二、三百年をへたり。

仏祖の正法を参学しては、流転、生死を出離すべし、とのみいう。

あるいは、仏祖の正法を参学するは、いかなるべし? とも、しらざる、おおし。

ただ住院の稽古とおもえり。

あわれむべし、祖師道、廃せることを。

有道の尊宿、おおきに、なげくところなり。

しかのごときのともがら、所出の言句をきくべからず。

あわれむべし。


圜悟禅師、いわく、

生死去来、真実人体。


この道取を拈挙して、みずからをしり、仏法を商量すべし。


長沙、いわく、

尽十方界、真実人体。

尽十方界、自己光明裏。


かくのごとくの道取、いまの大宋国の諸方、長老、等、おおよそ参学すべき道理と、なお、しらず。

いわんや、参学せんや?

もし挙しきたりしかば、ただ赤面、無言するのみなり。


先師古仏、いわく、

いま、諸方、長老は、照古なし、照今なし。

仏法道理、不曾有なり。

尽十方界、等、恁麼、挙、那、得知?

佗那裏、也、未曾聴、相似。


これをききてのち、諸方、長老に問著するに、真箇に聴来せる、すくなし。

あわれむべし、虚設にして職をけがせることを。


応庵曇華、禅師、ちなみに、徳徽、大徳にしめして、いわく、

若、要、易、会、祗、向、十二時中、起心動念所。

但、即、此動念、直下、頓、豁了、不可得、如、大虚空。

亦、無、虚空、形段。

表裏一如。

智、境、双、泯。

玄、解、倶、亡。

三際、平等。

到、此田地、謂、之、絶学、無為閑道人、也。


これは、応庵老人、尽力、道得底、句なり。

これ、ただ影をおうて休歇をしらざるがごとし。

表裏一如ならざらんときは、仏法あるべからざるか?

なにか、これ、表裏?

また、虚空、有、形段を仏祖の道取とす。

なにをか虚空とする?

おもいやるに、

応庵、いまだ虚空をしらざるなり。

虚空をみざるなり。

虚空をとらざるなり。

虚空をうたざるなり。

起心動念という。

心は、いまだ動ぜざる道理あり。

いかでか十二時中に起心あらん?

十二時中には、心、きたり、いるべからず。

十二心中に、十二時きたらず。

いわんや、起心あらんや?

動念とは、いかん?

念は動、不動するか? 動、不動せざるか?

作麼生なるか、動?

また、作麼生なるか、不動?

なにをよんでか念とする?

念は、十二時中にあるか?

念裏に十二時あるか?

両頭にあらざらんとき、あるべきか?

十二時中に祗、向せば、易、会ならんという。

なにごとを易、会すべきぞ?

易、会という。

もし、仏祖の道をいうか?

しかあらば、仏道は、易会、難会にあらざるゆえに、南嶽、江西、ひさしく師にしたがいて弁道するなり。

頓、豁了、不可得という。

仏道、未夢見なり。

恁麼の力量、いかでか要、易、会の所堪ならん?

はかりしりぬ、仏祖の大道をいまだ参究しきたらず、ということを。

仏法もし、かくのごとくならば、いかでか今日にいたらん?

応庵、なお、かくのごとし。

いま、現在せる諸山の長老のなかに、応庵のごとくなるものをもとめんに、歴劫にも、あうべからず。

まなこは、うげなんとすとも、応庵とひとしき長老をば、みるべからざるなり。

ちかくの人は、おおく、応庵をゆるす。

しかあれども、応庵に、仏法およべり、とゆるしがたし。

ただ叢席の晩進なり。

尋常なりというべし。

ゆえは、いかん?

応庵は、人をしりぬべき気力あるゆえなり。

いまあるともがらは、人をしるべからず。

みずからをしらざるゆえに。

応庵は、未達なりといえども、学道あり。

いまの長老、等は、学道あらず。

応庵は、よきことばをきくといえども、

みみに、いらず。

みみに、みず。

まなこに、いらず。

まなこに、きかざるのみなり。

応庵、そのかみは、恁麼なりとも、いまは、自悟在なるらん。

いまの大宋、諸山の長老、等は、応庵の内外をうかがわず、音容、すべて、境界にあらざるなり。

しかのごとくのともがら、仏祖の道取せる実相は、仏祖の道なり、仏祖の道にあらず、とも、しるべからず。

このゆえに、二、三百年来の長老、杜撰のともがら、すべて、不見道来、実相なり。


先師、天童古仏、ある夜間に方丈にして普説するに、いわく、

天童、今夜、有、牛児、黄面、瞿曇、拈、実相。

要、買、那、堪、無、定、価?

一声、杜宇、孤雲上。


かくのごとくあれば、尊宿の仏道に長ぜるは、実相をいう。

仏法をしらず、仏道の参学なきは、実相をいわざるなり。

この道取は、大宋、宝慶二年丙戌、春、三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓声、三下きこゆ。

坐具をとり、搭、袈裟して、雲堂の前門より、いづれば、入室牌、かかれり。

まず、衆にしたがうて法堂上にいたる。

法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。

寂光堂の西壁のまえをすぎて、大光明蔵の西階をのぼる。

大光明蔵は、方丈なり。

西の屏風の、みなみより、香台のほとりにいたりて焼香、礼拝す。

入室、このところに雁列すべし、とおもうに、一僧も、みえず。

妙高台は、下、簾せり。

ほのかに堂頭、大和尚の法音きこゆ。

ときに、西川の祖坤、維那きたりて、おなじく、焼香、礼拝しおわりて、妙高台をひそかに、のぞめば、満衆、たちかさなれり、東辺、西辺をいわず。

ときに、普説あり。

ひそかに衆のうしろに、いり、たちて聴取す。

大梅の法常禅師、住、山の因縁、挙せらる。

衣、荷、食、松のところに、衆家、おおく、なみだをながす。

霊山、釈迦牟尼仏の安居の因縁、くわしく挙せらる。

きくもの、なみだをながす、おおし。


天童山、安居、ちかきにあり。

如今、春間、不寒、不熱、好坐禅時節、也。

兄弟、如何、不坐禅?


かくのごとく普説して、いまの頌あり。

頌おわりて、右手にて禅椅のみぎのほとりをうつこと一下して、いわく、

入室すべし。


入室話に、いわく、

杜鵑、啼、山竹、裂。


かくのごとく入室語( or 入室話)あり、別の話なし。

衆家、おおしといえども、下語せず、ただ惶恐せるのみなり。

この入室の儀は、諸方に、いまだあらず。

ただ先師、天童古仏のみ、この儀を儀せり。

普説の時節は、椅子、屏風を周帀して、大衆、雲立せり。

そのままにて、雲立しながら、便宜の僧家より入室すれば、入室おわりぬる人は、例のごとく方丈門をいでぬ。

のこれる人は、ただ、もとのごとく、たてれば、入室する人の威儀進止、ならびに、堂頭、和尚の容儀、および、入室話、ともに、みな見聞するなり。

この儀、いまだ他那裏の諸方にあらず。

他長老は、儀、不得なるべし。

他時の入室には、人よりは、さきに入室せんとす。

この入室には、人よりも、のちに入室せんとす。

この人心道別、わすれざるべし。

それより、このかた、日本、寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年、すみやかに風、光のなかにすぎぬ。

天童より、このやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髄に銘じきたれり。

かのときの普説、入室は、衆家、おおく、わすれがたし、とおぼえり。

この夜は、微月、わずかに楼閣より、もりきたり、杜鵑、しきりになくといえども、静間の夜なりき。


玄沙院、宗一大師、参、次、聞、燕子、声、云、

深談、実相。

善説、法要。


下座。


尋後、有、僧、請益、曰、

某甲、不会。


師、云、

去。

無、人、信、汝。


いわゆる、深談、実相というは、燕子ひとり実相を深談する、と玄沙の道ききぬべし。

しかあれども、しかには、あらざるなり。

参、次に聞、燕子、声あり。

燕子の、実相を深談するにあらず。

玄沙の、実相を深談するにあらず。

両頭にわたらざれども、正当恁麼、すなわち、深談、実相なり。

しばらく、この一段の因縁を参究すべし。

参、次あり。

聞、燕子、声あり。

深談、実相。善説、法要。の道取あり。

下座あり。

尋後、有、僧、請益、曰、某甲、不会。あり。

師、云、去。無、人、信、汝。あり。

某甲、不会、かならずしも請益、実相なるべからざれども、これ、仏祖の命脈なり、正法眼蔵の骨髄なり。

しるべし。

この僧、たとえ請益して某甲、会得と道取すとも、某甲、説得と道取すとも、玄沙は、かならず、去。無、人、信、汝。と為、道すべきなり。

会せるを不会と請益するゆえに、去。無、人、信、汝。というには、あらざるなり。

まことに、この僧にあらざらん張三李四なりとも、諸法実相なりとも、仏祖の命脈の正直に通ずる時、所には、実相の参学、かくのごとく現成するなり。

青原の会下に、これ、すでに現成せり。

しるべし。

実相は、嫡嫡、相承の正脈なり。

諸法は、究尽、参究の唯仏与仏なり。

唯仏与仏は、如是相好なり。


正法眼蔵 諸法実相

爾時、寛元元年癸卯、九月日、在、于、日本、越州、吉峰寺、示、衆。

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