正法眼蔵 仏道

曹谿古仏、あるとき、衆にしめして、いわく、

慧能より七仏にいたるまで四十祖あり。


この道を参究するに、七仏より慧能にいたるまで四十仏なり。

仏仏、祖祖を算数するには、かくのごとく算数するなり。

かくのごとく算数すれば、七仏は七祖なり、三十三祖は三十三仏なり。

曹谿の宗旨、かくのごとし。

これ、正嫡の仏訓なり。

正伝の嫡嗣のみ、その算数の法を正伝す。

釈迦牟尼仏より曹谿にいたるまで三十四祖あり。

この仏祖、相承、ともに、迦葉の、如来にあいたてまつれりしがごとく、如来の、迦葉をえましますがごとし。

釈迦牟尼仏の、迦葉仏に参学しましますがごとく、師資、ともに、于、今、有在なり。

このゆえに、正法眼蔵、まのあたり、嫡嫡、相承しきたれり。

仏法の正命、ただ、この正伝のみなり。

仏法は、かくのごとく正伝するがゆえに、付属の嫡嫡なり。

しかあれば、仏道の功徳、要機、もらさず、そなわれり。

西天より東地につたわれて、十万八千里なり。

在世より今日につたわれて、二千余載。

この道理を参学せざるともがら、みだりに、あやまりて、いわく、仏祖、正伝の正法眼蔵、涅槃妙心、みだりに、これを禅宗と称す。

祖師を禅祖と称す。

学者を禅子と号す。あるいは、禅和子と称し、あるいは、禅家流の自称あり。

これ、みな、僻見を根本とせる枝葉なり。

西天、東地、従、古、至、今、いまだ禅宗の称あらざるを、みだりに自称するは、仏道をやぶる魔なり、仏祖のまねかざる怨家なり。


石門、林間録、云、

菩提達磨、初、自、梁之魏、経行、於、嵩山之下、倚杖、於、少林。

面壁、燕坐、而、已、非、習禅、也。

久、之、人、莫、測、其故。

因、以、達磨、為、習禅。

夫、禅那、諸行之一耳。

何、足、以、尽、聖人?

而、当時之人、以、之、為。

史者、又、従而、伝、於、習禅之列、使、与、枯木死灰之徒、為、伍。

雖然、聖人、非、止、於、禅那。而、亦、不違、禅那。

如、易、出、乎、陰陽。而、亦、不違、乎、陰陽。


第二十八祖と称するは、迦葉大士を初祖として称するなり。

毘婆尸仏よりは第三十五祖なり。

七仏、および、二十八代、かならずしも禅那をもって証、道をつくすべからず。

このゆえに、古先、いわく、

禅那は、諸行のひとつならくのみ。

なんぞ、もって、聖人をつくすにたらん?


この古先、いささか人をみきたれり、祖宗の堂奥にいれり。

このゆえに、この道あり。

近日は、大宋国の天下に難得なるべし。

ありがたかるべし。

たとえ禅那なりとも、禅宗と称すべからず。

いわんや、禅那、いまだ仏法の総要にあらず。

しかあるを、仏仏、正伝の大道を、ことさら禅宗と称するともがら、仏道は未夢見在なり、未夢聞在なり、未夢伝在なり。

禅宗を自号するともがらにも仏法あるらん、と聴許することなかれ。

禅宗の称、だれが称しきたる?

諸仏、祖師の、禅宗と称する、いまだあらず。

しるべし。

禅宗の称は、魔波旬の、称するなり。

魔波旬の称を称しきたらんは、魔党なるべし。

仏祖の児孫にあらず。


世尊、霊山、百万衆前、拈、優曇華、瞬目。

衆、皆、黙然。

唯、迦葉尊者、破顔、微笑。

世尊、云、

吾有、正法眼蔵、涅槃妙心、並、以、僧伽梨衣、付属、摩訶迦葉。


世尊の、迦葉大士に付属しまします、吾有、正法眼蔵、涅槃妙心なり。

このほか、さらに、吾有、禅宗、付属、摩訶迦葉にあらず。

並、付、僧伽梨衣といいて、並、付、禅宗といわず。

しかあれば、すなわち、世尊、在世に禅宗の称、まったく、きこえず。


初祖、そのとき、二祖にしめして、いわく、

諸仏、無上妙道、曠劫、精勤、難行、苦行、難忍、能忍。

豈、以、小徳、小智、軽心、慢心、欲、冀、真乗?


また、いわく、

諸仏、法印、匪、従、人、得。


また、いわく、

如来、以、正法眼蔵、付属、迦葉大士。


いま、しめすところ、諸仏、無上妙道、および、正法眼蔵、ならびに、諸仏、法印なり。

当時、すべて、禅宗と称することなし。

禅宗と称すべき因縁きこえず。

いま、この正法眼蔵は、揚眉瞬目して面授しきたる。

身心、骨髄をもって、さずけきたる。

身心、骨髄に稟受しきたるなり。

身先身後に伝授し稟受しきたり、心上心外に伝授し稟受するなり。

世尊、迦葉の会に、禅宗の称きこえず。

初祖、二祖の会に、禅宗の称きこえず。

五祖、六祖の会に、禅宗の称きこえず。

青原、南嶽の会に、禅宗の称きこえず。

いずれのときより、だれ人の、称しきたる、と、なし。

学者のなかに、学者のかずにあらずして、ひそかに壊、法、盗、法のともがら、称しきたるならん。

仏祖、いまだ聴許せざるを、晩学、みだりに称するは、仏祖の家門を損するならん。

また、仏仏、祖祖の法のほかに、さらに禅宗と称する法のあるに、にたり。

もし仏祖の道のほかにあらんは、外道の法なるべし。

すでに仏祖の児孫としては、仏祖の骨髄、面目を参学すべし。

仏祖の道に投ぜるなり。

這裏を逃逝して、外道を参学すべからず。

まれに人間の身心を保任せり。古来の弁道力なり。

この恩力をうけて、あやまりて外道を資せん、仏祖を報恩するにあらず。


大宋の近代、天下の庸流、この妄称、禅宗の名をききて、俗徒、おおく、禅宗と称し、達磨宗と称し、仏心宗と称する、妄称、きおい風聞して、仏道をみだらんとす。

これは、仏祖の大道、いまだかつてしらず、正法眼蔵ありとだにも見聞せず、信受せざるともがらの乱道なり。

正法眼蔵をしらん、だれが、仏道をあやまり称することあらん?

このゆえに、

南嶽山、石頭庵、無際大師、上堂、示、大衆、言、

吾之法門、先仏、伝受、不論、禅定、精進、唯、達、仏之知見。


しるべし。

七仏、諸仏より正伝ある仏祖、かくのごとく道取するなり。

ただ吾之法門、先仏、伝受と道、現成す。

吾之禅宗、先仏、伝受と道、現成なし。

禅定、精進の条条をわかず、仏之知見を唯、達せしむ。

精進、禅定をきらわず、唯、達せる仏之知見なり。

これを吾有、正法眼蔵、付属とせり。

吾之は、吾有なり。

法門は、正法なり。

吾之、吾有、吾髄は、汝、得の付属なり。

無際大師は、青原高祖の一子なり。

ひとり堂奥にいたれり。

曹谿古仏の剃髪の法子なり。

しかあれば、

曹谿古仏は、祖なり、父なり。

青原高祖は、兄なり、師なり。

仏道祖席の英雄は、ひとり、石頭庵、無際大師のみなり。

仏道の正伝、ただ無際のみ唯、達なり。

道、現成の果果条条、みな、古仏の不古なり、古仏の長今なり。

これを正法眼蔵の眼睛とすべし。

自余に比準すべからず。

しらざるもの、江西、大寂に比するは、非なり。

しかあれば、しるべし。

先仏、伝受の仏道は、なお、禅定といわず。

いわんや、禅定の称論ならんや?

あきらかに、しるべし。

禅宗と称するは、あやまりの、はなはだしきなり。

つたなきともがら、有宗、空宗のごとくならん、と思量して、宗の称なからんは所学なきがごとく、なげくなり。

仏道、かくのごとくなるべからず。

かつて禅宗と称せずと一定すべきなり。

しかあるに、近代の庸流、おろかにして古風をしらず。

先仏の伝受なきやから、あやまりて、いわく、仏法のなかに五宗の門風あり、という。

これ、自然の衰微なり。

これを拯済する一箇、半箇、いまだあらず。

先師、天童古仏、はじめて、これをあわれまんとす。

人の運なり。

法の達なり。


先師、古仏、上堂、示、衆、云、

如今、箇箇、祗管、道、雲門、法眼、潙仰、臨済、曹洞、等、家風、有、別、者、不是、仏法、也。不是、祖師道、也。


この道、現成は、千歳にあいがたし。

先師ひとり、道取す。

十方にききがたし。

円席ひとり、聞取す。

しかあれば、一千(人)の雲水のなかに、聞著する耳朶なし、見取する眼睛なし。

いわんや、心を挙して、きく、あらんや?

いわんや、身処に聞著する、あらんや?

たとえ自己の渾身心に聞著する、億、万劫にありとも、先師の通身心を挙拈して聞著し、証著し、信著し、脱落著する、なかりき。

あわれむべし。

大宋一国の十方、ともに、先師をもって諸方の長老、等に斉肩なり、とおもえり。

かくのごとく、おもう、ともがらを具、眼なりとやせん? 未、具、眼なりとやせん?

また、あるいは、先師をもって臨済、徳山に斉肩なり、とおもえり。

このともがらも、いまだ先師をみず、いまだ臨済にあわず、というべし。

先師、古仏を礼拝せざりしさきは、五宗の玄旨を参究せんと擬す。

先師、古仏を礼拝せしよりのちは、あきらかに五宗の乱称なるむねをしりぬ。

しかあれば、すなわち、大宋国の仏法、さかりなりしときは、五宗の称なし。

また、五宗の称を挙揚して、家風をきこゆる古人、いまだあらず。

仏法の澆薄より、このかた、みだりに五宗の称あるなり。

これ、人の、参学おろかにして、弁道を親切にせざるによりて、かくのごとし。

雲箇水箇、真箇の参究を求覓せんは、切忌すらくは、五家の乱称を記持することなかれ。

五家の門風を記号することなかれ。

いわんや、三玄、三要、四料簡、四照用、九帯、等あらんや?

いわんや、三句、五位、十同真智あらんや?

釈迦老師の道、しかのごとくの小量ならず。

しかのごとくを大量とせず。

道、現成せず。

少林、曹谿に、きこえず。

あわれむべし。

いま、末代の不聞法の禿子、等、その身心、眼睛、くらくして、いうところなり。

仏祖の児孫、種子、かくのごとくの言語なかれ。

仏祖の住持に、この狂言、かつて、きこゆることなし。

後来の阿師、等、かつて仏法の全道をきかず、祖道の全靠なく、本分にくらきともがら、わずかに一、両の少分に矜高して、かくのごとく宗称を立するなり。

立、宗称より、このかたの小児子、等は、本をたずぬべき道を学せざるによりて、いたずらに末にしたがうなり。

慕古の志気なく、混俗の操行あり。

俗、なお、世俗にしたがうことをいやしとして、いましむるなり。


文王、問、太公、曰、

君、務、挙、賢。

而、不獲、其功。

世乱、愈甚。

以、致、危亡、者、何、也?


太公、曰、

挙、賢、而、不用、是、以、有、挙賢之名、也、無得、賢之実、也。


文王、曰、

其失、安、在?


太公、曰、

其失、在、好、用、世俗之所誉。

不得、其真賢。


文王、曰、

好、用、世俗之所誉、者、何、也?


太公、曰、

好、聴、世俗之所誉、者、以、非賢、為、賢。

或、以、非智、為、智。

或、以、非忠、為、忠。

或、以、非信、為、信。

君、

以、世俗所誉者、為、賢智。

以、世俗之所毀者、為、不肖。

則、多党者、進。

少党者、退。

是以、群邪、比周、而、蔽、賢。

忠臣、死、於、無罪。

邪臣、虚誉、以、求、爵位。

是以、世乱、愈甚。

故、其国、不免、於、危亡。


俗、なお、その国、その道の危亡することをなげく。

仏法、仏道の危亡せん、仏子、かならず、なげくべし。

危亡のもといは、みだりに世俗にしたがうなり。

世俗に、ほむるところをきく時は、真賢をうることなし。

真賢をえんとおもわば、照後観前の智略あるべし。

世俗のほむるところ、いまだ、かならずしも賢にあらず、聖にあらず。

世俗のそしるところ、いまだ、かならずしも賢にあらず、聖にあらず。

しかありといえども、賢にして、そしりをまねく、と、偽にして、ほまれある、と、三察するところ、混ずべからず。

賢をもちいざらんは、国の損なり。

不肖をもちいんは、国のうらみなり。

いま、五宗の称を立するは、世俗の混乱なり。

この世俗にしたがうものは、おおしといえども、俗を俗としれる人、すくなし。

俗を化するを聖人とすべし。

俗にしたがうは、至愚なるべし。

この俗にしたがわんともがら、いかでか仏正法をしらん? いかにしてか仏となり祖とならん?

七仏、嫡嫡、相承しきたれり。

いかでか西天にある依文解義のともがら、律の、五部を立するがごとくならん?

しかあれば、しるべし。

仏法の正命を正命とせる祖師は、五宗の家門ある、と、かつて、いわざるなり。

仏道に五宗あり、と学するは、七仏の正嗣にあらず。


先師、示、衆、云、

近年、祖師道、廃、魔党、畜生、多。

頻頻、挙、五家、門風。

苦、哉。苦、哉。


しかあれば、はかりしりぬ。

西天二十八代、東地二十二祖、いまだ五宗の家門を開演せざるなり。

祖師とある祖師は、みな、かくのごとし。

五宗を立して、各各の宗旨あり、と称するは、誑惑世間人のともがら、少聞薄解のたぐいなり。

仏道におきて、各各の道を自立せば、仏道、いかでか今日にいたらん?

迦葉も自立すべし、阿難も自立すべし。

もし自立する道理を正道とせば、仏法、はやく、西天に、滅しなまし。

各各、自立せん宗旨、だれが、これに慕古せん?

各各、自立せん宗旨、だれが正邪を決択せん?

正邪、いまだ決択せずば、だれが、これを仏法なりとし、仏法にあらずとせん?

この道理あきらめずば、仏道と称しがたし。

五宗の称は、各各、祖師の現在に立せるにあらず。

五宗の祖師と称する祖師、すでに円寂ののち、あるいは、門下の庸流、まなこ、いまだ、あきらかならず、あし、いまだ、あゆまざるもの、父にとわず、祖に違して、立称しきたるなり。

そのむね、あきらかなり。

だれ人もしりぬべし。


大潙山、大円禅師は、百丈、大智の子なり。

百丈と同時に潙山に住す。

いまだ、仏法を潙仰宗と称すべし、といわず。

百丈も、なんじがときより潙山に住して潙仰宗と称すべし、と、いわず。

師と祖と称せず。

しるべし、妄称ということを。

たとえ宗号をほしきままにすというとも、あながちに仰山をもとむべからず。

自称すべくば、自称すべし。

自称すべからざるによりて、前来も自称せず、いまも自称なし。

曹谿宗といわず、南嶽宗といわず、江西宗といわず、百丈宗といわず。

潙山にいたりて、曹谿に、ことなるべからず。

曹谿よりも、すぐるべからず。

曹谿に、およぶべからず。

大潙の道取する一言、半句、かならずしも仰山と一条、拄杖、両人、舁せず。

宗の称を立せんとき、潙山宗というべし、大潙宗というべし、潙仰宗と称すべき道理いまだあらず。

潙仰宗と称すべくば、両位の尊宿の在世に称すべし。

在世に称すべからんを称せざらんは、なにの、さわりによりてか称せざらん?

すでに両位の在世に称せざるを父祖の道を違して潙仰宗と称するは、不孝の児孫なり。

これ、大潙禅師の本懐にあらず、仰山老人の素意にあらず。

正師の正伝なし。

邪党の邪称なること、あきらけし。

これを尽十方界に風聞することなかれ。


慧照大師は、講経の家門をなげすてて、黄檗の門人となれり。

黄檗の棒を喫すること、三番、あわせて六十、拄杖なり。

大愚のところに参じて省悟せり。

ちなみに、鎮州、臨済院に住せり。

黄檗のこころを究尽せずといえども相承の仏法を臨済宗となづくべし、という一句の道取なし、半句の道取なし。

竪、拳せず。

拈、払せず。

しかあるを、門人のなかの庸流、たちまちに父業をまもらず、仏法をまもらず、あやまりて臨済宗の称を立す。

慧照大師の、平生に、結搆せん。

なお曩祖の道に違せば、その称を立せんこと、予議あるべし。


いわんや、

臨済、将、示、滅、属、三聖慧然禅師、云、

吾遷化後、不得、滅却、吾正法眼蔵。

慧然、云、

爭、敢、滅却、和尚正法眼蔵。

臨済、云、

忽、有、人、問、汝、作麼生、対?

慧然、便、喝。

臨済、云、

誰、知、吾正法眼蔵、向、這瞎驢辺、滅却?


かくのごとく師資、道取するところなり。

臨済、

いまだ、吾禅宗を滅却することえざれ、と、いわず、

吾臨済宗を滅却することえざれ、と、いわず、

吾宗を滅却することえざれ、と、いわず、

ただ、吾正法眼蔵を滅却することえざれ、という。

あきらかに、しるべし、仏祖、正伝の大道を禅宗と称すべからず(、ということ)、臨済宗と称すべからず、ということを。

さらに禅宗と称すること、ゆめゆめ、あるべからず。

たとえ滅却は、正法眼蔵の理象なりとも、かくのごとく付属するなり。

向、這瞎驢辺、滅却、まことに、付属の誰、知? なり。

臨済門下には、ただ三聖のみなり。

法兄、法弟におよぼし、一列せしむべからず。

まさに、明窓下、安排なり。

臨済、三聖の因縁は、仏祖なり。

今日、臨済の付属は、昔日、霊山の付属なり。

しかあれば、臨済宗と称すべからざる道理、あきらけし。


雲門山、匡真大師、そのかみは陳尊宿に学す、黄檗の児孫なりぬべし、のちに雪峰に嗣す。

この師、また、正法眼蔵を雲門宗と称すべし、と、いわず。

門人、また、潙仰、臨済の妄称を妄称としらず、雲門宗の称を新立せり。

匡真大師の宗旨、もし立宗の称をこころざさば、仏法の身心なり、とゆるしがたからん。

いま、宗の称を称するときは、たとえば、帝者を匹夫と称せんがごとし。


清涼院、大法眼禅師は、地蔵院の嫡嗣なり。

玄沙院の法孫なり。

宗旨あり。

あやまりなし。

大法眼は、署する師号なり。

これを正法眼蔵の号として法眼宗の称を立すべし、といえることを千言のなかに一言なし、万句のうちに一句なし。

しかあるを、門人、また、法眼宗の称を立す。

法眼、もし、いまを化せば、いまの妄称、法眼宗の道をけずるべし。

法眼禅師、すでに、ゆきて、この患をすくう人なし。

たとえ千、万年ののちなりとも、法眼禅師に孝せん人は、この法眼宗の称を称とすることなかれ。

これ、本、孝、大法眼禅師なり。


おおよそ、雲門、法眼、等は、青原高祖の遠孫なり。

道骨つたわれ、法髄つたわれり。


高祖、悟本大師は、雲巌に嗣法す。

雲巌は、薬山大師の正嫡なり。

薬山は、石頭大師の正嫡なり。

石頭大師は、青原高祖の一子なり。

斉肩の二、三あらず。

道業、ひとり正伝せり。

仏道の正命、なお、東地にのこれるは、石頭大師、もらさず正伝せりし、ちからなり。

青原高祖は、曹谿古仏の同時に、曹谿の化儀を青原に化儀せり。

在世に出世せしめて、出世を一世に見聞するは、正嫡のうえの正嫡なるべし、高祖のなかの高祖なるべし。

雄、参学、雌、出世にあらず。

そのときの斉肩、いま、抜群なり。

学者、ことに、しるべきところなり。

曹谿古仏、ちなみに、現、般涅槃をもって人、天を化せし席末に、石頭、すすみて、所依の師を請す。

古仏、ちなみに、尋、思、去としめして尋、譲、去といわず。

しかあれば、すなわち、古仏の正法眼蔵、ひとり青原高祖の正伝なり。

たとえ同、得道の神足をゆるすとも、高祖は、なお、正、神足の独歩なり。

曹谿古仏、すでに青原を、わが子を子ならしむ。

子の父の、父の、父とある、得髄、あきらかなり。

祖宗の正嗣なること、あきらかなり。

洞山大師、まさに、青原、四世の嫡嗣として、正法眼蔵を正伝し、涅槃妙心、開眼す。

このほか、さらに別伝なし、別宗なし。

大師、かつて、曹洞宗と称すべし、と示衆する拳頭なし、瞬目なし。

また、門人のなかに庸流、まじわらざれば、洞山宗と称する門人なし。

いわんや、曹洞宗といわんや?

曹洞宗の称は、曹山を称し、くわうるならん。

もし、しかあらば、雲居、同安をも、くわえ、のすべきなり。

雲居は、人中、天上の導師なり、曹山よりも尊、崇なり。

はかり、しりぬ。

この曹洞の称は、傍輩の臭皮袋、おのれに斉肩ならんとて、曹洞宗の称を称するなり。

まことに、白日、あきらかなれども、浮雲、しもをおおうがごとし。


先師、いわく、

いま、諸方、獅子の座にのぼるもの、おおし、人、天の師とあるもの、おおしといえども、知得仏法道理箇、渾無。


このゆえに、きおうて五宗の宗を立し、あやまりて言句の句にとどこおれるは、真箇に仏祖の怨家なり。

あるいは、黄龍の南禅師の一派を称して黄龍宗と称しきたれりといえども、その派、とおからず、あやまりをしるべし。

おおよそ、世尊、在世、かつて、仏宗と称しましまさず。

霊山宗と称せず。

祇園宗といわず。

我心宗といわず。

仏心宗といわず。

いずれの仏語にか、仏宗と称する?

いまのひと、なにをもってか、仏心宗と称する?

世尊、なにのゆえにか、あながちに心を宗と称せん?

宗、なにによりてか、かならずしも心ならん?

もし仏心宗あらば、

仏身宗あるべし。

仏眼宗あるべし。

仏耳宗あるべし。

仏鼻舌、等、宗あるべし。

仏髄宗、仏骨宗、仏脚宗、仏国宗、等あるべし。

いま、これ、なし。

しるべし、仏心宗の称は偽称なりということ。

釈迦牟尼仏、ひろく十方仏土中の諸法実相を挙拈し、十方仏土中をとくとき、十方仏土のなかに、いずれの宗を建立せり、と、とかず。

宗の称、もし仏祖の法ならば、仏国にあるべし。

仏国にあらば、仏、説すべし。

仏、不説なり。

しりぬ。

仏国の調度にあらず。

祖、道せず。

しりぬ、祖域の家具にあらずということを。

ただ人に、わらわるるのみにあらざらん。

諸仏のために制禁せられん。

また、自己のために、わらわれん。

つつしんで、宗称することなかれ。

仏法に五家あり、ということなかれ。


後来、智聡という小児子ありて、祖師の一道、両道をひろいあつめて、五家の宗派といい、人天眼目となづく。

人、これをわきまえず、初心、晩学のやから、まこととおもいて、衣領にかくしもてるも、あり。

人天眼目にあらず、人、天の眼目をくらますなり。

いかでか瞎却、正法眼蔵の功徳あらん?

かの人天眼目は、智聡上座、淳煕戊申、十二月のころ、天台山、万年寺にして編集せり。

後来の所作なりとも、道、是あらば、聴許すべし。

これは狂乱なり、愚暗なり、参学眼なし、行脚眼なし。

いわんや、見仏祖眼あらんや?

もちいるべからず。

智聡というべからず、愚蒙というべし。

その人をしらず、人にあわざるが、言句をあつめて、その人とある人の言句をひろわず。

しりぬ、人をしらずということを。


震旦国の教学のともがら、宗称するは、斉肩の彼彼あるによりてなり。

いま、仏祖、正法眼蔵の付属、嫡嫡せり。

斉肩あるべからず。

混ずべき彼彼なし。

かくのごとくなるに、いまの杜撰の長老、等、みだりに宗の称をもっぱらする自専のくわだて、仏道をおそれず。

仏道は、なんじが仏道にあらず。

諸仏祖の仏道なり。

仏道の仏道なり。


太公、謂、文王、曰、

天下、者、非、一人之天下。天下之天下、也。


しかあれば、俗士、なお、これ、智あり、この道あり。

仏祖屋裏児、みだりに仏祖の大道をほしきままに愚蒙にしたがえて、立、宗の自称することなかれ。

おおきなる、おかしなり。

仏道人にあらず。

宗称すべくば、世尊、みずから称しましますべし。

世尊、すでに自称しましまさず。

児孫として、なにゆえか、滅後に称すること、あらん?

だれ人が、世尊よりも、善巧ならん?

善巧あらずば、その益なからん。

もし、また、仏祖、古来の道に違背して、自宗を自立せば、だれが、なんじが宗を宗とする仏児孫あらん?

照古観今の参学すべし。

みだりなることなかれ。

世尊、在世に、一毫も、たがわざらんとする、なお百、千、万分の一分におよばざることをうれえ、およべるをよろこび、違せざらんとねがうを、遺弟の畜念とせるのみなり。

これをもって、多生の値遇、奉覲をちぎるべし。

これをもって、多生の見仏聞法をねがうべし。

ことさら、世尊、在世の化儀にそむきて宗の称を立せん、如来の弟子にあらず、祖師の児孫にあらず。

重逆よりも、おもし。

たちまちに如来の無上菩提をおもくせず、自宗を自専する、前来を軽忽し、前来をそむくなり。

前来もしらずというべし。

世尊、在日の功徳を信ぜざるなり。

かれらが屋裏に仏法あるべからず。

しかあれば、すなわち、学仏の道業を正伝せんには、宗の称を見聞すべからず。

仏仏、祖祖、付属し正伝するは、正法眼蔵、無上菩提なり。

仏仏、所有の法は、みな、仏、付属しきたれり。

さらに剰法の、あらたなる、あらず。

この道理、すなわち、法骨道髄なり。


正法眼蔵 仏道

爾時、寛元元年癸卯、九月十六日、在、越州、吉田県、吉峰寺、示、衆。

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