正法眼蔵 坐禅箴

薬山、弘道大師、坐次、有、僧、問、

兀兀地、思量、什麼?

師、云、

思量、箇不思量底。

僧、曰、

不思量底、如何、思量?

師、云、

非思量。


大師の道、かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし。

兀坐、正伝すべし。

兀坐の仏道につたわれる参究なり。

兀兀地の思量、ひとりにあらずといえども、薬山の道は其一なり。

いわゆる、思量、箇不思量底なり。

思量の皮肉骨髄なるあり。

不思量の皮肉骨髄なるあり。

僧のいう、不思量底、如何、思量?

まことに、不思量底、たとえ、ふるくとも、さらに、これ、如何、思量? なり。

兀兀地に思量なからんや?

兀兀地の向上、なにによりてか、通ぜざる?

賤近の愚にあらずば、兀兀地を問著する力量あるべし。

思量あるべし。

大師、いわく、非思量。

いわゆる、非思量を使用すること玲瓏なりといえども、不思量底を思量するには、かならず、非思量をもちいるなり。

非思量に、だれ、あり?

だれ、我を保任す?

兀兀地、たとえ我なりとも、思量のみにあらず、兀兀地を挙頭するなり。

兀兀地、たとえ兀兀地なりとも、兀兀地、いかでか、兀地を思量せん?

しかあれば、すなわち、兀兀地は、

仏量にあらず。

法量にあらず。

悟量にあらず。

会量にあらざるなり。

薬山、かくのごとく単伝すること、すでに、釈迦牟尼仏より直下、三十六代なり。

薬山より向上をたずぬるに、三十六代に釈迦牟尼仏あり。

かくのごとく正伝せる、すでに、思量、箇不思量底、あり。


しかあるに、近年、おろかなる杜撰、いわく、

功夫、坐禅、得、胸襟、無事、了。

便是、平穏地、也。


この見解、なお小乗の学者におよばず、人、天乗よりも、劣なり。

いかでか、学仏法の漢といわん?

見在、大宋国に恁麼の功夫人、おおし。

祖道の荒蕪、かなしむべし。

又、一類の漢あり、坐禅、弁道は、これ、初心、晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず、行、亦、禅。坐、亦、禅。語、黙。動、静。体、安然。なり。

ただいまの功夫のみにかかわることなかれ。

臨済の余流と称するともがら、おおく、この見解なり。

仏法の正命つたわれること、おろそかなるによりて、恁麼、道するなり。


なにか、これ、初心?

いずれが初心にあらざる?

初心、いずれのところにか、おく?


しるべし。

学道の、さだまれる参究には、坐禅、弁道するなり。

その榜様の宗旨は、作仏をもとめざる行仏あり。

行仏、さらに、作仏にあらざるがゆえに、公案、見成なり。

身仏、さらに、作仏にあらず。

羅籠を打破すれば、坐仏、さらに、作仏をさえず。

正当恁麼のとき、千古万古、ともに、もとより、仏にいり、魔にいる、ちからあり。

進歩、退歩、したしく溝にみち、壑にみつ量あるなり。


江西、大寂禅師、ちなみに、南嶽、大慧禅師に参学するに、密受、心印より、このかた、つねに坐禅す。

南嶽、あるとき、大寂のところにゆきて、とう、

大徳、

坐禅、図、箇、什麼?


この問、しずかに功夫、参究すべし。

そのゆえは、

坐禅より向上にあるべき図のあるか?

坐禅より格外に図すべき道の、いまだしきか?

すべて図すべからざるか?

当時、坐禅せるに、いかなる図か現成する? と問著するか?

審細に功夫すべし。

彫龍を愛するより、すすみて、真龍を愛すべし。

彫龍、真龍、ともに、雲、雨の能あること学習すべし。

遠を貴することなかれ。遠を賤することなかれ。遠に慣熟なるべし。

近を賤することなかれ。近を貴することなかれ。近に慣熟なるべし。

目をかろくすることなかれ。目をおもくすることなかれ。

耳をおもくすることなかれ。耳をかろくすることなかれ。

耳、目をして聡明ならしむべし。


江西、いわく、図、作仏。


この道、あきらめ、達すべし。

作仏と道取するは、いかに、あるべきぞ?

仏に作仏せらるるを、作仏と道取するか?

仏を作仏するを、作仏と道取するか?

仏の一面出、両面出するを、作仏と道取するか?

図、作仏は脱落にして、脱落なる図、作仏か?

作仏、たとえ万般なりとも、この図に葛藤しもってゆくを、図、作仏と道取するか?

しるべし。

大寂の道は、坐禅、かならず、図、作仏なり、坐禅、かならず、作仏の図なり。

図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。

且問すらくは、この一図、いくそばくの作仏を葛藤す、とかせん?

この葛藤、さらに葛藤をまつうべし。

このとき、尽作仏の条条なる葛藤、かならず、尽作仏の端的なる、みな、ともに、条条の図なり。

一図を回避すべからず。

一図を回避するときは、喪身失命するなり。

喪身失命するとき、一図の葛藤なり。


南嶽、ときに、一瓦をとりて、石上にあてて、とぐ。

大寂、ついに、とうに、いわく、師、作、什麼?


まことに、

だれが、これを磨、瓦とみざらん?

だれが、これを磨、瓦とみん?

しかあれども、磨、瓦は、かくのごとく、作、什麼? と問せられきたるなり。

作、什麼? なるは、かならず、磨、瓦なり。

此土、他界、ことなりといえども、磨、瓦、いまだ、やまざる宗旨あるべし。

自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に、参学すべき宗旨あることを一定するなり。

しるべし。

仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、

水をみるをも、しらず、

山をみるをも、しらざるなり。

眼前の法、さらに通路あるべからず、と倉卒なるは、仏学にあらざるなり。


南嶽、いわく、磨、作、鏡。


この道旨、あきらむべし。

磨、作、鏡は、道理、かならず、あり。

見成の公案あり。虚設なるべからず。

瓦は、たとえ瓦なりとも、鏡は、たとえ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。

古鏡も、明鏡も、磨、瓦より作鏡をうるなるべし。

もし諸鏡は、磨、瓦より、きたるとしらざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず。


大寂、いわく、磨、瓦、豈、得、成、鏡、耶?


まことに、磨、瓦の鉄漢なる、他の力量をからざれども、磨、瓦は、成、鏡にあらず。

成、鏡、たとえ聻なりとも、すみやかなるべし。


南嶽、いわく、坐禅、豈、得、作仏、耶?


あきらかに、しりぬ。

坐禅の、作仏をまつにあらざる道理あり。

作仏の、坐禅にかかわれざる宗旨かくれず。


大寂、いわく、如何、即、是?


いまの道取、ひとすじに這頭の問著に相似せりといえども、那頭の是をも問著するなり。

たとえば、親友の、親友に相見する時節をしるべし。

われに親友なるは、かれに親友なり。

如何、即、是、すなわち、一時の出現なり。


南嶽、いわく、如、人、駕、車、車、若、不行、打、車、即、是? 打、牛、即、是?


しばらく、車、若、不行というは、

いかならんか、これ、車、行?

いかならんか、これ、車、不行?

たとえば、

水、流は、車、行なるか?

水、不流は、車、行なるか?

流は、水の不行というつべし。

水の行は、流にあらざるもあるべきなり。

しかあれば、車、若、不行の道を参究せんには、不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし。時なるべきがゆえに。

若、不行の道、ひとえに不行と道取せるにあらず。

打、車、即、是? 打、牛、即、是? という。

打、車もあり、打、牛もあるべきか?

打、車と打、牛と、ひとしかるべきか? ひとしからざるべきか?

世間に打、車の法なし、凡夫に打、車の法なくとも、仏道に打、車の法あることをしりぬ、参学の眼目なり。

たとえ打、車の法あることを学すとも、打、牛と一等なるべからず。

審細に功夫すべし。

打、牛の法、たとえ、よのつねにありとも、仏道の打、牛は、さらに、たずね、参学すべし。

水牯牛を打、牛するか?

鉄牛を打、牛するか?

泥牛を打、牛するか?

鞭、打なるべきか?

尽界、打なるべきか?

尽心、打なるべきか?

打、併、髄なるべきか?

拳頭、打なるべきか?

拳、打、拳あるべし。

牛、打、牛あるべし。


大寂、無対なる。


いたずらに蹉過すべからず。

抛、瓦、引、玉あり。

回頭、換面あり。

この無対、さらに攙奪すべからず。


南嶽、また、しめして、いわく、汝、学、坐禅、為、学、坐仏。


この道取を参究して、まさに祖宗の要機を弁取すべし。

いわゆる、学、坐禅の端的、いかなり? としらざるに、学、坐仏としりぬ。

正嫡の児孫にあらずよりは、いかでか、学、坐禅の、学、坐仏なる、と道取せん?

まことに、しるべし。

初心の坐禅は、最初の坐禅なり。

最初の坐禅は、最初の坐仏なり。


坐禅を道取するに、いわく、若、学、坐禅、禅、非、坐臥。


いまいうところは、坐禅は、坐禅なり、坐臥にあらず。

坐臥にあらずと単伝するより、このかた、無限の坐臥は自己なり。

なんぞ、親、疎の命脈をたずねん?

いかでか、迷、悟を論ぜん?

だれが智断をもとめん?


南嶽、いわく、若、学、坐仏、仏、非、定相。


いわゆる、道取を道取せんには恁麼なり。

坐仏の一仏、二仏のごとくなるは、非定相を荘厳とせるによりてなり。

いま、仏、非、定相と道取するは、仏相を道取するなり。

非定相仏なるがゆえに、坐仏、さらに回避しがたきなり。

しかあれば、すなわち、仏、非、定相の、荘厳なるゆえに、若、学、坐禅、すなわち、坐仏なり。

だれが、無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん?

取捨、さきより脱落せるによりて、坐仏なるなり。


南嶽、いわく、汝、若、坐仏、即是、殺仏。

いわゆる、さらに坐仏を参究するに、殺仏の功徳あり。

坐仏の正当恁麼時は、殺仏なり。

殺仏の相好光明は、たずねんとするに、かならず、坐仏なるべし。

殺の言、たとえ凡夫のごとくにひとしくとも、ひとえに凡夫と同ずべからず。

また、坐仏の、殺仏なるは、有、什麼、形段? と参究すべし。

仏功徳、すでに殺仏あるを拈挙して、われらが殺人、未殺人をも参学すべし。


若、執、坐相、非、達、其理。


いわゆる、執、坐相とは、坐相を捨し、坐相を触するなり。

この道理は、すでに坐仏するには、不執、坐相なること、えざるなり。

不執、坐相なること、えざるがゆえに、執、坐相は、たとえ玲瓏なりとも、非、達、其理なるべし。

恁麼の功夫を脱落、身心という。

いまだ、かつて、坐せざるものに、この道のあるにあらず。

打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり。

ただ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。

人坐の、おのずから坐仏、仏坐に相似なりといえども、人、作仏あり、作仏人あるがごとし。

作仏人ありといえども、一切人は作仏にあらず。

ほとけは、一切人にあらず。

一切仏は、一切人のみにあらざるがゆえに、人、かならず仏にあらず。

仏、かならず、人にあらず。

坐仏も、かくのごとし。


南嶽、江西の師勝資強、かくのごとし。

坐仏の、作仏を証する、江西、これなり。

作仏のために坐仏をしめす、南嶽、これなり。

南嶽の会に恁麼の功夫あり。


薬山の会に向来の道取あり。


しるべし、仏仏、祖祖、要機とせるは、これ、坐仏なり、ということを。

すでに仏仏、祖祖とあるは、この要機を使用せり。

いまだしきは、夢也未見在なるのみなり。

おおよそ、西天、東地に仏法つたわるというは、かならず、坐仏のつたわるなり。

それ、要機なるによりてなり。

仏法、つたわれざるには、坐禅、つたわれず。

嫡嫡、相承せるは、この坐禅の宗旨のみなり。

この宗旨、いまだ単伝せざるは、仏祖にあらざるなり。

この一法、あきらめざれば、万法、あきらめざるなり、万行、あきらめざるなり。

法法、あきらめざらんは、明眼というべからず、得道にあらず、いかでか仏祖の今古ならん?

ここをもって、仏祖、かならず坐禅を単伝する、と一定すべし。

仏祖の光明に照臨せらるというは、この坐禅を功夫、参究するなり。

おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、日、月の光明のごとく、珠、火の光耀のごとくあらんずる、とおもう。

日、月、光耀は、わずかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。

仏光明というは、一句を受持、聴聞し、一法を保任、護持し、坐禅を単伝するなり。

光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。

しかあれば、すなわち、古来なりといえども、坐禅を坐禅なり、としれる、すくなし。

いま、現在、大宋国の諸山に甲刹の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざる、おおし。

あきらめ、しれる、ありといえども、すくなし。

諸寺に、もとより坐禅の時節、さだまれり。

住持より諸僧、ともに、坐禅するを本分の事とせり。

学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。

しかあれども、しれる住持人は、まれなり。

このゆえに、

古来より近代にいたるまで、

坐禅銘を記せる老宿、一、両位あり、

坐禅儀を撰せる老宿、一、両位あり、

坐禅箴を記せる老宿、一、両位あるなかに、

坐禅銘、ともにとるべきところなし。

坐禅儀、いまだ、その行履にくらし。

坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。

景徳伝灯録にある坐禅箴、および、嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘、等なり。

あわれむべし、

十方の叢林に経歴して一生をすごすといえども、一坐の功夫あらざることを。

打坐、すでに、なんじにあらず、功夫、さらに、おのれと相見せざることを。

これ、坐禅の、おのが身心をきらうにあらず。

真箇の功夫をこころざさず、倉卒に迷、酔せるによりてなり。

かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたずらに息慮凝寂の経営なり。

観練薫修の階級におよばず。

十地等覚の見解におよばず。

いかでか、仏仏、祖祖の坐禅を単伝せん?

宋朝の録者、あやまりて録せるなり。

晩学、すてて、みるべからず。

坐禅箴は、大宋国、慶元府、太白名山、天童、景徳寺、宏智禅師、正覚和尚の撰せるのみ、

仏祖なり。

坐禅箴なり。

道得、是なり。

ひとり法界の表裏に光明なり。

古今の仏祖に仏祖なり。

前仏、後仏、この箴に箴せられもってゆき、

今祖、古祖、この箴より現成するなり。

かの坐禅箴は、すなわち、これなり。


坐禅箴 勅謚、宏智禅師、正覚、撰。


仏仏、要機、祖祖、機要、

不触、事、而、知。

不対、縁、而、照。

不触、事、而、知。其知、自、微。

不対、縁、而、照。其照、自、妙。

其知、自、微、曾、無、分別之思。

其照、自、妙、曾、無、毫忽之兆。

曾、無、分別之思。其知、無偶、而、奇。

曾、無、毫忽之兆。其照、無取、而、了。

水、清、徹底、兮、魚、行、遅遅。

空、闊、莫、涯、兮、鳥、飛、杳杳。


いわゆる、坐禅箴の箴は、

大用、現前なり。

声色、向上の威儀なり。

父母未生前の節目なり。

莫、謗、仏祖、好なり。

未免、喪身失命なり。

頭長、三尺、頸短、二寸なり。


仏仏、要機。

仏仏は、かならず、仏仏を要機とせる。

その要機、現成せり、これ、坐禅なり。


祖祖、機要。

先師、無、此語なり。

この道理、これ、祖祖なり。

法伝、衣伝あり。


おおよそ、

回頭、換面の面面、これ、仏仏の要機なり。

換面、回頭の頭頭、これ、祖祖の機要なり。


不触、事、而、知。

知は、覚知にあらず。

覚知は、小量なり。

了知の知にあらず。

了知は、造作なり。

かるがゆえに、

知は、不触、事なり。

不触、事は、知なり。

遍知と度量すべからず。

自知と局量すべからず。

その不触、事というは、

明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打なり。

坐、破、嬢、生、皮なり。


不対、縁、而、照。

この照は、照了の照にあらず、霊照にあらず。

不対、縁を照とす。

照の、縁と化せざるあり。

縁、これ、照なるがゆえに。

不対というは、

遍界、不曾蔵なり。

破界、不出頭なり。

微なり。

妙なり。

回互、不回互なり。


其知、自、微、曾、無、分別之思。

思の、知なる、かならずしも、他力をからず。

其知は、形なり。

形は、山河なり。

この山河は、微なり。

この微は、妙なり。

使用するに、活鱍々なり。

龍を作するに、禹門の内外にかかわれず。

いまの一知、わずかに使用するは、尽界、山河を拈来し尽力して、知するなり。

山河の親切に、わが知なくば、一知、半解、あるべからず。

分別思量の、おそく来到する、となげくべからず。

已、曾、分別なる仏仏、すでに現成しきたれり。

曾、無は、已、曾なり。

已、曾は、現成なり。

しかあれば、すなわち、曾、無、分別は、不逢、一人なり。


其照、自、妙、曾、無、毫忽之兆。

毫忽というは、尽界なり。

しかあるに、自、妙なり、自、照なり。

このゆえに、いまだ将来せざるがごとし。

目をあやしむことなかれ。

耳を信ずべからず。

直、須、旨外、明、宗、莫、向、言中、取、則なるは、照なり。

このゆえに、無偶なり。

このゆえに、無取なり。

これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我、却、疑著なり。


水、清、徹底、兮、魚、行、遅遅。

水、清というは、空にかかれる水は清水に不徹底なり。

いわんや、器界に泓澄する、水、清の水にあらず。

辺際に涯、岸なき、これを徹底の清水とす。

魚、もし、この水をゆくは、行なきにあらず。

行は、いく万程となくすすむといえども、不測なり、不窮なり。

はかる岸なし、うかぶ空なし、しずむそこなきがゆえに、測度する、だれ、なし。

測度を論ぜんとすれば、徹底の清水のみなり。

坐禅の功徳、かの魚、行のごとし。

千程、万程、だれが、卜度せん?

徹底の行程は、挙体の不行、鳥道なり。


空、闊、莫、涯、兮、鳥、飛、杳杳。

空、闊というは、天にかかれるにあらず。

天にかかれる空は闊、空にあらず。

いわんや、彼此に普遍なるは闊、空にあらず。

隠、顕に表裏なき、これを闊、空という。

鳥、もし、この空をとぶは、飛空の一法なり。

飛空の行履、はかるべきにあらず。

飛空は尽界なり。

尽界、飛空なるがゆえに。

この飛、いくそばくということしらずといえども、卜度のほかの道取を道取するに、杳杳と道取するなり。

直、須、足下、無糸、去なり。

空の、飛去するとき、鳥も飛去するなり。

鳥の、飛去するに、空も飛去するなり。

飛去を参究する道取に、いわく、只、在、這裏なり。

これ、兀兀地の箴なり。

いく万程か、只、在、這裏をきおい、いう?


宏智禅師の坐禅箴、かくのごとし。

諸代の老宿のなかに、いまだ、いまのごとくの坐禅箴あらず。

諸方の臭皮袋、もし、この坐禅箴のごとく道取せしめんに、一生、二生のちからをつくすとも、道取せんこと、うべからざるなり。

いま、諸方にみえず。

ひとり、この箴のみ、あるなり。

先師、上堂の時、よのつねに、いわく、宏智、古仏なり。

自余の漢を恁麼いうこと、すべてなかりき。

知、人の眼目あらんとき、仏祖をも知、音すべきなり。

まことに、しりぬ、洞山に仏祖あることを。

いま、宏智禅師よりのち八十余年なり。

かの坐禅箴をみて、この坐禅箴を撰す。

いま、仁治三年壬寅、三月十八日なり。

今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算数するに、わずかに八十五年なり。

いま、撰する坐禅箴、これなり。


坐禅箴。


仏仏、要機、祖祖、機要、

不思量、而、現。

不回互、而、成。

不思量、而、現。其現、自、親。

不回互、而、成。其成、自、証。

其現、自、親、曾、無、染汚。

其成、自、証、曾、無、正、偏。

曾、無、染汚之親。其親、無委、而、脱落。

曾、無、正、偏之証。其証、無図、而、功夫。

水、清、徹、地、兮、魚、行、似、魚。

空、闊、透、天、兮、鳥、飛、如、鳥。


宏智禅師の坐禅箴、それ、道、未、是にあらざれども、さらに、かくのごとく道取すべきなり。

おおよそ、仏祖の児孫、かならず、坐禅を一大事なりと参学すべし。

これ単伝の正、印なり。


正法眼蔵 坐禅箴

仁治三年壬寅、三月十八日、記、興聖宝林寺。

同、四年癸卯、仁、冬、十一月、在、越州、吉田県、吉峰精舎、示、衆。

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