正法眼蔵 仏教
諸仏の道、現成、これ、仏教なり。
これ、仏祖の、仏祖のためにするゆえに、教の、教のために正伝するなり。
これ、転法輪なり。
この法輪の眼睛裏に、諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖を般涅槃せしむ。
その諸仏祖、かならず、
一塵の出現あり、一塵の涅槃あり、
尽界の出現あり、尽界の涅槃あり、
一須臾の出現あり、
多劫海の出現あり。
しかあれども、
一塵、一須臾の出現、さらに不具足の功徳なし。
尽界、多劫海の出現、さらに補虧闕の経営にあらず。
このゆえに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ、功徳かけたり、といわず。
もし、一日は功徳すくなし、といわば、人間の八十年、ひさしきにあらず。
人間の八十年をもって十劫、二十劫に比せんとき、一日と八十年とのごとくならん。
此仏彼仏の功徳、わきまえがたからん。
長劫寿量の所有の功徳と、八十年の功徳とを挙して比量せんとき、疑著するにもおよばざらん。
このゆえに、仏教は、すなわち、教、仏なり、仏祖、究尽の功徳なり。
諸仏は高、広にして、法教は狭、少なるにあらず。
まさに、しるべし。
仏、大なれば、教、大なり。
仏、小なれば、教、小なり。
このゆえに、しるべし。
仏、および、教は、大小の量にあらず、善、悪、無記、等の性にあらず、自教、教他のためにあらず。
ある漢、いわく、
釈迦、老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに、上乗、一心の法を摩訶迦葉に正伝す。
嫡嫡、相承しきたれり。
しかあれば、教は赴機の戯論なり。
心は理性の真実なり。
この正伝せる一心を教外別伝という。
三乗十二分教の所談に、ひとしかるべきにあらず。
一心、上乗なるゆえに、直指、人心、見性、成仏なりという。
この道取、いまだ仏法の家業にあらず。
出身の活路なし、通身の威儀、あらず。
かくのごとくの漢、たとえ数百、千年のさきに、先達、と称すとも、恁麼の説話あらば、仏法、仏道はあきらめず、通ぜざりける、としるべし。
ゆえは、いかん?
仏をしらず、
教をしらず、
心をしらず、
内をしらず、外をしらざるがゆえに。
その、しらざる道理は、かつて仏法をきかざるによりてなり。
いま、諸仏という本末、いかなる? としらず。
去来の辺際、すべて学せざれば、仏弟子と称するにたらず。
ただ一心を正伝して、仏教を正伝せず、というは、仏法をしらざるなり。
仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず。
一心のほかに仏教あり、という、なんじが一心、いまだ一心ならず。
仏教のほかに一心あり、という、なんじが仏教、いまだ仏教ならざらん。
たとえ教外別伝の謬説を相伝すというとも、なんじ、いまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。
仏正法眼蔵を単伝する仏祖、いかでか、仏教を単伝せざらん?
いわんや、釈迦、老漢、なにとしてか、仏家の家業にあるべからざらん教法を施設することあらん?
釈迦、老漢、すでに単伝の教法をあらしめん。
いずれの仏祖か、なからしめん?
このゆえに、上乗、一心というは、三乗十二分教、これなり、大蔵、小蔵、これなり。
しるべし。
仏心というは、仏の、眼睛なり、破木杓なり、諸法なり、三界なるがゆえに、山海、国土、日月星辰なり。
仏教というは、万像森羅なり。
外というは、這裏なり、這裏来なり。
正伝は、自己より自己に正伝するがゆえに、正伝のなかに自己あるなり。
一心より一心に正伝するなり、正伝に一心あるべし。
上乗、一心は、土石、砂礫なり。
土石、砂礫は一心なるがゆえに、土石、砂礫は土石、砂礫なり。
もし上乗、一心の正伝といわば、かくのごとくあるべし。
しかあれども、教外別伝を道取する漢、いまだ、この意旨をしらず。
かるがゆえに、教外別伝の謬説を信じて、仏教をあやまることなかれ。
もし、なんじがいうがごとくならば、教をば心外別伝というべきか?
(
もし心外別伝といわば、一句、半偈、つたわるべからざるなり。
もし心外別伝といわずば、教外別伝というべからざるなり。
)
摩訶迦葉、すでに釈尊の嫡子として法蔵の教主たり。
正法眼蔵を正伝して仏道の住持なり。
しかありとも、仏教は正伝すべからず、というは、学道の偏局なるべし。
しるべし。
一句を正伝すれば、一法の正伝せらるるなり。
一句を正伝すれば、山伝水伝あり。
不能、離却、這裏(伝)なり。
釈尊の正法眼蔵、無上菩提は、ただ摩訶迦葉に正伝せしなり。
余子に正伝せず。
正伝は、かならず、摩訶迦葉なり。
このゆえに、古今に仏法の真実を学する箇箇、ともに、みな、従来の教学を決択するには、かならず、仏祖に参究するなり。
決を余輩にとぶらわず。
もし仏祖の正決をえざるは、いまだ正決にあらず。
依教の正、不を決せんとおもわんは、仏祖に決すべきなり。
そのゆえは、尽法輪の本主は仏祖なるがゆえに。
道有、道無、道空、道色、ただ仏祖のみ、これをあきらめ、正伝しきたりて、古仏今仏なり。
巴陵、因、僧、問、
祖意、教意、是、同? 是、別?
師、云、
鶏、寒、上、樹。
鴨、寒、入水。
この道取を参学して、仏道の祖宗を相見し、仏道の教法を見聞すべきなり。
いま、祖意、教意と問取するは、祖意は祖意と是、同? 是、別? と問取するなり。
いま、鶏、寒、上、樹。鴨、寒、入水。というは、同、別を道取すといえども、同、別を見取するともがらの見聞に一任する同、別にあらざるべし。
しかあれば、すなわち、同、別の論にあらざるがゆえに、同、別と道取すつべきなり。
このゆえに、同、別と問取すべからずというがごとし。
玄沙、因、僧、問、
三乗十二分教、即、不要。
如何、是、祖師西来意?
師、云、
三乗十二分教、総、不要。
いわゆる、僧、問の三乗十二分教、即、不要。如何、是、祖師西来意? という。
よのつねに、おもうがごとく、三乗十二分教は条条の岐路なり。
そのほか祖師西来意あるべし、と問するなり。
三乗十二分教、これ、祖師西来意なり、と認ずるにあらず。
いわんや、八万四千法門蘊、すなわち、祖師西来意としらんや?
しばらく、参究すべし。
三乗十二分教、なにとしてか、即、不要なる?
もし要せんときは、いかなる規矩が、ある?
三乗十二分教を不要なるところに、祖師西来意の参学を現成するか?
いたずらに、この問の出現するにあらざらん。
玄沙、いわく、三乗十二分教、総、不要。
この道取は、法輪なり。
この法輪の転ずるところ、仏教の仏教に所在することを参究すべきなり。
その宗旨は、三乗十二分教は、仏祖の法輪なり。
有、仏祖の時、所にも転ず。
無、仏祖の時、所にも転ず。
祖前、祖後、おなじく、転ずるなり。
さらに仏祖を転ずる功徳あり。
祖師西来意の正当恁麼時は、この法輪を総、不要なり。
総、不要というは、もちいざるにあらず、やぶるるにあらず。
この法輪、このとき、総不要輪の転ずるのみなり。
三乗十二分教なし、といわず。
総、不要の時節を覰見すべきなり。
総、不要なるがゆえに、三乗十二分教なり。
三乗十二分教なるがゆえに、三乗十二分教にあらず。
このゆえに、三乗十二分教、総、不要と道取するなり。
その三乗十二分教、そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなわち、これなり。
三乗。
一、者、声聞乗。
四諦によりて得道す。
四諦というは、苦諦、集諦、滅諦、道諦なり。
これをきき、これを修行するに、生老病死を度(脱)し、般涅槃を究竟す。
この四諦を修行するに、苦、集は俗なり、滅、道は第一義なり。というは、論師の見解なり。
もし仏法によりて修行するがごときは、
四諦ともに、唯仏与仏なり。
四諦ともに、法住法位なり。
四諦ともに、実相なり。
四諦ともに、仏性なり。
このゆえに、さらに、無性、無作、等の論におよばず。
四諦ともに、総、不要なるゆえに。
二、者、縁覚乗。
十二因縁によりて般涅槃す。
十二因縁というは、
一、者、無明。
二、者、行。
三、者、識。
四、者、名色。
五、者、六入。
六、者、触。
七、者、受。
八、者、愛。
九、者、取。
十、者、有。
十一、者、生。
十二、者、老死。
この十二因縁を修行するに、過去、現在、未来に因縁せしめて、能観、所観を論ずといえども、一一の因縁を挙して参究するに、すなわち、総不要輪転なり、総不要因縁なり。
しるべし。
無明、これ、一心なれば、行、識、等も一心なり。
無明、これ、滅なれば、行、識、等も滅なり。
無明、これ、涅槃なれば、行、識、等も涅槃なり。
生も滅なるがゆえに、恁麼いうなり。
無明も道著の一句なり。
識、名色、等も、また、かくのごとし。
しるべし。
無明、行、等は、吾、有、箇斧子、与、汝、住、山なり。
無明、行、識、等は、発時、蒙和尚、許、斧子、便、請取なり。
三、者、菩薩乗。
六波羅蜜の教行証によりて阿耨多羅三藐三菩提を成就す。
その成就というは、
造作にあらず。
無作にあらず。
始起にあらず。
新成にあらず。
久成にあらず。
本行にあらず。
無為にあらず。
ただ成就、阿耨多羅三藐三菩提なり。
六波羅蜜というは、
檀波羅蜜、
尸羅波羅蜜、
羼提波羅蜜、
毘梨耶波羅蜜、
禅那波羅蜜、
般若波羅蜜なり。
これは、ともに、無上菩提なり。
無生、無作の論にあらず。
かならずしも檀をはじめとし般若をおわりとせず。
経、云、
利根菩薩、般若、為、初、檀、為、終。
鈍根菩薩、檀、為、初、般若、為、終。
しかあれども、羼提も、はじめなるべし、禅那も、はじめなるべし。
三十六波羅蜜の現成あるべし。
羅籠より羅籠をうるなり。
波羅蜜というは、彼岸、到なり。
彼岸は、去来の相貌、蹤跡にあらざれども、到は、現成するなり、到は、公案なり。
修行の彼岸へいたるべし、とおもうことなかれ。
彼岸に修行あるがゆえに、修行すれば、彼岸、到なり。
この修行、かならず、遍界、現成の力量を具足せるがゆえに。
十二分教。
一、者、素咀纜。(此、云、契経。)
二、者、祇夜。(此、云、重頌。)
三、者、和伽羅那。(此、云、授記。)
四、者、伽陀。(此、云、諷誦。)
五、者、憂陀那。(此、云、無問自説。)
六、者、尼陀那。(此、云、因縁。)
七、者、(阿)波陀那。(此、云、譬喩。)
八、者、伊帝目多伽。(此、云、本事。)
九、者、闍陀迦。(此、云、本生。)
十、者、毘仏略。(此、云、方広。)
十一、者、阿浮陀達磨。(此、云、未曾有。)
十二、者、優婆提舎。(此、云、論議。)
如来、則、為、直、説、陰界入、等、仮実之法、是、名、修多羅。
或、四、五、六、七、八、九言偈、重頌。
世界、陰入、等、事、是、名、祇夜。
或、直、記、衆生、未来事、乃至、記、鴿、雀、成仏、等、是、名、和伽羅那。
或、孤起偈、記、世界、陰入、等、事、是、名、伽陀。
或、無、人、問、自、説、世界事、是、名、優陀那。
或、約、世界不善事、而、結、禁戒、是、名、尼陀那。
或、以、譬喩、説、世界事、是、名、阿波陀那。
或、説、本、昔、世界事、是、名、伊帝目多伽。
或、説、本、昔、受、生事、是、名、闍陀伽。
或、説、世界、広大事、是、名、毘仏略。
或、説、世界、未曾有事、是、名、阿浮達摩。
或、問、難、世界事、是、名、優婆提舎。
此、是、世界悉檀、為、悦、衆生、故、起、十二部経。
十二部経の名、きくこと、まれなり。
仏法の、よのなかに、ひろまれるとき、これをきく。
仏法、すでに滅するときは、きかず。
仏法、いまだ、ひろまらざるとき、また、きかず。
ひさしく善根をうえて仏をみたてまつるべきもの、これをきく。
すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり。
この十二、おのおの経と称す。
十二分教ともいい、十二部経ともいうなり。
十二分教、おのおの十二分教を具足せるゆえに、一百四十四分教なり。
十二分教、おのおの十二分教を兼、含せるゆえに、ただ一分教なり。
しかあれども、億前、億後の数量にあらず。
これ、みな、
仏祖の眼睛なり。
仏祖の骨髄なり。
仏祖の家業なり。
仏祖の光明なり。
仏祖の荘厳なり。
仏祖の国土なり。
十二分教をみるは、仏祖をみるなり。
仏祖を道取するは、十二分教を道取するなり。
しかあれば、すなわち、青原の垂一足、すなわち、三乗十二分教なり。
南嶽の説、似、一物、即、不中、すなわち、三乗十二分教なり。
いま、玄沙の道取する総、不要の意趣、それ、かくのごとし。
この宗旨、挙拈するときは、ただ仏祖のみなり。
さらに半人なし、一物なし、一事、未起なり。
正当恁麼時、如何?
いうべし、総、不要。
あるいは、九部という、あり。
九分教というべきなり。
九部
一、者、修多羅。
二、者、伽陀。
三、者、本事。
四、者、本生。
五、者、未曾有。
六、者、因縁。
七、者、譬喩。
八、者、祇夜。
九、者、優婆提舎。
この九部、おのおの九部を具足するがゆえに、八十一部なり。
九部、おのおの一部を具足するゆえに、九部なり。
帰、一部の功徳あらずは、九部なるべからず。
帰、一部の功徳あるがゆえに、一部、帰、一部なり。
このゆえに、八十一部なり。
此部なり、我部なり、払子部なり、拄杖部なり、正法眼蔵部なり。
釈迦牟尼仏、言、
我此九部法、随順、衆生、説。
入、大乗、為、本。
以、故、説、是経。
しるべし。
我此は如来なり。
面目、身心、あらわれきたる。
(この)我此、すでに九部法なり。
九部法、すなわち、我此なるべし。
いまの一句、一偈は、九部法なり。
我此なるがゆえに、随順、衆生、説なり。
しかあれば、すなわち、一切衆生の生、従、這裏、生、すなわち、説、是経なり。
死、従、這裏、死は、すなわち、説、是経なり。
乃至、造次動容、すなわち、説、是経なり。
化、一切衆生、皆、令、入、仏道、すなわち、説、是経なり。
この衆生は、我此九部法の随順なり。
この随順は、
随他去なり。随自去なり。
随衆去なり。随生去なり。
随我去なり。随此去なり。
その衆生、かならず、我此なるがゆえに、九部法の条条なり。
入、大乗、為、本というは、
証、大乗といい、行、大乗といい、
聞、大乗といい、説、大乗という。
しかあれば、衆生は天然として得道せりというにあらず。
その一端なり。
入は、本なり。
本は、頭正尾正なり。
ほとけ、法をとく。
(法、ほとけをとく。)
法、ほとけに、とかる。
ほとけ、法に、とかる。
火焔、ほとけをとき、法をとく。
ほとけ、火焔をとき、
法、火焔をとく。
是経、すでに説、故の良以あり、故、説の良以あり。
是経、とかざらんと擬するに不可なり。
このゆえに、以、故、説、是経という。
故、説は亙天なり。
亙天は、故、説なり。
此仏彼仏、ともに、是経と一称し、
自界他界、ともに、是経と故、説す。
このゆえに、説、是経なり。
是経、これ、仏教なり。
しるべし。
恒沙の仏教は、竹箆、払子なり。
仏教の恒沙は、拄杖、拳頭なり。
おおよそ、しるべし。
三乗十二分教、等は、仏祖の眼睛なり。
これを開眼( or 開明)せざらんもの、いかでか、仏祖の児孫ならん?
これを拈来せざらんもの、いかでか、仏祖の正眼を単伝せん?
正法眼蔵を体達せざるは、七仏の法嗣にあらざるなり。
正法眼蔵 仏教
(于、時、仁治二年辛丑、十一月十四日、在、雍州、興聖精舎、示、衆。)
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