正法眼蔵 古鏡

諸仏、諸祖の、受持し単伝するは、古鏡なり。

同見、同面なり。

同像、同鋳なり。

同参、同証す。

胡来、胡現、十万八千、

漢来、漢現、一念、万年なり。

古来、古現し、

今来、今現し、

仏来、仏現し、

祖来、祖現するなり。


第十八祖、伽耶舎多、尊者は、西域の摩提国の人なり。

姓は鬱頭藍。

父、名、天蓋。

母、名、方聖。

母氏かつて夢見に、いわく、ひとりの大神、おおきなる、かがみを持して、むかえり、と。

ちなみに、懐胎す。

七日ありて師をうめり。

師、はじめて生ぜるに、肌体、みがける瑠璃のごとし。

いまだかつて洗沐せざるに自然に香、潔なり。

いとけなくより閑静をこのむ。

言語、よのつねの童子に、ことなり。

うまれしより、一の浄明の円鑑、おのずから同生せり。

円鑑とは円鏡なり。

奇代の事なり。

同生せり、というは、円鑑も母氏の胎より、うめるにはあらず。

師は胎生す。

師の、出胎する、同時に、円鑑きたりて、天真として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとく、ありしなり。

この円鑑、その儀、よのつねにあらず。

童子、むかいきたるには、円鑑を両手にささげきたるがごとし。

しかあれども、童面、かくれず。

童子、さりゆくには、円鑑をおおうて、さりゆくがごとし。

しかあれども、童身、かくれず。

童子、睡眠するときは、円鑑、そのうえにおおう。

たとえば、華蓋のごとし。

童子、端坐のときは、円鑑、その面前にあり。

おおよそ、動容進止にあいしたがうなり。

しかのみにあらず、古来今の仏事ことごとく、この円鑑にむかいて、みることをう。

また、天上、人間の衆事、諸法みな円鑑にうかびて、くもれるところなし。

たとえば、経書にむかいて照古照今をうるよりも、この円鑑より、みるは、あきらかなり。

しかあるに、童子、すでに出家、受戒するとき、円鑑、これより現前せず。

このゆえに、近里、遠方、おなじく、奇妙なり、と讃歎す。

まことに、この娑婆世界に比類すくなしというとも、さらに、他那裏に親族の、かくのごとくなる種胤あらんことを莫、怪なるべし、遠慮すべし。

まさに、しるべし。

若、樹、若、石に化せる経巻あり。

若、田、若、里に流布する智識あり。

かれも円鑑なるべし。

いまの黄紙朱軸は円鑑なり。

だれが、師をひとえに希夷なり、と、おもわん?


あるとき、出遊するに、僧伽難提、尊者にあうて、直に、すすみて、難提、尊者の前にいたる。

尊者、とう、

汝が手中なるは、まさに、何の所表か、ある?


有、何、所表? を問著にあらずとききて参学すべし。


師、いわく、

諸仏、大円鑑、内外、無瑕翳、両人、同、得見、心、眼、皆、相似。


しかあれば、諸仏、大円鑑、なにとしてか、師と同生せる?

師の生来( or 来生)は大円鑑の明なり。

諸仏は、この円鑑に同参、同見なり。

諸仏は大円鑑の鋳像なり。

大円鑑は、智にあらず、理にあらず、性にあらず、相にあらず。

十聖三賢、等の法のなかにも大円鏡(智)の名あれども、いまの諸仏の大円鑑にあらず。

諸仏、かならずしも智にあらざるがゆえに、諸仏に智慧あり。

智慧を諸仏とせるにあらず。

参学、しるべし。

智を説著するは、いまだ仏道の究竟説にあらざるなり。

すでに諸仏、大円鑑、たとえ、われと同生せり、と見聞すというとも、さらに道理あり。

いわゆる、この大円鑑、この生に接すべからず、他生に接すべからず。

玉鏡にあらず、銅鏡にあらず、肉鏡にあらず、髄鏡にあらず。

円鑑の、言、偈なるか?

童子の、説、偈なるか?

童子、この四句の偈をとくことも、かつて人に学習せるにあらず。

かつて或、従、経巻にあらず。

かつて或、従、知識にあらず。

円鑑をささげて、かくのごとく、とくなり。

師の、幼稚のときより、かがみにむかうの、常儀とせるのみなり。

生知の弁、慧あるがごとし。

大円鑑の、童子と同生せるか?

童子の、大円鑑と同生せるか?

まさに、前後生もあるべし。

大円鑑は、すなわち、諸仏の功徳なり。

このかがみ、内外に、くもりなし、というは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず、面背あることなし、両箇、おなじく、得見あり。

心と眼と、あいにたり。

相似というは、人の、人にあうなり。

たとえ内の形像も、心、眼あり、同、得見あり。

たとえ外の形像も、心、眼あり、同、得見あり。

いま、現前せる依報、正報ともに、内に相似なり、外に相似なり。

われにあらず、だれにあらず、これは両人の相見なり、両人、相似なり。

かれも、われ、という。

われも、かれとなる。

心と眼と、皆、相似、というは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。

相似は心、眼なり。

たとえば、心、眼、各、相似、と、いわんがごとし。

いかならんか、これ、心の、心に相似せる?

いわゆる、三祖、六祖なり。

いかならんか、これ、眼の、眼に相似なる?

いわゆる、道眼、被、眼、礙なり。

いま、師の、道得する宗旨、かくのごとし。

これ、はじめて僧伽難提、尊者に奉覲する本由なり。

この宗旨を挙拈して、大円鑑の仏面、祖面を参学すべし。

古鏡の眷属なり。


第三十三祖、大鑑禅師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈に、いわく、

菩提、本、無、樹。

明鏡、亦、非、台。

本来、無一物。

何所、有、塵、埃?


しかあれば、この道取を学取すべし。

大鑑高祖、よの人、これを古仏という。

圜悟禅師、いわく、稽首、曹谿真古仏。

しかあれば、しるべし。

大鑑高祖の、明鏡をしめす、本来、無一物。何所、有、塵、埃? なり。

明鏡、非、台、これ、命脈あり、功夫すべし。

明明は、みな、明鏡なり。

かるがゆえに、明頭、来、明頭、打という。

いずれのところに、あらざれば、いずれのところ、なし。

いわんや、かがみにあらざる一塵の、尽十方界に、のこれらんや?

かがみにあらざる一塵の、かがみに、のこらんや?

しるべし。

尽界は塵刹にあらざるなり。

ゆえに、古鏡面なり。


南嶽、大慧禅師の会に、ある僧、とう、

如、鏡、鋳像、光、帰、何所?

師、云、

大徳、未出家時、相貌、向、甚麼所、去?

僧、曰、

成後、為、甚麼、不、鑑、照?

師、云、

雖、不、鑑、照、瞞、他一点、也、不得。


いま、この万像は、なにもの、とあきらめざるに、たずぬれば、鏡を鋳成せる証明、すなわち、師の道にあり。

鏡は、金にあらず、玉にあらず、明にあらず、像にあらず、といえども、たちまち(に)、鋳像なる。

まことに、鏡の究弁なり。

光、帰、何所? は、如、鏡、鋳像の如、鏡、鋳像なる道取なり。

たとえば、像、帰、像所なり、鋳、能、鋳、鏡なり。

大徳、未出家時、相貌、向、甚麼所、去? というは、鏡をささげて照面するなり。

このとき、いずれの面面か、すなわち、自己面ならん?

師、云、雖、不、鑑、照、瞞、他一点、也、不得というは、鑑、照、不得なり、瞞、他、不得なり。

海、枯、不到、露、底を参学すべし。

莫、打破。

莫、動著なり。

しかありといえども、さらに、参学すべし。

拈、像、鋳、鏡の道理あり。

当恁麼時は、百、千、万の鑑、照にて瞞瞞点点なり。


雪峰、真覚大師、あるとき、衆にしめすに、いわく、

要、会、此事、我這裏、如、一面古鏡、相似。

胡、来、胡、現。

漢、来、漢、現。


時、玄沙、出、問、

忽、遇、明鏡、来時、如何?

師、云、

胡、漢、倶、隠。

玄沙、曰、

某甲、即、不、然。

峰、云、

作麼生?

玄沙、曰、

請、和尚、問。

峰、云、

忽、遇、明鏡、来時、如何?

玄沙、曰、

百雑砕。


しばらく、雪峰、道の此事というは是、什麼事? と参学すべし。

しばらく、雪峰の古鏡をならい、みるべし。

如、一面古鏡の道は、一面とは、辺際、ながく断じて、内外、さらにあらざるなり。

一珠、走、盤の自己なり。

いま、胡、来、胡、現は一隻の赤髭なり。

漢、来、漢、現は、この漢は、混沌より、このかた、盤古よりのち、三才、五才の、現成せる、といいきたれるに、いま、雪峰の道には、古鏡の功徳の漢、現せり。

いまの漢は漢にあらざるがゆえに、すなわち、漢、現なり。

いま、雪峰、道の胡、漢、倶、隠、さらに、いうべし、鏡、也、自、隠なるべし。

玄沙、道の百雑砕は、道、也、須、是、恁麼道なりとも、比来、責、爾、還、吾、砕片、来? 如何、還、我、明鏡、来? なり。


黄帝のとき、十二面の鏡あり。

家訓に、いわく、天、授なり。

また、広成子、崆峒山にして、与、授せりける、ともいう。

その十二面の、もちいる儀は、十二時に時時に一面をもちいる。

また、十二月に毎月、毎面にもちいる。

十二年に年年、面面にもちいる。

いわく、鏡は広成子の経典なり。

黄帝に伝授するに、十二時、等は鏡なり。

これより照古照今するなり。

十二時、もし鏡にあらずよりは、いかでか、照古あらん?

十二時、もし鏡にあらずば、いかでか、照今あらん?

いわゆる、十二時は十二面なり。

十二面は十二鏡なり。

古今は十二時の所使なり。

この道理を指示するなり。

これ、俗の道取なりといえども、漢、現の十二時中なり。


軒轅、黄帝、膝行、進、崆峒、問、道、乎、広成子。

于、時、広成子、曰、

鏡、是、陰陽、本。

治、身、長久、自、有、三鏡。曰、天、曰、地、曰、人。

此鏡、無、視、無、聴。

抱、神、以、静、形、将、自、正。

必、静、必、清、無労、汝形、無揺汝精、乃、可、以、長生。


むかしは、この三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。

この大道にあきらかなるを天地の主とするなり。

俗の、いわく、太宗は人をかがみとせり。安危、理乱。これによりて照、悉する、という。

三鏡のひとつをもちいるなり。

人を鏡とする、とききては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖、賢の用、捨をしりぬべし。たとえば、魏徴をえしがごとく、房玄齢をえしがごとし。とおもう。

これをかくのごとく会取するは、太宗の、人を鏡とする、と道取する道理には、あらざるなり。

人を鏡とす、というは、

鏡を鏡とするなり。

自己を鏡とするなり。

五行を鏡とするなり。

五常を鏡とするなり。

人物の去来をみるに、来、無、跡、去、無、方を人鏡の道理という。

賢、不肖の万般なる、天象に相似なり。

まことに、経緯なるべし。

人面、鏡面、日面、月面なり。

五嶽の精、および、四瀆の精、世をへて四海をすます。

これ、鏡の慣習なり。

人物をあきらめて経緯をはかるを太宗の道というなり。

博覧人をいうにあらざるなり。


日本国、自、神代、有、三鏡、璽之、与、剣、而、共、伝来、至、今。

一枚、在、伊勢大神宮。

一枚、在、紀伊国、日前社。

一枚、在、内裏、内侍所。


しかあれば、すなわち、国家みな、鏡を伝持すること、あきらかなり。

鏡をえたるは国をえたるなり。

人、つたうらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく伝来せり。天神より伝来せり。と相伝す。

しかあれば、百練の銅も陰陽の化成なり。

今、来、今、現。

古、来、古、現ならん。

これ、古今を照臨するは古鏡なるべし。


雪峰の宗旨は、

新羅、来、新羅、現。

日本、来、日本、現。ともいうべし。

天、来、天、現。

人、来、人、現。ともいうべし。

現、来をかくのごとくの参学すというとも、この現、いま、われらが本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり。

かならずしも来、現を、それ、知なり。それ、会なり。と学すべきにあらざるなり。

いま、いう宗旨は、胡、来は胡、現なりというか?

胡、来は一条の胡、来にて、胡、現は一条の胡、現なるべし。

現のための来にあらず。

古鏡、たとえ古鏡なりとも、この参学あるべきなり。


玄沙いでて、とう、

たちまちに明鏡、来に、あわんに、いかん?


この道取、たずね、あきらむべし。

いま、いう、明の道得は、幾許なるべきぞ?

いわくの道は、その来は、かならずしも胡、漢にはあらざるを、これは明鏡なり。さらに、胡、漢と現成すべからず。と道取するなり。

明鏡、来は、たとえ明鏡、来なりとも、二枚なるべからざるなり。

たとえ二枚にあらずというとも、古鏡は、これ、古鏡なり。

明鏡は、これ、明鏡なり。

古鏡あり、明鏡ある、証験、すなわち、雪峰と玄沙と道取せり。

これを仏道の性、相とすべし。

この玄沙の明鏡、来の道話の七通八達なる、としるべし。

八面玲瓏なること、しるべし。

逢、人には即、出なるべし。

出、即には接、渠なるべし。

しかあれば、明鏡の明と、古鏡の古と、同なりとやせん? 異なりとやせん?

明鏡に古の道理ありや? なしや?

古鏡に明の道理ありや? なしや?

古鏡という言によりて、明なるべし、と学することなかれ。

宗旨は吾、亦、如是あり、汝、亦、如是あり。

西天、諸祖、亦、如是の道理、はやく練磨すべし。

祖師の道得に、古鏡は磨あり、と(も)道取す。

明鏡も、しかあるべきか? いかん?

まさに、ひろく諸仏、諸祖の道にわたる参学あるべし。

雪峰、道の胡、漢、倶、隠は、胡も漢も、明鏡(来の)時は倶、隠なりとなり。

この倶、隠の道理、いかに、いふぞ?

胡、漢すでに来、現すること、古鏡を相罣礙せざるに、なにとしてか、いま、倶、隠なる?

古鏡は、たとえ胡、来、胡、現。漢、来、漢、現。なりとも、明鏡来は、おのずから明鏡来なるがゆえに、古鏡、現の胡、漢は倶、隠なるなり。

しかあれば、雪峰、道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。

正当明鏡来のとき、古鏡、現の胡、漢を罣礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。

いま、道取する古鏡の胡、来、胡、現。漢、来、漢、現。は、

古鏡上に来、現す、と、いわず。

古鏡裏に来、現す、と、いわず。

古鏡外に来、現す、と、いわず。

古鏡と同参、来、現す、と、いわず。

この道を聴取すべし。

胡、漢、来、現の時節は、古鏡の胡、漢を現、来せしむるなり。

胡、漢、倶、隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。

錯乱というにおよばざるものなり。


ときに、玄沙、いわく、

某甲は、すなわち、しかあらず。

雪峰、いわく、

なんじ、作麼生?

玄沙、いわく、

請すらくは、和尚、とうべし。


いま、玄沙のいう請、和尚、問のことば、いたずらに蹉過すべからず。

いわゆる、和尚問の来なる、和尚問の請なる、父、子の投機にあらずば、為、甚、如此?なり。

すでに、請、和尚、問ならん時節は、恁麼人、さだめて問所を若会すべし。

すでに問所の霹靂するには、無、回避所なり。


雪峰、いわく、忽、遇、明鏡、来時、如何?


この問所は、父、子ともに参究する一条の古鏡なり。


玄沙、いわく、百雑砕。


この道取は、百、千、万に雑砕するとなり。

いわゆる、忽、遇、明鏡、来時は百雑砕なり。

百雑砕を参得せんは、明鏡なるべし。

明鏡を道得ならしむるに、百雑砕なるべきがゆえに。

雑砕のかかれるところ、明鏡なり。

さきに未雑砕なるときあり、のちに、さらに不雑砕ならん時節を管見することなかれ。

ただ百雑砕なり。

百雑砕の対面は孤峻の一なり。

しかあるに、いま、いう、百雑砕は、古鏡を道取するか? 明鏡を道取するか?

更、請、一転語なるべし。

また、古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。

古鏡、明鏡は、たとえ問来得なりといえども、玄沙の道取を擬議するとき、沙礫、牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑砕なりぬべきか?

砕来の形段、作麼生?

万古、碧潭、空界、月。


雪峰、真覚大師と三聖院、慧然禅師と、行次に、ひとむれの獼猴をみる。

ちなみに、雪峰、いわく、この獼猴おのおの一面の古鏡を背せり。


この語、よくよく参学すべし。

獼猴というは、さるなり。

いかならんか雪峰のみる獼猴?

かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。

経劫をかえりみることなかれ。

おのおの一面の古鏡を背せり、とは、古鏡、たとえ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。

獼猴おのおの面面に背せり、というは、面面に大面小面あらず、一面古鏡なり。

背す、というは、たとえば、絵像の仏のうらをおしつくるを背すとはいうなり。

獼猴の背を背するに、古鏡にて背するなり。

使、得、什麼糊、来?

こころみに、いわば、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴にて背するか?

古鏡のうらを古鏡にて背す。

さるのうらをさるにて背す。

各背、一面のことば、虚設なるべからず。

道得是の道得なり。

しかあれば、獼猴か? 古鏡か? 畢竟、作麼生、道?

われら、すでに獼猴か? 獼猴にあらざるか?

だれにか、問取せん?

自己の獼猴にある、自知にあらず、他知にあらず。

自己の自己にある、模索およばず。


三聖、いわく、歴劫無名なり、なにのゆえにか、あらわして、古鏡とせん?


これは、三聖の古鏡を証明せる一面一枚なり。

歴劫というは、一心、一念、未萌以前なり、劫裏の不出頭なり。

無名というは、歴劫の日面、月面、古鏡面なり、明鏡面なり。

無名、真箇に無名ならんには、歴劫、いまだ歴劫にあらず。

歴劫、すでに歴劫にあらずば、三聖の道得、これ、道得にあらざるべし。

しかあれども、一念未萌以前というは今日なり。

今日を蹉過せしめず練磨すべきなり。

まことに、歴劫無名、この名、たかくきこゆ。

なにをあらわしてか、古鏡とする?

龍頭蛇尾。

このとき、三聖にむかいて、雪峰、いうべし、古鏡、古鏡、と。

雪峰、恁麼いわず、さらに、瑕生也、というは、きず、いできぬるとなり。

いかでか、古鏡に瑕生也ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名というをきずとせるなるべし。

古鏡の瑕生也は全古鏡なり。

三聖、いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆえに、道来せる参究は一任に古鏡瑕なり。

しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なり、と参学する。

これ、古鏡を参学するなり。


三聖、いわく、有、什麼、死急? 話頭、也、不識。


いわくの宗旨は、なにとしてか、死急なる?

いわゆるの死急は、

今日か?

明日か?

自己か?

他門か?

尽十方界か?

大唐国裏か?

審細に功夫、参学すべきなり。

話頭、也、不識は、話というは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。

いまは話頭なる道理、現成するなり。

たとえば、話頭も大地、有情、同時、成道しきたれるか?

さらに再全の錦にはあらざるなり。

かるがゆえに、不識なり。

対、朕、者、不識なり、対面、不相識なり。

話頭は、なきにあらず、祗、是、不識なり。

不識は条条の赤心なり。

さらに、また、明明の不見なり。


雪峰、いわく、老僧、罪過。


いわゆるは、あしくいいにける、というにも、かくいうこともあれども、しかは、こころうまじ。

老僧といふことは、屋裏の主人翁なり。

いわゆる、余事を参学せず、ひとえに老僧を参学するなり。

千変万化あれども、神頭鬼面あれども、参学は唯、老僧、一著なり。

仏来、祖来、一念、万年あれども、参学は唯、老僧、一著なり。

罪過は住持、事繁なり。

おもえば、それ、雪峰は徳山の一角なり、三聖は臨済の神足なり。

両位の尊宿、おなじく、系譜いやしからず、青原の遠孫なり、南嶽の遠派なり。

古鏡を住持しきたれる、それ、かくのごとし。

晩進の亀鑑なるべし。


雪峰、示、衆、云、

世界、闊一丈、古鏡、闊一丈。

世界、闊一尺、古鏡、闊一尺。


時、玄沙、指、火炉、云、

且、道。

火炉、闊、多少?


雪峰、云、

似、古鏡闊。

玄沙、云、

老和尚、脚跟、未、点、地、在。


一丈、これを世界という。

世界は、これ、一丈なり。

一尺、これを世界とす。

世界、これ、一尺なり。

而今の一丈をいう、而今の一尺をいう、さらに、ことなる尺、丈にはあらざるなり。

この因縁を参学するに、世界のひろさは、よのつねに、おもわくは、無量、無辺の三千大千世界、および、無尽法界というも、ただ小量の自己にして、しばらく、隣里の彼方をさすがごとし。

この世界を拈じて一丈とするなり。

このゆえに、雪峰、いわく、古鏡、闊一丈、世界、闊一丈。

この一丈を学せんには、世界闊の一端を見取すべし。

また、古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。

一丈の闊は世界の闊一丈に同参なりとも、形興、かならずしも世界の無端に斉肩なりや? 同参なりや? と功夫すべし。

古鏡は、さらに一顆珠のごとくにあらず。

明珠を見解することなかれ。

方、円を見取することなかれ。

尽十方界、たとえ一顆明珠なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。

しかあれば、古鏡は胡、漢の来、現にかかわれず。

縦横の玲瓏に条条なり。

多にあらず。

大にあらず。

闊は、その量を挙するなり。

広をいわんとにはあらず。

闊というは、よのつねの、二寸、三寸といい、七箇、八箇と、かぞうるがごとし。

仏道の算数には、大悟、不悟と算数するに、二両、三両をあきらめ、仏仏、祖祖と算数するに、五枚、十枚を見成す。

一丈は古鏡闊なり。

古鏡闊は一枚なり。


玄沙のいう、火炉、闊、多少?

かくれざる道得なり。

千古万古に、これを参学すべし。

いま、火炉をみる、だれ人となりてか、これをみる?

火炉をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。

これは動執の時節話にあらず。

新条特地の現成なり。

たとえば、是、什麼物、恁麼来? なり。

闊、多少の言、きたりぬれば、向来の多少は、多少にあらざるべし。

当所解脱の道理、うたがわざりぬべし。

火炉の諸相、諸量にあらざる宗旨は、玄沙の道をきくべし。

現前の一団子、いたずらに落地せしむることなかれ。

打破すべし。

これ、功夫なり。


雪峰、いわく、如、古鏡闊。


この道取、しずかに照顧すべし。

火炉闊、一丈というべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。

一丈といわんは道得是にて、如、古鏡闊は道不是なるにあらず。

如、古鏡闊の行履をかんがみるべし。

おおく、人のおもわくは、火炉闊、一丈といわざるを道不是とおもえり。

闊の独立をも功夫すべし。

古鏡の一片をも鑑照すべし。

如如の行李をも蹉過せしめざるべし。

動容、揚、古路、不堕、悄然機なるべし。


玄沙、いわく、老漢、脚跟、未、点、地、在。


いわくのこころは、老漢といい、老和尚といえども、かならず、雪峰にあらず。

雪峰は老漢なるべきがゆえに。

脚跟というは、いずれのところぞ? と問取すべきなり。

脚跟というは、なにをいうぞ? と参究すべし。

参究すべしというは、(脚跟とは、)

正法眼蔵をいうか?

虚空をいうか?

尽地をいうか?

命脈をいうか?

幾箇あるものぞ?

一箇あるか?

半箇あるか?

百、千、万箇あるか?

恁麼、勤学すべきなり。

未、点、地、在は、地というは、是、什麼物なるぞ?

いまの大地というは、一類の所見に準じて、しばらく、地という。

さらに、諸類、あるいは、不思議解脱法門とみるあり、諸仏諸行道とみる一類あり。

しかあれば、脚跟の点ずべき地は、なにものをか、地とせる?

地は、実有なるか? 実無なるか?

また、おおよそ、地というものは、大道のなかに寸許もなかるべきか?

問来問去すべし。

道他、道己すべし。

脚跟は、点、地、也、是なる? 不、点、地、也、是なる?

作麼生なればか、未、点、地、在と道取する?

大地、無、寸土の時節は、点、地、也、未、未、点、地、也、未なるべし。

しかあれば、老漢、脚跟、未、点、地、在は、老漢の消息なり、脚跟の造次なり。


婺州、金華山、国泰院、弘瑫禅師、ちなみに、僧、とう、

古鏡、未磨時、如何?

師、云、

古鏡。

僧、曰、

磨後、如何?

師、云、

古鏡。


しるべし。

いま、いう、古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。

しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。

古鏡にあらざる水銀、等を和して磨するにあらず。

磨、自、自、磨にあらざれども、磨、古鏡なり。

未磨時は、古鏡、くらきにあらず。

くろし、と道取すれども、くらきにあらざるべし。

活、古鏡なり。

おおよそ、

鏡を磨して鏡となす。

瓦を磨して鏡となす。

瓦を磨して瓦となす。

鏡を磨して瓦となす。

磨して、なさざるあり。

なることあれども、磨すること、えざるあり。

おなじく、仏祖の家業なり。


江西、馬祖、むかし、南嶽に参学せしに、南嶽、かつて心印を馬祖に密受せしむ。

磨、瓦のはじめのはじめなり。

馬祖、伝法院に住して、よのつねに坐禅すること、わずかに十余歳なり。

雨夜の草庵、おもいやるべし。

封雪の寒牀に、おこたる、といわず。

南嶽、あるとき、馬祖の庵にいたるに、馬祖、侍立す。

南嶽、とう、

なんじ、近日、作、什麼?

馬祖、いわく、

近日、道一、祗管打坐するのみなり。

南嶽、いわく、

坐禅、なにごとをか図する?

馬祖、いわく、

坐禅は作仏を図す。

南嶽、すなわち、一片の瓦をもちて、馬祖の庵のほとりの石にあてて磨す。

馬祖、これをみて、すなわち、とう、

和尚、作、什麼?

南嶽、いわく、

磨、瓦。

馬祖、いわく、

磨、瓦、用、作、什麼?

南嶽、いわく、

磨、作、鏡。

馬祖、いわく、

磨、瓦、豈、得、成、鏡、耶?

南嶽、いわく、

坐禅、豈、得、作仏、耶?


この一段の大事、むかしより数百歳のあいだ、人、おおく、おもえらくは、南嶽、ひとえに馬祖を勧励せしむる、と。

いまだ、かならずしも、しかあらず。

大聖の行履、はるかに凡境を出離せるのみなり。

大聖、もし磨、瓦の法なくば、いかでか、為人の方便あらん?

為人のちからは仏祖の骨髄なり。

たとえ構得すとも、なお、これ、家具なり。

家具、調度にあらざれば、仏家につたわれざるなり。

いわんや、すでに馬祖を接すること、すみやかなり。

はかりしりぬ、仏祖、正伝の功徳、これ、直指なることを。

まことに、しりぬ。

磨、瓦の鏡となるとき、馬祖、作仏す。

馬祖、作仏するとき、馬祖、すみやかに馬祖となる。

馬祖の、馬祖となるとき、坐禅、すみやかに坐禅となる。

かるがゆえに、瓦を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。

しかあれば、瓦のなれる古鏡あり。

この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汚なるなり。

瓦のちり、あるにはあらず。

ただ瓦なるを磨、瓦するなり。

このところに、作、鏡の功徳の現成する、すなわち、仏祖の功夫なり。

磨、瓦、もし、作、鏡せずば、磨、鏡も作、鏡すべからざるなり。

だれが、はかることあらん? この作に作仏あり、作、鏡あることを。

また、疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて瓦と磨しなすことのあるべきか?

磨時の消息は、余時の、はかるところにあらず。

しかあれども、南嶽の道、まさに、道得を道得すべきがゆえに、畢竟じて、すなわち、これ、磨、瓦、作、鏡なるべし。

いまの人も、いまの瓦を拈じ磨して、こころみるべし。さだめて鏡とならん。

瓦、もし鏡とならずば、人、ほとけになるべからず。

瓦を、泥団なり、と、かろしめば、人も泥団なり、と、かろからん。

人、もし心あらば、瓦も心あるべきなり。

だれが、しらん? 瓦、来、瓦、現の鏡子あることを。

また、だれが、しらん? 鏡、来、鏡、現の鏡子あることを。


正法眼蔵 古鏡

仁治二年辛丑、九月九日、在、観音導利興聖宝林寺、示、衆。

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