正法眼蔵 心不可得

釈迦牟尼仏、言、

過去心、不可得。

現在心、不可得。

未来心、不可得。


これ、仏祖の参究なり。

不可得裏に過去、現在、未来の窟籠を剜来せり。

しかあれども、自家の窟籠をもちいきたれり。

いわゆる、自家というは、心不可得なり。

而今の思量分別は、心不可得なり。

使得十二時の渾身、これ、心不可得なり。

仏祖の入室より、このかた、心不可得を会取す。

いまだ仏祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著なし、見聞せざるなり。

経師、論師のやから、声聞、縁覚のたぐい、夢也未見在なり。


その験、ちかきにあり。

いわゆる、徳山宣鑑禅師、そのかみ、金剛般若経をあきらめたりと自称す。

あるいは、周金剛王と自称す。

ことに青龍疏をよくせりと称す。

さらに十二担の書籍を撰集せり、斉肩の講者なきがごとし。

しかあれども、文字の法師の末流なり。

あるとき、南方に嫡嫡、相承の無上の仏法あることをききて、いきどおりにたえず、経疏をたずさえて、山河( or 山川)をわたりゆくちなみに、龍潭の信禅師の会にあえり。

かの会に投ぜん、とおもむく中路に歇息せり。

ときに、老婆子きたりあいて、みちのかたわらに歇息せり。

ときに、鑑講師、とう、

なんじは、これ、なに人ぞ?

婆子、いわく、

われは売餅の老婆子なり。

徳山、いわく、

わがために、もちいをうるべし。

婆子、いわく、

和尚、もちいをかうて、なににかせん?

徳山、いわく、

もちいをかうて点心にすべし。

婆子、いわく、

和尚の、そこばく、たずさえてあるは、それ、なにものぞ?

徳山、いわく、

なんじ、きかずや?

われは、これ、周金剛王なり。

金剛経に長ぜり。

通達せずというところなし。

わが、いま、たずさえたるは、金剛経の解釈なり。


かく、いうをききて、婆子、いわく、

老婆に一問あり。

和尚、これをゆるすや? いなや?


徳山、いわく、

われ、いま、ゆるす。

なんじ、こころにまかせて、とうべし。


婆子、いわく、

われ、かつて金剛経をきくに、いわく、

過去心、不可得。

現在心、不可得。

未来心、不可得。

いま、いずれの心をか、もちいをして、いかに点ぜんとかする?

和尚、もし道得ならんには、もちいをうるべし。

和尚、もし道不得ならんには、もちいをうるべからず。


徳山、ときに、茫然として祗対すべきところをおぼえざりき。

婆子、すなわち、払、袖して、いでぬ。

ついに、もちいを徳山にうらず。


うらむべし、数百軸の釈主、数十年の講者、わずかに弊婆の一問をうるに、たちまちに負処に堕して、祗対におよばざること。

正師をみると、正師に師承せると、正法をきけると、いまだ正法をきかず正法をみざると、はるかにことなるによりて、かくのごとし。

徳山、このとき、はじめて、いわく、画にかける、もちい、うえをやむるに、あたわず、と。

いまは龍潭に嗣法す、と称す。


つらつら、この婆子と徳山と相見する因縁をおもえば、徳山の、むかし、あきらめざることは、いま、きこゆるところなり。

龍潭をみしよりのちも、なお婆子を怕却しつべし。

なお、これ、参学の晩進なり、超証の古仏にあらず。

婆子、そのとき、徳山を杜口せしむとも、実に、その人なること、いまだ、さだめがたし。

そのゆえは、心不可得のことばをききては、心うべからず、心あるべからず、とのみ、おもいて、かくのごとく、とう。

徳山、もし丈夫なりせば、婆子を勘破するちから、あらまし。

すでに勘破せましかば、婆子、まことに、その人なる道理も、あらわるべし。

徳山、いまだ徳山ならざれば、婆子、その人なることも、いまだ、あらわれず。

現在、大宋国にある雲衲霞袂、いたずらに徳山の対、不得をわらい、婆子が霊利なることをほむるは、いと、はかなかるべし、おろかなるなり。

そのゆえは、婆子を疑著するゆえなきにあらず。

いわゆる、そのちなみ、徳山、道不得ならんに、婆子、なんぞ、徳山にむかうて、いはざる?

和尚、いま、道不得なり。

さらに、老婆に、とうべし。

老婆、かえりて、和尚のために、いうべし。


かくのごとく、いいて、徳山の問をえて、徳山にむかうて、いうこと、道是ならば、婆子、まことに、その人なり、ということ、あらわるべし。

問著、たとえ、ありとも、いまだ道処あらず。

むかしより、いまだ、一語をも道著せざるをその人ということ、いまだ、あらず。

いたずらなる自称の始終、その益なき、徳山の、むかしにて、みるべし。

いまだ道処なきものをゆるすべからざること、婆子にて、しるべし。


こころみに徳山にかわりて、いうべし。


婆子、まさしく恁麼、問著せんに、徳山、すなわち、婆子にむかいて、いうべし、

恁麼、則、爾、莫、与、吾、売、餅。

もし徳山、かくのごとく、いわましかば、霊利の参学ならん。


婆子、もし、徳山、とわん、

現在心、不可得。

過去心、不可得。

未来心、不可得。

いま、もちいをして、いずれの心をか点ぜんとかする?


かくのごとく、とわんに、婆子、すなわち、徳山にむかうて、いうべし、

和尚は、ただ、もちいの、心を点ずべからず、とのみ、しりて、心の、もちいを点ずることをしらず、心の、心を点ずることをも、しらず。

恁麼、いわんに、徳山、さだめて、擬議すべし。

当恁麼時、もちい三枚を拈じて徳山に度与すべし。

徳山、とらんと擬せんとき、婆子、いうべし、

過去心、不可得。

現在心、不可得。

未来心、不可得。


もし、また、徳山、展手、擬取せずば、一餅を拈じて徳山をうちて、いうべし、

無魂、屍子、爾、莫、茫然。

かくのごとく、いわんに、徳山、いふことあらば、よし、いうことなからんには、婆子、さらに徳山のために、いうべし。

ただ払、袖して、さる( or さりたる)。

そでのなかに蜂ありとも、おぼえず。

徳山も、われは、いうこと、あたわず。老婆、わがために、いうべし、とも、いわず。

しかあれば、いうべきをいわざるのみにあらず、とうべきをも、とわず。

あわれむべし。

婆子、徳山、過去心、未来心、問著、道著、未来心不可得なるのみなり。

おおよそ、徳山、それよりのちも、させる発明ありとも、みえず。

ただ、あらあらしき造次のみなり。

ひさしく龍潭にとぶらいせば、頭角触折することも、あらまし、頷珠を正伝する時節にも、あわまし。

わずかに、吹滅、紙燭をみる。

伝灯に不足なり。

しかあれば、参学の雲水、かならず、勤学なるべし。

容易にせしは不是なり。

勤学なりしは仏祖なり。

おおよそ、心不可得とは、画餅一枚を買、弄して、一口に咬著、嚼著( or 嚼尽)するをいう。


正法眼蔵 心不可得

爾時、仁治二年辛丑、夏安居、于、雍州、宇治郡、観音導利興聖宝林寺、示、衆。





心不可得は、諸仏なり、みずから阿耨多羅三藐三菩提と保任しきたれり。

金剛経、曰、

過去心、不可得。

現在心、不可得。

未来心、不可得。


これ、すなわち、諸仏なる心不可得の保任の現成せるなり。

三界心、不可得なり、諸法心、不可得なり、と保任しきたれるなり。

これをあきらむる保任は、諸仏にならわざれば、証取せず、諸祖にならわざれば、正伝せざるなり。

諸仏にならう、というは、丈六身にならい、一茎草にならうなり。

諸祖にならう、というは、皮肉骨髄にならい、破顔微笑にならうなり。

この宗旨は、正法眼蔵、あきらかに正伝しきたりて、仏仏、祖祖の心印、まさに、直指なること嫡嫡、単伝せるに、とぶらい、ならうに、かならず、その骨髄、面目つたわれ、身体髪膚うくるなり。

仏道をならわず、祖室にいらざらんは、見聞せず、会取せず、問取の法におよばず、道取の分、ゆめにもいまだみざるところなり。


徳山の、そのかみ、不丈夫なりしとき、金剛経に長ぜりき。

ときの人、これを周金剛王と称しき。

八百余家のなかに王なり。

ことに青龍の疏をよくせるのみにあらず、さらに十二担の書籍を釈集せり。

斉肩の講者、あることなし。

ちなみに、南方に無上道の嫡嫡、相承せる、ありとききて、書をたずさえて山川をわたりゆく。

龍潭にいたらんとする、みちのひだりに歇息するに、婆子きたりあう。

徳山、とう、

なんじは、これ、なにびとぞ?

婆子、いわく、

われは、もちい、うる、老婆なり。

徳山、いわく、

わがために、もちいをうるべし。

婆子、いわく、

和尚、かうて、なにかせん?

徳山、いわく、

もちいをかうて点心にすべし。

婆子、いわく、

和尚の、そこばく、たずさえてあるは、これ、なにものぞ?

徳山、いわく、

汝きかずや?

われ、これ、周金剛王なり。

金剛経に長ぜり。

通達せずというところなし。

この、たずさえてあるは金剛経の解釈なり。


これをききて、婆子、いわく、

老婆に一問あり。

和尚、これをゆるすや? いなや?


徳山、いわく、

ゆるす。

なんじが、こころにまかせて、とうべし。


いわく、

われ、かつて金剛経をきくに、いわく、

過去心、不可得。

現在心、不可得。

未来心、不可得。

いま、もちいをして、いずれの心をか点ぜんとする?

和尚、もし道得ならんには、もちいをうるべし。

和尚、もし道不得ならんには、もちいをうるべからず。


徳山、ときに、茫然として、祗対すべきことをえざりき。

婆子、すなわち、払、袖して出ぬ。

ついに、もちいを徳山にうらず。


うらむべし、数百軸の釈主、数十年の講者、わずかに弊婆の一問をうるに、すみやかに負処におちぬること。

師承あると、師承なきと、正師の室にとぶらうと、正師の室にいらざると、はるかにことなるによりて、かくのごとし。

不可得の言をききては、彼此ともに、おなじく、うることあるべからず、とのみ解せり。

さらに活路なし。

また、うべからず、というは、もとより、そなわれるゆえに、いうなん、と、おもうひともあり。

これら、いかにも、あたらぬことなり。


徳山、このとき、はじめて、画にかける、もちいは、うえをやむるに、あたわず、としり、また、仏道修行には、かならず、そのひとにあうべき、と、おもいしりき。

また、いたずらに経書にのみ、かかわれるが、まことのちからをうべからざることをも、おもいしりき。

ついに、龍潭に参じて、師資のみち見成せりしより、まさに、そのひとなりき。

いまは雲門、法眼の高祖なるのみにあらず、人中、天上の導師なり。


この因縁をおもうに、徳山、むかし、あきらめざることは、いま、みゆるところなり。

婆子、いま、徳山を杜口せしむればとても、実に、そのひとにてあらんことも、さだめがたし。

しばらく、心不可得のことばをききて、心あるべきにあらず、とばかりおもいて、かくのごとく、とうにてあるらん、とおぼゆ。

徳山の、丈夫にてありしかば、かんがうるちからもありなまし。

かんがうることあらば、婆子が、そのひとにてありけることも、きこゆべかりしかども、徳山の、徳山にてあらざりしときにてあれば、婆子が、そのひとなることも、いまだ、しられず、みえざるなり。

また、いま、婆子を疑著すること、ゆえなきにあらず。

徳山、道不得ならんに、などか、徳山にむかうて、いわざる?

和尚、いま道不得なり。

さらに老婆に、とうべし。

老婆、かえりて、和尚のために、いうべし。

と。

このとき、徳山の問をえて、徳山にむかいて、いうことありせば、老婆が、まことにてある、ちからも、あらわれぬべし。

かくのごとく、古人の骨髄も面目も、古仏の光明も現瑞も、同参の功夫ありて、徳山をも婆子をも、不可得をも可得をも、餅をも心をも、把定に、わずらわざるのみにあらず、放行にも、わずらわざるなり。

いわゆる、仏心は、これ、三世なり。

心と三世と、あいへだたること、毫釐にあらずといえども、あいはなれ、あいさることを論ずるには、すなわち、十万八千よりも、あまれる深遠なり。

いかにあらんか、これ、過去心? といわば、かれにむかいて、いうべし、これ、不可得、と。

いかにあらんか、これ、現在心? といわば、かれにむかいて、いうべし、これ、不可得、と。

いかにあらんか、これ、未来心? といわば、かれにむかいて、いうべし、これ、不可得、と。

いわくのこころは、心を、しばらく、不可得となづくる心あり、とは、いわず、しばらく、不可得なり、という。

心うべからず、とは、いわず、ひとえに、不可得、という。

心うべし、とは、いわず、ひとえに、不可得、というなり。

また、いかなるか、過去心、不可得? といわば、生死去来、というべし。

いかなるか、現在心、不可得? といわば、生死去来、というべし。

いかなるか、未来心、不可得? といわば、生死去来、というべし。

おおよそ、牆壁、瓦礫にてある仏心あり。

三世諸仏ともに、これを不可得にてありと証す。

仏心にてある牆壁、瓦礫のみあり。

諸仏、三世に、これを不可得なりと証す。

いわんや、山河大地にてある、不可得のみずからにてあるなり。

草木、風、水なる不可得の、すなわち、心なるあり。

また、応、無所住、而、生、其心の不可得なるあり。

また、十方諸仏の、一代の代にて八万法門をとく。不可得の心、それ、かくのごとし。

また、大証国師のとき、大耳三蔵、はるかに西天より到京せり。

他心通をえたりと称す。

唐の粛宗皇帝、ちなみに、国師に命じて試験せしむるに、三蔵、わずかに国師をみて、すみやかに礼拝して右にたつ。

国師、ついに、とう、

なんじ、他心通をえたりや? いなや?

三蔵、もうす、

不敢。

と。

国師、いわく、

なんじ、いうべし。

老僧、いま、いずれのところにか、ある?

三蔵、もうす、

和尚は、これ、一国の師なり。

なんぞ、西川にゆきて競渡のふねをみる?

国師、ややひさしくして再問す、

なんじ、いうべし。

老僧、いま、いずれのところにか、ある?

三蔵、もうす、

和尚は、これ、一国の師なり。

なんぞ、天津橋上にゆきて、猢猻を弄するをみる?

国師、また、とう、

なんじ、いうべし。

老僧、いま、いずれのところにか、ある?

三蔵、ややひさしくあれども、しることなし、みるところなし。

国師、ちなみに、叱して、いわく、

這野狐精、なんじが他心通、いずれのところにかある?

三蔵、また、祗対なし。


かくのごとくのこと、しらざれば、あしし、きかざれば、あやしみぬべし。

仏祖と三蔵と、ひとしかるべからず。天地懸隔なり。

仏祖は仏法をあきらめてあり、三蔵は、いまだ、あきらめず。

まことに、それ、三蔵は、在俗も三蔵なることあり。たとえば、文華にところをえたらんがごとし。

しかあれば、ひろく竺、漢の言音をあきらめてあるのみにあらず、他心通をも修得せりといえども、仏道の身心におきては、ゆめにもいまだみざるゆえに、仏祖の位に証せる国師にまみゆるには、すなわち、勘破せらるるなり。

いわゆる、仏道に、心をならうには、万法、即、心なり、三界、唯心なり、唯心、これ、唯心なるべし、是仏、即、心なるべし。

たとえ自なりとも、たとえ他なりとも、仏道の心をあやまらざるべし。

いたずらに西川に流落すべからず、天津橋に、おもい、わたるべからず。

仏道の身心を保任すべくば、仏道の智、通を学習すべし。

いわゆる、仏道には、尽地みな、心なり。

起、滅にあらたまらず、尽法みな、心なり。

尽心を智、通とも学すべし。

三蔵、すでに、これをみず、野狐精のみなり。

しかあれば、以前、両度も、いまだ国師の心をみず、国師の心に通ずることなし。

いたずらなる西川と天津と競渡と猢猻とのみに、たわむるる、野狐子なり。

いかにしてか、国師をみん?

また、国師の在所をみるべからざる道理、あきらけし。

老僧、いま、いずれのところにか、ある? と、みたび、とうに、このことばをきかず、もし、きくことあらば、たずぬべし。

きかざれば、蹉過するなり。

三蔵、もし仏法をならうことありせば、国師のことばをきかまし、国師の身心をみることあらまし。

ひごろ、仏法をならわざるがゆえに、人中、天上の導師に、うまれ、あうといえども、いたずらに、すぎぬるなり。

あわれむべし。

かなしむべし。

おおよそ、三蔵の学者、いかでか、仏祖の行履におよばん? 国師の辺際をしらん?

いわんや、西天の論師、および、竺乾の三蔵、たえて、国師の行履をしるべからず。

三蔵のしらんことは、天帝もしるべし、論師もしるべし。

論師、天帝、しらんこと、補処の智力、およばざらんや? 十聖三賢もおよばざらんや?

国師の身心は、天帝もしるべからず、補処もいまだあきらめざるなり。

身心を仏家に論ずること、かくのごとし。

しるべし。

信ずべし。

わが大師、釈尊の法、いまだ、二乗、外道、等の野狐精には、おなじからざるなり。


しかあるに、この一段の因縁、ふるくより、諸代の尊宿おのおの参究するに、その話、のこれり。


僧、ありて、趙州に、とう、

三蔵、なにとしてか、第三度に国師の所在をみざる?

趙州、いわく、

国師、在、三蔵、鼻孔上、所以、不見。


また、僧、ありて、玄沙に、とう、

既、在、鼻孔上、為、甚、不見?

玄沙、いわく、

只、為、太近。


海会、端、いわく、

国師、若、在、三蔵、鼻孔上、有、什麼、難、見?

殊、不知、国師、在、三蔵、眼睛裏。


また、玄沙、三蔵を徴して、いわく、

汝、道、前、両度、還、見、麼?


雪竇、顕、いわく、

敗也、敗也。


また、僧、ありて、仰山に、とう、

第三度、なにとしてか、三蔵、ややひさしくあれども、国師の所在をみざる?

仰山、いわく、

前、両度、是、渉境心。

後、入、自受用三昧。

所以、不見。


この五位の尊宿ともに諦当なれども、国師の行履は蹉過せり。

いわゆる、第三度、しらず、とのみ論じて、前、両度はしれり、とゆるすににたり。

これ、すなわち、古先の蹉過するところなり。

晩進のしるべきところなり。

興聖、いま、五位の尊宿を疑著すること、両般あり。

一には、いはく、

国師の、三蔵を試験する意趣をしらず。

二には、いわく、

国師の身心をしらず。


しばらく、国師の、三蔵を試験する意趣をしらず、というは、

第一番に国師、いわく、

汝、道。

老僧、即、今、在、什麼所?

と。

いうこころは、

三蔵、もし、仏法をしれりや? いまだしらずや? と試問するとき、三蔵、もし仏法をきくことあらば、老僧、即、今、在、什麼所? ときくことばを、仏法にならうべきなり。

仏法にならう、というは、

国師の老僧、いま、いずれのところにか、ある? というは、

這辺にあるか?

那辺にあるか?

無上菩提にあるか?

般若波羅蜜にあるか?

空にかかれるか?

地にたてるか?

草庵にあるか?

宝所にあるか?

と、とうなり。

三蔵、このこころをしらず、いたずらに凡夫、二乗、等の見解をたてまつる。

国師、かさねて、とう、

汝、道。

老僧、即、今、在、什麼所?

ここに、三蔵、さらに、いたずらのことばをたてまつる。

国師、かさねて、とう、

汝、道。

老僧、即、今、在、什麼所?

ときに、三蔵、ややひさしくあれども、ものいわず、ここち( or こころ)、茫然なり。

ちなみに、国師、すなわち、三蔵を叱して、いわく、

這野狐精、他心通、在、甚麼所?

かく、いふに、三蔵、なお、いうことなし。


つらつら、この因縁をおもうに、古先ともに、おもわくは、いま、国師の三蔵を叱すること、前、両度は国師の所在をしるといえども、第三度、しらざるがゆえに、叱するなり、と。

しかには、あらず。

おおよそ、三蔵の、野狐精のみにして、仏法は夢也未見在なることを叱するなり。

前、両度はしれり、第三度はしらざる、と、いわぬなり。

叱するは、総じて、三蔵を叱するなり。

国師のこころは、まず、仏法を他心通ということ、ありや? いなや? とも、おもう。

また、たとえ他心通というとも、

他も仏道にならう他を挙すべし、

心も仏道にならう心を挙すべし、

通も仏道にならう通を挙すべきに、いま、三蔵、いうところは、かつて仏道にならうところにあらず、いかでか、仏法と、いわん? と国師はおもうなり。

試験す、というは、たとえ第三度、いうところありとも、前、両度のごとくならば、仏法の道理にあらず、国師の本意にあらざれば、叱すべきなり。

三度、問著するは、三蔵、もし、国師のことばをきくことや、ある? 

と、かさねて問著するなり。


二には、国師の身心をしらず、というは、いわゆる、

国師の身心は、三蔵の、しるべきにあらず、通ずべきにあらず、

十聖三賢、およばず、

補処、等覚の、あきらむるにあらず、

凡夫、三蔵、いかでか、しらん?

と。

この道理、あきらかに決定すべし。

国師の身心は、三蔵もしるべし、およぶべし、と擬するは、おのれ、すでに国師の身心をしらざるによりてなり。

他心通をえんともがら、国師をしるべし、と、いわば、二乗、さらに、国師をしるべきか?

しかある、べからず。

二乗人は、たえて国師の辺際におよぶべからざるなり。

いま、大乗経をよむ二乗人、おおし。

かれらも国師の身心をしるべからず。

また、仏法の身心、よめにもみるべからざるなり。

たとえ大乗経を読誦するに、にたれども、まったく、かれは小乗人なり、と、あきらかにしるべし。

おおよそ、国師の身心は、神通、修、証をうるともがらの、しるべきにあらざるなり。

国師の身心は、国師、なお、はかりがたからん。

ゆえは、いかん?

行履、ひさしく作仏を図せず。

ゆえに、仏眼も覰、不見なり。

去就、はるかに窠窟を脱落せり。

籠羅の、拘牽すべきにあらざるなり。


いま、五位の尊宿ともに、勘破すべし。


趙州、いわく、

国師は三蔵の鼻孔上にあるゆえに、みず。


この話、なにとか、いう?

本をあきらめずして末をいうには、かくのごとくの、あやまり、あり。

国師、いかにしてか、三蔵の鼻孔上にあらん?

三蔵、いまだ、鼻孔なし。

また、国師と三蔵と、あいみるたより、あるに、あいにたれども、あいちかづくみちなし。

明眼は、まさに、弁肯すべし。


玄沙、いわく、

只、為、太近。


まことに太近は、さもあらばあれ、あたりには、あたらず。

いかなるをか、太近という?

なにをか、太近と挙する?

玄沙、いまだ、太近をしらず、太近を参ぜず、仏法におきては遠之遠、矣。


仰山、いわく、

前、両度、渉境心。

後、入、自受用三昧。

所以、不見。


これ、小釈迦のほまれ、西天に、たかくひびくといえども、この不是、なきにあらず。

相見のところは、かならず渉境なり、と、いわば、仏祖、相見のところ、なきがごとし。

授記、作仏の功徳、ならわざるに、にたり。

前、両度は実に三蔵、よく、国師の所在をしれり、という。

国師の一毛の功徳をしらず、というべし。


玄沙の、徴に、いわく、

前、両度、還、見、麼?


この還、見、麼?の一句、いうべきをいうに、にたりといえども、見、如、不見といわんとす。

ゆえに、是に、あらず。


これをききて、雪竇、明覚禅師、いわく、

敗也、敗也。


これ、玄沙の道を道とするとき、しか、いうべし。

道にあらず、とせんとき、しか、いうべからず。


海会、端、いわく、

国師、若、在、三蔵、鼻孔上、有、什麼、難、見?

殊、不知、国師、在、三蔵、眼睛裏。


これ、また、第三度を論ずるなり。

前、両度もみざることを呵すべきを呵せず。

いかんが、国師の鼻孔上にあり? 眼睛裏にあり? ともしらん。


五位、尊宿、いずれも国師の功徳にくらし。

仏法の弁道ちから、なきに、にたり。

しるべし。

国師は、すなわち、一代の仏なり。

仏、正法眼蔵、あきらかに正伝せり。

小乗の三蔵、論師、等、さらに、国師の辺際をしらざる。

その証、これなり。

他心通ということ、小乗の、いうがごときは、他念通といいぬべし。

小乗、三蔵の他心通のちから、国師の一毛端をも、半毛端をも、しるべし、と、おもえるは、あやまりなり。

小乗の三蔵、すべて国師の功徳の所在みるべからず、と一向、ならうべきなり。

たとえ、もし、国師、さきの両度は所在をしらるといえども第三度にしらざらんは、三分に両分の能あらん。

叱すべきにあらず。

たとえ叱すとも、全分虧闕にあらず。

これを叱せん、だれが国師を信ぜん?

意趣は、三蔵、すべて、いまだ仏法の身心あらざることを叱せしなり。

五位の尊宿、すべて国師の行李をしらざるによりて、かくのごとくの不是あり。

このゆえに、いま、仏道の心不可得をきかしむるなり。

この一法を通ずること、えざらんともがら、自余の法を通ぜりといわんこと信じがたしといえども、古先も、かくのごとく将錯就錯あり、としるべし。


あるとき、僧、ありて、国師に、とう、

いかにあらんか、これ、諸仏、常住、心?

国師、いわく、

幸、遇、老僧、参内。


これも不可得の心を参究するなり。


天帝釈、あるとき、国師に、とう、

いかにしてか、有為を解脱せん?

国師、いわく、

天子、

修道して有為を解脱すべし。

天帝釈、かさねて、とう、

いかならんか、これ、道?

国師、いわく、

造次心、是、道。

天帝釈、いわく、

いかならんか、これ、造次心?

国師、ゆびをもって、さして、いわく、

這箇、是、般若台。

那箇、是、真珠網。

天帝釈、礼拝す。


おおよそ、仏道に、身心を談ずること、仏仏、祖祖の会に、おおし。

ともに、これを参学せんことは、凡夫、賢、聖の念慮知覚にあらず。

心不可得を参究すべし。


正法眼蔵 心不可得

仁治二年辛丑、夏安居日、書、于、興聖宝林寺。

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