正法眼蔵 法華転法華

十方仏土中は、法華の唯有なり。

これに十方三世一切諸仏、阿耨多羅三藐三菩提衆は、転法華あり、法華転あり。

これ、すなわち、

本行菩薩道の不退不転なり。

諸仏智慧、甚深無量なり。

難解難入の安詳三昧なり。

あるいは、これ、文殊師利仏として、大海仏土なる唯仏与仏の如是相あり。

あるいは、これ、釈迦牟尼仏として、唯我知是相、十方仏亦然なる出現於世あり。

これ、すなわち、我及十方仏、乃能知是事と欲令衆生、開示悟入せしむる一時なり。

あるいは、これ、普賢なり。( or 普賢として、)

不可思議の功徳なる法華転を成就し、深大久遠なる阿耨多羅三藐三菩提を閻浮提に流布せしむるに、三草二木、大小諸樹を能生する地なり、能潤するあめなり。

法華転を所不能知に尽行成就なるのみなり。

普賢の流布、いまだ、おわらざるに、霊山の大会、きたる。

普賢の往来する、釈尊、これを白毫光相と証す。

釈迦の仏会、いまだ、なかばにあらざるに、文殊の惟忖、すみやかに弥勒に授記する法華転あり。

普賢、諸仏、文殊、大会ともに、初中後善の法華転を知見波羅蜜なるべし。

このゆえに、唯以一乗、為一大事として出現せるなり。

この出現、すなわち、一大事なるがゆえに、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相とあるなり。

その法、かならず、一仏乗にして、唯仏、さだめて、唯仏に究尽せしむるなり。

諸仏、七仏、おのおの仏仏に究尽せしめ、釈迦牟尼仏に成就せしむるなり。

西、天竺、東、震旦にいたる、十方仏土中なり。

三十三祖、大鑑禅師にいたるも、すなわち、究尽にてある唯仏一乗法なり。

唯以の、さだめて、一大事なる、一仏乗なり。

いま、出現於世なり、出現於此なり。

青原の仏風、いまに、つたわれ、南嶽の法門、よに開演する、みな、如来、如実知見なり。

まことに、唯仏与仏の究尽なり、嫡仏、仏嫡の開示悟入なりと法華転すべし。

これを妙法蓮華経ともなづく教菩薩法なり。

これを諸法となづけきたれるゆえに、法華を国土として、霊山もあり、虚空もあり、大海もあり、大地もあり。

これは、すなわち、

実相なり、

如是なり、

(

法住法位なり、

一大事因縁なり、

)

仏之知見なり、

世相常住なり、

如実なり、

如来、寿量なり。

甚深無量なり、

諸行無常なり。

法華三昧なり、

釈迦牟尼仏なり。

転法華なり、

法華転なり、

正法眼蔵、涅槃妙心なり、

現身度生なり、

授記作仏なる保任あり、

住持あり。


大唐国、広南東路、韶州、曹谿山、宝林寺、大鑑禅師の会に、法達という僧、まいれりき。みずから称す、

われ、法華経を読誦すること、すでに三千部なり。


祖、いわく、

たとえ万部におよぶとも、経をえざらんは、とがをしるにも、およばざらん。


法達、いわく、

学人は愚鈍なり。

従来、ただ文字にまかせて誦念す。

いかでか、宗趣をあきらめん?


祖、いわく、

なんじ、こころみに一遍を誦すべし。

われ、なんじがために解説せん。


法達、すなわち、誦経す。


方便品にいたりて、祖、いわく、

とどまるべし。

この経は、もとより、因縁出世を宗旨とせり。

たとえ、おおくの譬喩をとくも、これより、こゆることなし。

何、者、因縁? というに、唯一大事なり。

唯一大事は、即、仏知見なり、開示悟入なり。

おのずから、これ、仏之知見なり。

已、具、知見、彼、既、是、仏なり。

なんじ、いま、まさに信ずべし。

仏知見、者、只、汝自心なり。


かさねて、しめす偈に、いわく、

心、迷、法華、転。

心、悟、転、法華。

誦、久、不明、己、与、義、作、讐家。

無念、念、即、正。

有念、念、成、邪。

有無、倶、不計、長、御、白牛車。


法達、すなわち、偈をききて、かさねて祖にもうす、

経に、いわく、諸大声聞、乃至、菩薩、みな、尽思、度量するに、仏智、はかること、あたわず。

いま、凡夫をして、ただし自心をさとらしめんを、すなわち、仏之知見となづけん。

上根にあらずよりは、疑、謗をまぬがれがたし。

また、経に、三車をとくに、大牛車と白牛車と、いかなる区別か、あらん?

ねがわくば、和尚、ふたたび宣説をたれんことを。


祖、いわく、

経意は、あきらかなり。

なんじ、おのずから迷、背す。

諸三乗人の、仏智をはかること、あたわざる患は、度量にあるなり。

たとえ、かれら、尽思、共推すとも、うたた懸遠ならん。

仏は本、為、凡夫、説のみなり、不、為、仏、説なり。

この理を信ずること不肯にして退席すとも、ことに、しらず、白牛車に坐しながら、さらに門外にして三車をもとむることを。

経文、あきらかに、なんじにむかいていう、無二亦無三、と。

なんじ、いかが、さとらざる?

三車は、これ、仮なり。昔時なるがゆえに。

一乗は、これ、実なり。今時なるがゆえに。

ただ、なんじをして仮をば去とし、実をば帰とせしむ。

帰実するには、実も名にあらず。

しるべし。

所有は、みな、珍宝なり。

ことごとく、なんじに属す。

由、汝、受用なり。

さらに、父想ならず、また、子想ならず、また、用想なしといえども、これは法華経となづくるなり。

劫より劫にいたり、昼より夜にいたるに、手、不、釈、巻なれども、誦念にあらざるとき、なきなり。


法達、すでに啓発をこうむりて、踊躍、歓喜して、偈を呈し、贊して、いわく、

経、誦、三千部、曹谿、一句、亡。

未、明、出世旨、寧、歇、累生狂。

羊、鹿、牛、権、設。

初中後善、揚。

誰、知、火宅内、元、是、法中王?


この偈を呈するに、祖、いわく、

なんじ、いまよりは、念経僧となづけつべし。


法達禅師の曹谿に参ぜし因縁、かくのごとし。

これより法華転と転法華との法華は開演するなり。

それより、さきは、きかず。

まことに、仏之知見をあきらめんことは、かならず、正法眼蔵ならん仏祖なるべし。

いたずらに沙石をかぞうる文字の学者は、しるべきにあらずということ、いま、この法達の従来にても、みるべし。

法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究尽すべし。

余乗にとぶらわん、とすることなかれ。

いま、法華転の実相、実性、実体、実力、実因、実果の如是なる、祖師より以前には、震旦国に、いまだ、きかざるところ、いまだ、あらざるところなり。


いわゆる、法華転というは、心迷なり。

心迷は、すなわち、法華転なり。

しかあれば、すなわち、心迷は法華に転ぜらるるなり。

その宗趣は、心迷、たとえ万象なりとも、如是相は法華に転ぜらるるなり。

この転ぜらるる、よろこぶべきにあらず、まつべきにあらず、うるにあらず、きたるにあらず。

しかあれども、法華転は、すなわち、無二亦無三なり。

唯有一仏乗にてあれば、如是相の法華にてあれば、能転、所転といえども、一仏乗なり、一大事なり。

唯以の赤心片片なるのみなり。

しかあれば、心迷をうらむることなかれ。

汝等、所行、是、菩薩道なり。

本行菩薩道の奉覲於諸仏なり。

開示悟入みな各各の法華転なり。

火宅に心迷あり、

当門に心迷あり、

門外に心迷あり、

門前に心迷あり、

門内に心迷あり。

心迷に門内、門外、乃至、当門、火宅、等を現成せるがゆえに、白牛車のうえにも開示悟入あるべし。

この車上の荘校として入を存ぜんとき、

露地を所入とや期せん?

火宅を所出とや認ぜん?

当門は経歴のところなるとのみ究尽すべきか?

まさに、しるべし。

くるまのなかに火宅を開示悟入せしむる転もあり。

露地に火宅を開示悟入せしむる転もあり。

当門の全門に開示悟入を転ずるあり。

普門の一門に開示悟入を転ずるあり。

開示悟入の各各に普門を開示悟入する転あり。

門内に開示悟入を転ずるあり。

門外に開示悟入を転ずるあり。

火宅に露地を開示悟入するあり。

このゆえに、火宅も不会なり、露地も不識なり。

輪転三界を、だれが、くるまと、一乗せん?

開示悟入を、だれが、門なりと出入せん?

火宅より、くるまをもとむれば、いくばくの輪転ぞ?

露地より、火宅をのぞめば、そこばくの深遠のみなり。

露地に霊山を安穏せりとや究尽せん?

霊山に露地の平坦なるとや修行せん?

衆生、所、遊楽を我浄土、不毀と常在せるをも、審細に本行すべきなり。

一心、欲、見、仏は、みずからなりとや? 参究する、他なりとや? 参究する。

分身と成道せしときあり、全身と成道せしときあり。

倶出霊鷲山は、身命を自惜せざるによりてなり。

常在此説法なる開示悟入あり。

方便現涅槃なる開示悟入あり。

而不見の雖近なる、だれが一心の会、不会を信ぜざらん?

天人常充満のところは、すなわち、釈迦牟尼仏、毘盧遮那の国土、常寂光土なり。

おのずから四土に具する、われら、すなわち、如一の仏土に居するなり。

微塵をみるとき、法界をみざるにあらず。

法界を証するに、微塵を証せざるにあらず。

諸仏の、法界を証するに、われらを証にあらざらしむるにあらず。

その初中後善なり。

しかあれば、いまも証の如是相なり。

驚疑、怖畏も如是にあらざるなし。

ただ、これ、仏之知見をもって微塵をみると、微塵に坐するとの、ことなるのみなり。

法界に坐せるとき、広にあらず、微塵に坐するとき、せまきにあらざるゆえは、保任にあらざれば坐すべからず、保任するには広、狭に驚疑なきなり。

これ、法華の体、力を究尽せるによりてなり。

しかあれば、われらが、いまの相、性、この法界に本行すとやせん? 微塵に本行すとやせん?

驚疑なし、怖畏なし、ただ法華転の本行なる、深遠、長遠なるのみなり。

この微塵をみると、法界をみると、有作、有量にあらざるなり。

有量、有作も、法華量をならい、法華作をならうべし。

開示悟入をきかんには、欲令衆生、ときくべし。

いわゆる、

開仏知見の法華転なる、示仏知見にならうべし。

悟仏知見の法華転なる、入仏知見にならうべし。

示仏知見の法華転なる、悟仏知見にならうべし。

かくのごとく、開示悟入の法華転、おのおの、究尽のみち、あるべし。

おおよそ、この諸仏、如来の知見波羅蜜は、広大、深遠なる法華転なり。

授記は、すなわち、自己の開仏知見なり、他のさずくるにあらざる法華転なり。

これ、すなわち、心、迷、法華、転なり。


心、悟、転、法華というは、法華を転ずる、というなり。

いわゆる、法華の、われらを転ずるちから、究尽するときに、かえりて、みずからを転ずる如是力を現成するなり。

この現成は転、法華なり。

従来の転、いまも、さらに、やむことなしといえども、おのずから、かえりて、法華を転ずるなり。

驢事、いまだ、おわらざれども、馬事到来すべし。

出現於此の唯以一大事因縁あり。

地涌千界の衆、ひさしき法華の大聖尊なりといえども、みずからに転ぜられて地涌し、他に転ぜられて地涌す。

地涌のみを転、法華すべからず。

虚空涌をも転、法華すべし。

地、空のみにあらず、法華涌とも仏知すべし。

おおよそ、法華のときは、かならず、父少而子老なり。

子の、子にあらざるにはあらず。

父の、父にあらざるにはあらず。

まさに、子は老なり、父は少なり、と、ならうべし。

世の不信にならうて、おどろくことなかれ。

世の不信なるは法華の時なり。

これをもって一時仏住を転、法華すべし。

開示悟入に転ぜられて地涌し、仏之知見に転ぜられて地涌す。

この転、法華のとき、法華の心、悟あるなり、心、悟の法華あるなり。

あるいは、下方という、すなわち、空中なり。

この下、この空、すなわち、転、法華なり、すなわち、仏寿量なり。

仏寿と法華と法界と一心とは、下とも現成し、空とも現成する、と転、法華すべし。

かるがゆえに、下方空というは、すなわち、転、法華の現成なり。

おおよそ、このとき、法華を転じて三草ならしむることあり、法華を転じて二木ならしむることもあり。

有、覚とまつべきにあらず。

無、覚とあやしむべきにあらず。

自、転じて発菩提なるとき、すなわち、南方なり。

この成道、もとより南方に集会する霊山なり。

霊山、かならず、転、法華なり。

虚空に集会する十方仏土あり。

これ、転、法華の分身なり。

すでに十方仏土と転、法華す、一微塵のいるべきところなし。

色即是空の転、法華あり、若、退、若、出にあらず。

空即是色の転、法華あり、無有、生死なるべし。在世というべきにあらず、滅度のみにあらんや?

われに親友なるは、われも、かれに親友なり。

親友の礼勤、わするべからざるゆえに、髻珠をもあたう、衣珠をもあたうる時節、よくよく究尽すべし。

仏前に宝塔ある転、法華あり、高五百由旬なり。

塔中に仏坐する転、法華あり、量二百五十由旬なり。

従地涌出、住在空中の転、法華あり、心も罣礙なし、色も罣礙なし。

従空涌出、住在地中の転、法華あり、まなこにもさえらる、身にもさえらる。

塔中に霊山あり。

霊山に宝塔あり。

宝塔は虚空に宝塔し、虚空は宝塔を虚空す。

塔中の古仏は座を霊山のほとけにならべ、霊山のほとけは証を塔中のほとけに証す。

霊山のほとけ、塔中へ証、入するには、すなわち、霊山の依正ながら、転、法華、入するなり。

塔中のほとけ、霊山に涌出するには、古仏土ながら、久滅度ながら、涌出するなり。

涌出も転入も、凡夫、二乗にならわざれ。転、法華を学すべし。

久滅度は、仏上にそなわれる証、荘厳なり。

塔中と、仏前と、宝塔と、虚空と、霊山にあらず、法界にあらず、半段にあらず、全界にあらず。

是法位のみにかかわれず、非思量なるのみなり。

或現仏身、而為説法。或現此身、而為説法なる転、法華あり。

或現提婆達多なる転、法華あり。

或現退亦佳矣なる転、法華あり。

合掌瞻仰待、かならず、六十小劫と、はかることなかれ。

一心待の量をつづめて、しばらく、いく無量劫というとも、なお、これ、不能測仏智なり。

待なる一心、いく仏智の量とかせん?

この転、法華は、本行菩薩道のみなりと認ずることなかれ。

法華一座のところ、今日如来説大乗と転、法華なる功徳なり。

法華の、いまし法華なる、不覚不知なれども、不識、不会なり。

しかあれば、五百塵点は、しばらく、一毛許の転、法華なり。

赤心片片の仏寿の開演せらるるなり。


おおよそ、震旦に、この経つたわれ、転、法華してより、このかた、数百歳、あるいは、疏釈をつくるともがら、ままに、しげし。

また、この経によりて上人の法をうるもあれども、いま、われらが高祖、曹谿古仏のごとく、法華、転の宗旨をえたる、なし、転、法華の宗旨、つかう、あらず。

いま、これをきき、いま、これにあう、古仏の、古仏にあうにあえり、古仏土にあらざらんや?

よろこぶべし。

劫より劫にいたるも法華なり。

昼より夜にいたるも法華なり。

法華、これ、従劫至劫なるがゆえに。

法華、これ、乃昼乃夜なるがゆえに。

たとえ自身心を強弱すとも、さらに、これ、法華なり。

あらゆる如是は珍宝なり、光明なり、道場なり、広大深遠なり、深大久遠なり、心迷法華転なり、心悟転法華なる。

実に、これ、法華、転、法華なり。

心、迷、法華、転。

心、悟、転、法華。

究尽、能、如是、法華、転、法華。

かくのごとく供養、恭敬、尊重、讃歎する、法華、是、法華なるべし。


正法眼蔵 法華転法華


仁治二年辛丑、夏安居日、これをかきて慧達禅人にさずく。

これ、出家、修道を感喜するなり。

ただ鬢髪をそる、なお、好事なり。

かみをそり、また、かみをそる、これ、真出家児なり。

今日の出家は、従来の転、法華、如是力の如是果報なり。

いまの法華、かならず、法華の法華果あらん。

釈迦の法華にあらず、諸仏の法華にあらず、法華の法華なり。

ひごろの転、法華は、如是相も不覚不知にかかれり。

しかあれども、いまの法華、さらに、不識、不会にあらわる。

昔時も出息入息なり、今時も出息入息なり。

これを妙難思の法華と保任すべし。


開山、観音導利興聖宝林寺、入宋、伝法、沙門、道元、記。 (押華字)

嘉元三年乙巳、孟春、初、於、宝慶寺、書写、了。

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