正法眼蔵 嗣書
仏仏、かならず、仏仏に嗣法し、
祖祖、かならず、祖祖に嗣法する。
これ、証契なり。
これ、単伝なり。
このゆえに、無上菩提なり。
仏にあらざれば、仏を印、証すること、あたわず。
仏の印、証をえざれば、仏となることなし。
仏にあらずよりは、だれが、これを最尊なりとし、無上なりと印可することあらん?
仏の( or 仏に)印、証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。
このゆえに、仏仏、証、嗣し、祖祖、証契す、というなり。
この道理の宗旨は、仏仏にあらざれば、あきらむべきにあらず。
いわんや、十地等覚の所量ならんや?
いかに、いわんや、経師、論師、等の測度するところならんや?
たとえ為説すとも、かれら、きくべからず。
仏仏、相嗣するがゆえに、しるべし、仏道は、ただ仏仏の究尽にして、仏仏にあらざる時節あらず。
たとえば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣することあり。
菊も相嗣あり、松も印、証するに、みな、前菊、後菊、如如なり、前松、後松、如如なるがごとし。
かくのごとくなるをあきらめざるともがら、仏仏、正伝の道にあうといえども、いかにある道得ならん? とあやしむにも、およばず。
仏仏、相嗣し、祖祖、証契す、という領覧あることなし。
あわれむべし、仏種族に相似なりといえども、仏子にあらざることを、子仏にあらざることを。
曹谿、あるとき、衆にしめして、いわく、
七仏より慧能にいたるに四十仏あり。
慧能より七仏にいたるに四十祖あり。
この道理、あきらかに仏祖、正嗣の宗旨なり。
いわゆる、七仏は、過去、荘厳劫に出現せるもあり、現在、賢劫に出現せるもあり。
しかあるを、四十祖の面授をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり。
しかあれば、すなわち、六祖より向上して七仏にいたれば、四十祖の仏嗣あり。
七仏より向下して六祖にいたるに四十仏の仏嗣なるべし。
仏道、祖道、かくのごとし。
証契にあらず、仏祖にあらざれば、仏智慧にあらず、祖究尽にあらず。
仏智慧にあらざれば、仏信受なし。
祖究尽にあらざれば、祖証契せず。
しばらく、四十祖というは、ちかきをかつ(かつ)挙するなり。
これによりて、仏仏の相嗣すること、深遠にして、不退不転なり、不断不絶なり。
その宗旨は、釈迦牟尼仏は七仏已前に成道すといえども、ひさしく迦葉仏に嗣法せるなり。
降生より三十歳、十二月八日に成道すといえども、七仏已前の成道なり。
諸仏斉肩同時の同、成道なり。
諸仏已前の成道なり。
一切の諸仏より末上の成道なり。
さらに、迦葉仏は釈迦牟尼仏に嗣法する、と参究する道理あり。
この道理をしらざるは、仏道をあきらめず。
仏道をあきらめざれば、仏嗣にあらず。
仏嗣というは、仏子ということなり。
釈迦牟尼仏、あるとき、阿難に、とわしむ、
過去の諸仏は、これ、だれが弟子なるぞ?
釈迦牟尼仏の、いわく、
過去の諸仏は、これ、我、釈迦牟尼仏の弟子なり。
諸仏の仏義、かくのごとし。
この諸仏に奉覲して、仏嗣を成就せん( or 成就せしむ)、すなわち、仏仏の仏道にてあるべし。
この仏道、かならず、嗣法するとき、さだめて、嗣書あり。
もし嗣法なきは、天然外道なり。
仏道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか、今日にいたらん?
これによりて、仏仏なるには、さだめて、仏嗣仏の嗣書あるなり、仏嗣仏の嗣書をうるなり。
その嗣書の為体は、日月星辰をあきらめて嗣法す。
あるいは、皮肉骨髄を得せしめて嗣法す。
あるいは、袈裟を相嗣し、
あるいは、拄杖を相嗣し、
あるいは、松枝を相嗣し、
あるいは、払子を相嗣し、
あるいは、優曇華を相嗣し、
あるいは、金襴衣を相嗣す。
靸鞋の相嗣あり、
竹箆の相嗣あり。
これらの嗣法を相嗣するとき、
あるいは、指血をして嗣書し、
あるいは、舌血をして嗣書す。
あるいは、油、乳をもってかき嗣法する。
ともに、これ、嗣書なり。
嗣せるもの、得せるもの、ともに、これ、仏嗣なり。
まことに、それ、仏祖として現成するとき、嗣法、かならず、現成す。
現成するとき、期せざれども、きたり、もとめざれども、嗣法せる、仏祖、おおし。
嗣法あるは、かならず、仏仏、祖祖なり。
第二十八祖、西来より、このかた、仏道に嗣法ある宗旨を、東土に正聞するなり。
それより、さきは、かつて、いまだ、きかざりしなり。
西天の論師、法師、等、およばず、しらざるところなり。
および、十聖三賢の境界、およばざるところ、三蔵義学の呪術師、等は、あるらん? と疑著するにも、およばず。
かなしむべし、かれら、道器なる人身をうけながら、いたずらに教網にまつわれて、透脱の法をしらず、跳出の期を期せざることを。
かるがゆえに、学道を審細にすべきなり。
参究の志気をもっぱらすべきなり。
道元、在宋のとき、嗣書を礼拝することをえしに、多数の嗣書ありき。
そのなかに、惟一西堂とて、天童に掛錫せしは、越上の人事なり。
前住、広福寺の堂頭なり。
先師と同郷人なり。
先師、つねに、いわく、境風は一西堂に問取すべし。
あるとき、西堂、いわく、
古蹟の可観は人間の珍玩なり。いくばくか見来せる?
道元、いわく、
見来すくなし。
ときに、西堂、いわく、
吾那裏に一軸の古蹟あり。恁麼、次第なり、与老兄看、
と、いいて、携来をみれば、嗣書なり。
法眼下の嗣書にてありけるを、老宿の衣鉢のなかよりえたりけり。
惟一長老のには、あらざりけり。
かれに、かきたりしは、
初祖、摩訶迦葉、悟、於、釈迦牟尼仏。
釈迦牟尼仏、悟、迦葉仏。
かくのごとく、かきたり。
道元これをみしに、正嫡の正嫡に嗣法あることを決定、信受す。
未曾見の法なり。
仏祖の、冥感して、児孫を護持する時節なり。
感激、不勝なり。
雲門下の嗣書とて、宗月長老の、天童の首座職に充せしとき、道元にみせしは、いま嗣書をうる人の、つぎ、かみの師、および、西天、東地の仏祖をならべ、つらねて、その下頭に、嗣書をうる人の名字あり。
諸仏祖より直に、いまの新祖師の名字につらぬるなり。
しかあれば、如来より四十余代ともに、新嗣の名字へきたれり。
たとえば、各々の、新祖にさずけたるがごとし。
摩訶迦葉、阿難陀、等は余門のごとくに、つらなれり。
ときに、道元、宗月首座にとう、
和尚、いま、五家の宗派をつらぬるに、いささか同異あり。
その、こころ、いかん?
西天より嫡嫡相嗣せらば、なんぞ、同異あらんや?
宗月、いわく、
たとえ、同異、はるかなりとも、ただ、まさに、雲門山の仏は、かくのごとくなる、と学すべし。
釈迦老師、なにによりてか、尊重、他なる?
悟道によりて尊重なり。
雲門大師、なにによりてか、尊重、他なる?
悟道によりて尊重なり。
道元、この説をきくに、いささか領覧あり。
いま、江浙に大刹の主とあるは、おおく、臨済、雲門、洞山、等の嗣法なり。
しかあるに、臨済の遠孫と自称するやから、ままに、くはだつる不是あり。
(いわく、)善知識の会下に参じて、頂相、一幅、法語、一軸を懇請して、嗣法の標準にそなう。
しかあるに、一類の狗子あり。
尊宿のほとりに法語、頂相、等を懇請して、かくし、たくわうること、あまたあるに、晩年におよびて、官家に陪銭し、一院を討得して、住持職に補するときは、法語、頂相の師に嗣法せず、当代の名誉のともがら、あるいは、王、臣に親付なる長老、等に嗣法するときは、得法をとわず、名誉をむさぼるのみなり。
かなしむべし、末法、悪時、かくのごとくの邪風あることを。
かくのごとくのやからのなかに、いまだかつて一人としても、仏祖の道を夢にも見聞せる、あらず。
おおよそ、法語、頂相、等をゆるすことは、教家の講師、および、在家の男女、等にもさずく、行者、商客、等にも、ゆるすなり。
そのむね、諸家の録に、あきらかなり。
あるいは、そのひとにあらざるが、みだりに嗣法の証拠をのぞむによりて、一軸の書をもとむるに、有道のいたむところなりといえども、なまじいに援筆するなり。
しかのごときのときは、古来の書式によらず、いささか嗣吾( or 師吾)のよしをかく。
近来の法は、ただ、その師の会下にて得力すれば、すなわち、かの師を師と嗣法するなり。
かつて、その師の印をえざれども、ただ入室、上堂に咨参して、長連牀にあるともがら、住院のときは、その師承を挙するに、いとまあらざれども、大事、打開するとき、その師を師とせるのみ、おおし。
また、龍門、仏眼禅師、清遠和尚の遠孫にて、伝蔵主というものありき。
かの伝蔵主、また、嗣書を帯せり。
嘉定のはじめに、隆禅上座、日本国の人なりといえども、かの伝蔵主、やまいしけるに、隆禅、よく、伝蔵主を看病しけるに、勤労しきりなるによりて、看病の労を謝せんがために、嗣書をとりいだして、礼拝せしめけり。
みがたきものなり。
与、爾、礼拝、といいけり。
それより、このかた、八年ののち、嘉定十六年癸未、あきのころ、道元、はじめて天童山に寓止するに、隆禅上座、ねんごろに伝蔵主に請して、嗣書を道元にみせし。
その嗣書の様は、七仏よりのち臨済にいたるまで、四十五祖をつらねかきて、臨済よりのちの師は、一円相をつくりて、そのなかに、めぐらして、法諱と華字とをうつし、かけり。
新嗣は、おわりに、年月の下頭に、かけり。
臨済の尊宿に、かくのごとくの不同あり、としるべし。
先師、天童堂頭、ふかく、人の、みだりに嗣法を称することをいましむ。
まことに、先師の会は、これ、古仏の会なり、叢林の中興なり。
みずからも、まだらなる袈裟をかけず。
芙蓉山の道楷禅師の衲法衣、つたわれりといえども、上堂、陞座にもちいず。
おおよそ、住持職として、まだらなる法衣、かつて一生のうちに、かけず。
こころあるも、ものしらざるも、ともに、ほめき。真善知識なり、と尊重す。
先師、古仏、上堂するに、つねに諸方をいましめて、いわく、
近来、おおく、祖道に名をかれるやから、みだりに法衣を搭し、長髪をこのみ、師号に署するを出世の舟航とせり。
あわれむべし。
だれが、これをすくわん?
うらむらくは、諸方、長老、無道心にして、学道せざることを。
嗣書、嗣法の因縁を見聞せるもの、なお、まれなり。
百、千人中、一箇、也、無。
これ、祖道、陵夷( or 陵遅)なり。
かくのごとく、よのつねに、いましむるに、天下の長老、うらみず。
しかあれば、すなわち、誠心、弁道することあらば、嗣書あることを見聞すべし。
見聞することあるは、学道なるべし。
臨済の嗣書は、まず、その名字をかきて、
某甲子、われに参ず、ともかき、
わが会にきたれり、ともかき、
入、吾堂奥、ともかき、
嗣吾、ともかきて、
ついでのごとく、前代をつらぬるなり。
かれも、いささか、いいきたれる法訓あり。
いわゆる、宗趣は、(嗣は、)おわり、はじめにかかわれず、ただ真善知識を相見する的々の宗旨なり。
臨済には、かくのごとく、かけるもあり。
まのあたり、みしによりて、しるす。
了派、蔵主、者、威武人、也。
今、吾子、也。
徳光、参侍、径山、杲和尚。
径山、嗣、夾山、勤。
勤、嗣、楊岐、演。
演、嗣、海会、端。
端、嗣、楊岐、会。
会、嗣、慈明、円。
円、嗣、汾陽、照。
照、嗣、首山、念。
念、嗣、風穴、沼。
沼、嗣、南院、顒。
顒、嗣、興化、弉。
弉、是、臨済高祖之長嫡、也。
これは、阿育王山、仏照禅師、徳光、かきて派無際にあたうるを、天童の住持なりしとき、小師僧、智庾、ひそかに、もちきたりて、了然寮にて、道元にみせし。
ときに、大宋、嘉定十七年甲申、正月二十一日、はじめて、これをみる。
喜感、いくそばくぞ。
すなわち、仏祖の冥感なり。
焼香、礼拝して披看す。
この嗣書を請出することは、去年七月のころ、師広、都寺、ひそかに寂光堂にて、道元にかたれり。
道元、ちなみに、都寺にとう、
如今、だれ人が、これを帯持せる?
都寺、いわく、
堂頭老漢、那裏、有、相似( or 相嗣)。のちに、請出、ねんごろにせば、さだめて、みすることあらん。
道元、このことばをききしより、もとむる、こころざし、日夜に休せず。
このゆえに、今年、ねんごろに小師の智庾を屈請し、一片心をなげて請得せりしなり。
その、かける地は、白絹の表背せるに、かく。
表紙は、あかき錦なり。
軸は玉なり。
長、九寸ばかり、闊、七尺余なり。
閑人には、みせず。
道元、すなわち、智庾を謝す。
さらに、即時に堂頭に参じて焼香し、無際和尚に礼謝す。
ときに、無際、云、
這一段事、少、得見知。
如今、老兄、知得、便是、学道之実帰、也。
ときに、道元、喜感、無勝。
のちに、宝慶のころ、道元、台山、雁山、等に雲遊するついでに、平田の万年寺にいたる。
ときの住持は福州の元鼒和尚なり。
宗鑑、長老、退院ののち、鼒和尚、補す。
叢席を一興せり。
人事のついでに、むかしよりの仏祖の家風、往来せしむるに、大潙、仰山の令嗣話を挙するに、長老、いわく、
曾、看、我箇裏、嗣書、也? 否?
道元、いわく、
いかにして(か)、みることをえん?
長老、すなわち、みずから、たちて、嗣書をささげて、いわく、
這箇は、たとえ親人なりといえども、たとえ侍僧のとしをへたるといえども、これをみせしめず。
これ、すなわち、仏祖の法訓なり。
しかあれども、元鼒、ひごろ出城し、見、知府のために在城のとき、一夢を感ずるに、いわく、
大梅山、法常禅師とおぼしき高僧ありて、梅華、一枝をさしあげて、いわく、
もし、すでに船舷をこゆる実人あらんには、華をおしむことなかれ。
と、いいて、梅華をわれにあたう。
元鼒、おぼえずして、夢中に吟じて、いわく、
未、跨、船舷、好、与、三十棒。
しかあるに、不経、五日、与、老兄、相見。
いわんや、老兄、すでに船舷にまたがり、きたる。
この嗣書、また、梅華の綾にかけり。
大梅のおしうるところならん。
夢想と符合するゆえに、とりいだすなり。
老兄、もし、われに嗣法せん、と、もとむや?
たとえ、もとむとも、おしむべきにあらず。
道元、信感、おくところなし。
嗣書を請すべしといえども、ただ焼香、礼拝して、恭敬、供養するのみなり。
ときに、焼香侍者、法寧というあり、はじめて嗣書をみる、といいき。
道元、ひそかに思惟しき、
この一段の事、まことに、仏祖の冥資にあらざれば、見聞、なお、かたし。
辺地の愚人として、なにの、さいわいありてか、数番、これをみる?
感涙、霑、袖。
ときに、維摩室、大舎堂、等に閑闃、無人なり。
この嗣書は、落地梅、綾の、しろきに、かけり。
長、九寸余、闊、一尋余なり。
軸子は黄玉なり。
表紙は錦なり。
道元、台山より天童にかえる路程に大梅山、護聖寺の旦過に宿するに、
大梅、祖師きたりて、開華せる一枝の梅華をさずくる、霊夢を感ず。
祖鑑、もっとも仰憑するものなり。
その一枝華の縦横は一尺余なり。
梅華、あに、優曇華にあらざらんや?
夢中と覚中と、おなじく真実なるべし。
道元、在宋のあいだ、帰国よりのち、いまだ人にかたらず。
いま、わが洞山門下に、嗣書をかけるは、臨済、等にかけるには、ことなり。
仏祖の衣裏にかかれりけるを、青原高祖、したしく曹谿の机前にして、手指より浄血をいだして、かき、正伝せられけるなり。
この指血に、曹谿の指血を合して、書伝せられける、と相伝せり。
初祖、二祖のところにも、合血の儀、おこなわれけり、と相伝す。
これ、吾子、参、吾、などは、かかず、諸仏、および、七仏の、かきつたえられける嗣書の儀なり。
しかあれば、しるべし。
曹谿の血気は、かたじけなく、青原の浄血に和合し、青原の浄血、したしく、曹谿の親血に和合して、まのあたり、印、証をうることは、ひとり高祖、青原和尚のみなり。
余祖のおよぶところにあらず。
この事子をしれるともがらは、仏法は、ただ青原のみに正伝せる、と道取す。
正法眼蔵 嗣書
于、時、日本、仁治二年歳次辛丑、三月七日、観音導利興聖宝林寺、入宋、伝法、沙門、道元、記。
寛元癸卯、九月二十四日、掛錫、於、越前、吉田県、吉峰古寺、草庵 (華字)
先師、古仏、天童堂上、大和尚、しめして、いわく、
諸仏、かならず、嗣法あり。
いわゆる、
釈迦牟尼仏は、迦葉仏に嗣法す。
迦葉仏は、拘那含牟尼仏に嗣法す。
拘那含牟尼仏は、拘留孫仏に嗣法するなり。
かくのごとく、相嗣して、いまにいたる、と信受すべし。
これ、学仏の道なり。
ときに、道元、もうす、
迦葉仏、入涅槃ののち、釈迦牟尼仏、はじめて出世、成道せり。
いわんや、また、賢劫の諸仏、いかにしてか、荘厳劫の諸仏に嗣法せん?
この道理、いかん?
先師、いわく、
なんじがいうところは聴教の解なり、十聖三賢、等のみちなり。
仏祖、嫡嫡のみちにあらず。
わが、仏仏、相伝のみちは、しかあらず。
釈迦牟尼仏、まさしく、迦葉仏に嗣法せり、と、ならいきたるなり。
釈迦仏の、嗣法してのちに、迦葉仏は入涅槃す、と参学するなり。
釈迦仏、もし迦葉仏に嗣法せざらんは、天然外道と、おなじかるべし。
だれが、釈迦仏を信ずる、あらん?
かくのごとく、仏仏、相嗣して、いまにおよびきたれるによりて、箇箇仏ともに正嗣なり。
つらなれるにあらず。
あつまれるにあらず。
まさに、かくのごとく、仏仏、相嗣する、と学するなり。
諸阿笈摩教のいうところの劫量、寿量、等にかかわれざるべし( or かかわるべからず)。
もし、ひとえに、釈迦仏より、おこれり、といわば、わずかに二千余年なり、ふるきにあらず。
相嗣も、わずかに四十余代なり、あらたなる、といいぬべし。
この仏嗣は、しかのごとく学するにあらず。
釈迦仏は、迦葉仏に嗣法する、と学し、
迦葉仏は、釈迦仏に嗣法せり、と学するなり。
かくのごとく学するとき、まさに、諸仏、諸祖の嗣法にてあるなり。
このとき、道元、はじめて、仏祖の嗣法あることを稟受するのみにあらず、従来の旧窠をも脱落するなり。
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