正法眼蔵 礼拝得髄

修行、阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうること、もっともかたし。

その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麼人なるべし。

古今、人にあらず、野狐精にして善知識ならん。

これ、得髄の面目なり、導利なるべし。

不昧因果なり、爾我渠なるべし。

すでに導師を( or 導師に)相逢せんよりこのかたは、万縁をなげすてて、寸陰をすごさず、精進、弁道すべし。

有心にても修行し、無心にても修行し、半心にても修行すべし。

しかあれば、頭燃をはらい、翹足を学すべし。

かくのごとくすれば、訕謗の魔党におかされず、断臂得髄の祖さらに他にあらず、脱落身心の師すでに自なりき。

髄をうること、法をつたうること、必定して、至誠により、信心によるなり。

誠心、ほかよりきたるあとなく、内よりいづる方なし。

ただ、まさに、法をおもくし、身をかろくするなり。

世をのがれ、道をすみかとするなり。

いささかも、身をかえりみること、法よりも、おもきには、法、つたわれず、道、うることなし。

その法をおもくする志気、ひとつにあらず、他の教訓をまたずといえども、しばらく、一、二を挙拈すべし。

いわく、

法をおもくするは、

たとえ露柱なりとも、

たとえ灯籠なりとも、

たとえ諸仏なりとも、

たとえ野干なりとも、

鬼神なりとも、

男女なりとも、

大法を保任し吾髄を汝得せるあらば、身心を牀座にして、無量劫にも奉事するなり。

身心は、うることやすし。世界に稲麻竹葦のごとし。

法は、あうことまれなり。

釈迦牟尼仏の、いわく、

無上菩提を演説する師にあわんには、

種姓を観ずることなかれ。

容顔をみることなかれ。

非をきらうことなかれ。

行をかんがうることなかれ。

ただ般若を尊重するがゆえに、

日日に百、千両の金を食せしむべし。

天食をおくりて供養すべし。

天華を散じて供養すべし。

日日、三時に礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。

かくのごとくすれば、菩提の道、かならず、ところあり。

われ、発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。


しかあれば、若、樹、若、石も、とかまし、とねがい、若、田、若、里も、とかまし、と、もとむべし。

露柱に問取し、牆壁をしても参究すべし。

むかし、野干を師として礼拝、問法する天帝釈あり。大菩薩の称、つたわれり。依業の尊卑によらず。

しかあるに、不聞仏法の愚痴のたぐい、おもわくは、

われは大比丘なり。年少の得法を拝すべからず。

われは久修練行なり。得法の晩学を拝すべからず。

われは師号に署せり。師号なきを拝すべからず。

われは法務司なり。得法の余僧を拝すべからず。

われは僧正司なり。得法の(俗男、)俗女を拝すべからず。

われは三賢十聖なり。得法せりとも比丘尼等を(礼)拝すべからず。

われは帝胤なり、得法なりとも臣家相門を拝すべからず。

という。


かくのごとくの痴人、いたずらに父国をはなれて他国の道路に跉跰するによりて、仏道を見聞せざるなり。


むかし、唐朝の趙州、真際大師、こころをおこして発足、行脚せしちなみに、いう、

たとえ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われ、かれに、とうべし。

たとえ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われ、かれを、おしうべし。


七歳に問法せんとき、老漢、礼拝すべきなり。

奇夷の志気なり。

古仏の心術なり。

得道、得法の比丘尼、出世せるとき、求法、参学の比丘僧、その会に投じて礼拝、問法するは、参学、勝躅なり。

たとえば、渇に飲にあうがごとくなるべし。


震旦国の志閑禅師は臨済下の尊宿なり。


臨済、ちなみに、師のきたるをみて、とり、とどむるに、師、いわく、

領、也。

臨済、はなちて、いわく、

旦、放、爾、一頓。


これより、臨済の子となれり。


臨済をはなれて末山にいたるに、末山、とう、

近、離、甚所?

師、いわく、

路口。

末山、いわく、

なんじ、なんぞ蓋却しきたらざる?

師、無語、すなわち、礼拝して師資の礼をもうく。

師、かえりて、末山に、とう、

いかならんか、これ、末山?

末山、いわく、

不露、頂。

師、いわく、

いかならんか、これ、山中人?

末山、いわく、

非、男女等、相。

師、いわく、

なんじ、なんぞ変ぜざる?

末山、いわく、

これ、野狐精にあらず。なにをか変ぜん?

師、礼拝す。


ついに発心して園頭をつとむること始終三年なり。

のちに出世せりしとき、衆にしめして、いわく、

われ、

臨済爺爺のところにして半杓を得しき。

末山嬢嬢のところにして半杓を得しき。

ともに一杓につくりて喫しおわりて直、至、如今、飽飽飽なり。


いま、この道をききて、昔日のあとを慕古するに、

末山は高安大愚の神足なり。

命脈ちからありて、志閑の嬢となる。

臨済は黄檗運師の嫡嗣なり。

功夫ちからありて、志閑の爺となる。

爺とは、ちち、というなり。

嬢とは、はは、というなり。

志閑禅師の、末山尼了然を礼拝、求法する、志気の勝躅なり、晩学の慣節なり、撃関破節というべし。


妙信尼は仰山の弟子なり。

仰山、ときに、廨院主を選するに、仰山、あまねく勤旧、前資、等にとう、

だれ人か、その仁なる?

問答、往来するに、仰山、ついに、いわく、

信淮子、これ、女流なりといえども大丈夫の志気あり。まさに、廨院主とするに、たえたり。

衆、みな、応諾す。

妙信、ついに廨院主に充す。

ときに、仰山の会下にある龍象うらみず。

まことに、非細の職にあらざれども、選にあたらん自己としては自愛しつべし。

充職して廨院にあるとき、蜀僧、十七人ありて、党をむすびて尋師訪道するに、仰山にのぼらんとして薄暮に廨院に宿す。

歇息する夜話に、曹谿高祖の風幡の話を挙す。

十七人、おのおの、いうこと、みな、道不是なり。

ときに、廨院主、かべのほかにありて、ききて、いわく、

十七頭の瞎驢、おしむべし。いくばくの草鞋をか、ついやす? 仏法、也、未夢見在。

ときに、行者ありて、廨院主の、僧を不肯するをききて、十七僧にかたるに、十七僧ともに廨院主の不肯するをうらみず、おのれが道不得をはじて、すなわち、威儀を具し、焼香、礼拝して請問す。

廨院主、いはく、

近、前、来。

十七僧、近、前する、あゆみ、いまだやまざるに、廨院主、いはく、

不是、風動。不是、幡動。不是、心動。

かくのごとく為道するに、十七僧ともに有省なり、礼謝して師資の儀をなす。

すみやかに西蜀にかえる。

ついに仰山にのぼらず。


まことに、これ、三賢十聖のおよぶところにあらず。

仏祖嫡嫡の道業なり。

しかあれば、いまも、住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんを請すべし。

比丘の高年、宿老なりとも、得法せざらん、なにの要か、あらん?

為衆の主人、かならず、明眼によるべし。

しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にも、わらいぬべきこと、おおし。

いわんや、仏法には、いうにたらず。

また、女人および姉姑、等の伝法の師僧を拝、不肯ならん、と擬するもありぬべし。

これは、しることなく学せざるゆえに、畜生には、ちかく、仏祖には、とおきなり。

一向に仏法に身心を投ぜんことをふかく、たくわうるこころとせるは、仏法、かならず、人をあわれむことあるなり。

おろかなる人、天、なお、まことを感ずる、おもいあり。

諸仏の正位( or 正法)、いかでか、まことに感応する、あわれみなからん?

土石、沙礫にも、誠感の至神はあるなり。

見在、大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまうには、即、寺にて上堂す。

住持以下、衆僧みな、上参して立地、聴法するに、問話も比丘僧なり。これ、古来の規矩なり。

得法せらんは、すなわち、一箇の真箇なる古仏にてあれば、むかしの、だれにて相見すべからず。

かれ、われをみるに、新条の特地に相接す。

われ、かれをみるに、今日須入今日の相待なるべし。

たとえば、正法眼蔵を伝持せらん比丘尼は、四果、支仏、および、三賢十聖も、きたりて礼拝、問法せんに、比丘尼、この礼拝をうくべし。

男児、なにをもってか貴ならん?

虚空は虚空なり。

四大は四大なり。

五蘊は五蘊なり。

女流もまた、かくのごとし。

得道は、いずれも、得道す。

ただし、いずれも、得法を敬重すべし。

男女を論ずることなかれ。

これ、仏道、極妙の法則なり。

また、宋朝に居士というは、未出家の士(大)夫なり。

庵居して夫婦そなわれるもあり、また孤独、潔白なるもあり。

なお塵労、稠林というべし。

しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂、あつまりて礼拝、請益すること、出家の宗匠におなじ。

たとえ女人なりとも、畜生なりとも、また、しかあるべし。

仏法の道理、いまだゆめにもみざらんは、たとえ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまうべからず。ただ賓主の礼のみなり。

仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとえ七歳の女流なりとも、すなわち、四衆の導師なり、衆生の慈父なり。

たとえば、龍女成仏のごとし。

供養、恭敬せんこと、諸仏、如来にひとしかるべし。

これ、すなわち、仏道の古儀なり。

しらず、単伝せざらんは、あわれむべし。


また、和、漢の古今に、帝位にして女人あり。

その国土みな、この帝王の所領なり。

人みな、その臣となる。

これは人をうやまうにあらず、位をうやまうなり。

比丘尼もまた、その人をうやまうことは、むかしよりなし。ひとえに得法をうやまうなり。

また、阿羅漢となれる比丘尼のあるには、四果にしたがう功徳みな、きたる。

功徳、なお、したがう。

人、天、だれが四果の功徳よりも、すぐれん?

三界の諸天みな、およぶところにあらず。

しかしながら、すつるものとなる。

諸天みな、うやまうところなり。

いわんや、如来の正法を伝来し菩薩の大心をおこさん、だれの、うやまわざるか、あらん?

これをうやまわざらんは、おのれが、おかしなり。

おのれが無上菩提をうやまわざれば、謗法の愚痴なり。

また、わが国には、帝者のむすめ、あるいは、大臣のむすめの、后宮に準ずるあり。

また、皇后の院号せるあり。

これら、かみをそれるあり、かみをそらざるあり。

しかあるに、貪名愛利の比丘僧ににたる僧侶、この家門にはしるに、こうべをはきものにうたず、ということなし。

なお、主従よりも劣なり。

いわんや、また、奴僕となりて、としをふるも、おおし。

あわれなるかな、小国、辺地にうまれぬるに、かくのごときの、邪風とも、しらざることは。

天竺、唐土には、いまだなし。

我国のみなり。

かなしむべし。

あながちに鬢髪をそりて如来の正法をやぶる、深重の罪業というべし。

これ、ひとえに、夢幻、空華の世途をわするるによりて、女人の奴僕と繋縛せられたること、かなしむべし。

いたずらなる世途のため、なお、かくのごとくす。

無上菩提のため、なんぞ得法の、うやまうべきをうやまわざらん?

これは法をおもくするこころざし、あさく、法をもとむるこころざし、あまねからざるゆえなり。

すでに、たからをむさぼるとき、女人のたからにてあれば、うべからず、と、おもわず。

法をもとめんときは、このこころざしには、すぐるべし。

もし、しかあらば、草木、牆壁も正法をほどこす。

天地万法も正法をあたうるなり。

かならず、しるべき道理なり。

真善知識にあうといえども、いまだこの志気をたてて法をもとめざるときは、法水のうるおい、こうむらざるなり。

審細に功夫すべし。

また、いま、至愚のはなはだしき人おもうことは、女流は貪婬所対の境界にてあり、と、おもうこころをあらためずして、これをみる。

仏子、かくのごとく、あるべからず。

貪婬所対の境となりぬべし、とて、いむことあらば、一切男子もまた、いむべきか?

染汚の因縁となることは、男も境となる。

女も境縁となる。

非男非女も境縁となる。

夢幻、空華も境縁となる。

あるいは、水影を縁として非梵行あることありき。

あるいは、天日を縁として非梵行ありき。

神も境となる。

鬼も境となる。

その縁、かぞえつくすべからず。

八万四千の境界あり、という。

これ、みな、すつべきか? みるべからざるか?

律、云、

男、二所、女、三所、おなじく、これ、波羅夷、不、共住。


しかあれば、婬所対の境になりぬべし、とて、きらわば、一切の男子と女人と、たがいに、あいきらうて、さらに、得度の期、あるべからず。

この道理、子細に𢮦点すべし。

外道も妻なきあり。

妻なしといえども、仏法にいらざれば、邪見の外道なり。

仏弟子も在家の二衆は夫婦あり。

夫婦あれども、仏弟子なれば、人中、天上にも、肩をひとしくする余類なし。


また、唐国にも愚痴僧ありて、願志を立するに、いわく、

生生、世世、ながく、女人をみることなからん。


この願、なにの法にか、よる?

世法によるか?

仏法によるか?

外道の法によるか?

天魔の法によるか?

女人、なにの、とががある?

男子、なにの、徳がある?

悪人は男子も悪人なるあり。

善人は女人も善人なるあり。

聞法をねがい出離をもとむること、かならず、男子、女人によらず。

もし未断惑のときは、男子、女人、おなじく、未断惑なり。

断惑、証理のときは、男子、女人、簡別、さらにあらず。

また、ながく女人をみじ、と願せば、衆生無辺誓願度のときも、女人をば、すつべきか?

すてては菩薩にあらず。仏、慈悲といわんや?

ただ、これ、声聞の酒にようことふかきによりて、酔狂の言語なり。

人、天、これをまことと信ずべからず。

また、むかし犯罪ありし、とて、きらわば、一切菩薩をも、きらうべし。

もし、のちに犯罪ありぬべし、とて、きらわば、一切発心の菩薩をも、きらうべし。

かくのごとく、きらわば、一切みな、すてん。なにによりてか仏法、現成せん?

かくのごとくのことばは、仏法をしらざる痴人の狂言なり。

かなしむべし。

もし、なんじが願のごとくにあらば、釈尊、および、在世の諸菩薩みな、犯罪ありけるか? また、なんじより菩提心も、あさかりけるか?

しずかに観察すべし。

付、法蔵の祖師、および、仏在世の菩薩、この願なくば、仏法にならうべきところや、ある? と参学すべきなり。

もし汝が願のごとくにあらば、女人を済度せざるのみにあらず、得法の女人、よにいでて人、天のために説法せんときも、きたりて、きくべからざるか?

もし、きたりて、きかずば、菩薩にあらず、すなわち、外道なり。

今、大宋国をみるに、久修練行に似たる僧侶の、いたずらに海沙をかぞえて、生死海に流浪せるあり。

女人にてあれども、参尋知識し弁道功夫して人、天の導師にてある、あり。

餅をうらず餅をすてし老婆、等あり。

あわれむべし、男子の比丘僧にてあれども、いたずらに教海のいさごをかぞえて、仏法は夢にもいまだみざることを。

おおよそ、境をみては、あきらむることをならうべし。

おじて、にぐる、とのみ、ならうは、小乗、声聞の教行なり。

東をすてて西にかくれん、とすれば、西にも境界、なきにあらず。

たとえ、にげぬるとおもう、と、あきらめざるにも、遠にても境なり。

なお、これ、解脱の分にあらず。

遠境は、いよいよ、ふかかるべし。


また、日本国に、ひとつの、わらいごとあり。

いわゆる、あるいは、結界の境地と称し、あるいは、大乗の道場と称して、比丘尼、女人、等を来入せしめず。

邪風、ひさしく、つたわれて、人、わきまうることなし。

稽古の人、あらためず。

博達の士も、かんがうることなし。

あるいは、権者の所為と称し、あるいは、古先の遺風と号して、さらに論ずることなき。

笑わば、人の腸も、たえぬべし。

権者とは、なにものぞ?

賢人か?

聖人か?

神か?

鬼か?

十聖か?

三賢か?

等覚?

妙覚か?

また、ふるきをあらためざるべくば、生死流転をば、すつべからざるか?

いわんや、大師、釈尊、これ、無上正等覚なり。

あきらむべきは、ことごとく、あきらむ。

おこなうべきは、ことごとく、これをおこなう。

解脱すべきは、みな、解脱せり。

いまの、たれが、ほとりにも、およばん?

しかあるに、在世の仏会に、みな、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、等の四衆あり、八部あり、三十七部あり、八万四千部あり。

みな、これ、仏界を結せること、あらたなる仏会なり。

いずれの会か比丘尼なき? 女人なき? 八部なき?

如来在世の仏会よりも、すぐれて清浄ならん結界をば、われら、ねがうべきにあらず。天魔界なるがゆえに。

仏会の法儀は、自界、他方、三世千仏、ことなることなし。

ことなる法あらんは、仏会にあらず、と、しるべし。

いわゆる、四果は極位なり。

大乗にても、小乗にても、極位の功徳は差別せず。

しかあるに、比丘尼の四果を証する、おおし。

三界のうちにも、十方の仏土にも、いずれの界にか、いたらざらん?

だれが、この行履をふさぐことあらん?

また、妙覚は無上位なり。

女人、すでに作仏す、諸方、いずれのものか、究尽せられざらん?

だれが、これをふさぎて、いたらしめざらん、と擬せん?

すでに遍照、於、十方の功徳あり。界畔、いかがせん?

また、天女をも、ふさぎて、いたらしめざるか?

神女をも、ふさぎて、いたらしめざるか?

天女、神女も、いまだ断惑の類にあらず、なお、これ、流転の衆生なり。

犯罪あるときは、あり、なきときは、なし。

人女、畜女も、罪あるときは、あり、罪なきときは、なし。

天のみち、神のみち、ふさがん人は、だれぞ?

すでに三世の仏会に参詣す、仏所に参学す。

仏所、仏会にことならん。

だれが仏法と信受せん?

ただ、これ、誑惑、世間人の至愚なり。

野干の、窟穴を人にうばわれざらん、と、おしむよりも、おろかなり。

また、仏弟子の位は、菩薩にもあれ、たとえ声聞にもあれ、第一、比丘、第二、比丘尼、第三、優婆塞、第四、優婆夷、かくのごとし。

このくらい、天上、人間ともに、しれり。

ひさしく、きこえたり。

しかあるを、仏弟子第二の位は、転輪聖王よりも、すぐれ、釈提桓因よりも、すぐるべし。

いたらざるところ、あるべからず。

いわんや、小国、辺土の国王、大臣の位に、ならぶべきにあらず。

いま、比丘尼、いるべからず、という道場をみるに、田夫、野人、農夫、樵翁、みだれいる。

いわんや、国王、大臣、百官、宰相、だれが、いらざるあらん?

田夫、等と比丘尼と、学道を論じ、得位を論ぜんに、勝劣、ついに、いかん?

たとえ世法にて論ずとも、たとえ仏法にて論ずとも、比丘尼のいたらんところへ、田夫、野人、あえて、いたるべからず。

錯乱のはなはだしき、小国、はじめて、このあとをのこす。

あわれむべし。

三界慈父の長子、小国にきたりて、ふさぎて、いたらしめざるところありき。

また、かの結界と称するところにすめるやから、十悪をおそるることなし。

十重、つぶさに、おかす。

ただ造罪界として、不造罪人をきらうか?

いわんや、逆罪をおもきこととす。

結界の地にすめるもの、逆罪もつくりぬべし。

かくのごとくの魔界は、まさに、やぶるべし。

仏化を学すべし。

仏界にいるべし。

まさに、仏恩を報ずるにてあらん。

かくのごとくの古先、なんじ、結界の旨趣をしれりや? いなや?

だれよりか相承せりし?

だれが印をか、こうむる?

いわゆる、この、諸仏、所結の大界にいるものは、諸仏も、衆生も、大地も、虚空も、繋縛を解脱し、諸仏の妙法に帰源するなり。

しかあれば、すなわち、この界をひとたびふむ衆生、しかしながら、仏功徳をこうむるなり。

不違越の功徳あり。

得、清浄の功徳あり。

一方を結するとき、すなわち、法界みな結せられ、一重を結するとき、法界みな結せらるるなり。

あるいは、水をもって結する界あり。

あるいは、心をもって結界することあり。

あるいは、空をもって結界することあり。

かならず、相承相伝ありて、しるべきことあり。

いわんや、結界のとき、灑、甘露ののち、帰命の礼、おわり、乃至、浄界、等ののち、頌、云、

茲界、遍法界、無為、結、清浄。


この旨趣、いま、ひごろ、結界と称する古先、老人、しれりや? いなや?

おもうに、なんだち、結の中に遍法界の結せらるること、しるべからざるなり。

しりぬ。

なんじ、声聞の酒にようて、小界を大界とおもうなり。

ねがわくば、ひごろの迷酔、すみやかに、さめて、諸仏の大界の遍界に違越すべからず。

済度、摂受に一切衆生みな、化をこうむらん功徳を礼拝、恭敬すべし。

だれが、これを得、道髄といわざらん?


正法眼蔵 礼拝得髄

延応庚子、清明日、記、観音導利興聖宝林寺。

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