13

 

 時計を確かめると二十一時を過ぎていた。そろそろ帰らないと、立夏が帰宅する時間に間に合わない。

「塩谷、ほらこないだのやつ」

 駅の裏手にあるファストフードの店内は、近くに大手の進学塾があるせいか、塾帰りの学生で賑わっていた。

「悪い。助かるよ」

「いいけど。でもさあ僕年上ってホントはちょー苦手なんだよね。この借りは今度返してよ?」

「分かってるよ」

 受け取ったものを鞄に仕舞い込んで俊臣は立ち上がった。

 隣に座っていた同級生の本庄が、驚いた顔をした。

「え、帰るの? 今来たばっかじゃん。何か食べれば」

 いや、と俊臣は首を振った。

「家に用意されてるから」

「ふえー、…なるほどねえ」

 ハンバーガーに齧りつきながら本庄は何とも言えない声を上げた。

「じゃあまた」

 また明日、と本庄がひらりと手を振るより早く、俊臣は店の出口に向かっていた。

「愛だねえ」

 それを目で追いながら、誰に言うでもなく本庄は呟いた。


***


 テーブルに座る女の、こちらに向けられた視線が艶めかしかった。

 う、わあ、苦手…

「えーと、ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

 マニュアル通りに言ったおれに女性客はこくりと頷いた。決められた角度で頭を下げ、顔を上げたところで何かがさっと頬に触れた。

「高校生?」

 手だ。

「や、違いますけど」

「そうなんだあ。あ、ごめんね?」

 手当たっちゃったね、とにこりと笑ってテーブルからやけにはみ出た手を引っ込める。まるで偶然みたいに見えるけれど、多分わざとだ。

「いえ全然。それじゃ、お待ちください」

 おれは愛想笑いを返してテーブルを離れた。カウンターから厨房を覗き込むと、同期が立っていた。こいつ見てたな。

「9番オーダー入りましたあ」

「神崎」

 注文票を受け取った同期の──吉沢の目元は意味ありげに笑っている。

「おまえまーた絡まれてんじゃん」

「うるさいよ」

 偶然偶然、と歌うように言うと、吉沢はマスクをしていても分かるほどにやにやとした。

「どーだかねーえ、これで四人目―」

 ほーら、とおれは注文票を軽く叩いた。

「仕事しろよ、待ってんぞ、カルボナーラとオニオンスープ!」

「はいはい、はいよー」

 そう言って奥に引っ込んでいく厨房服の背中を見て肩を竦めると来客のチャイムが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 意外と夜に来る客は多い。

 おれは慌てて入口まで出迎えに行った。



 吉沢の言ったことはあながち間違いじゃない。ある意味では当たっていて、思い返せば昔から時々、なぜかおれは女の人に執着されることがあった。それは決まっておれのよく知らない人で、中には全く面識のない人もいた。彼女たちは──自分で把握している限り三人だったと思う──大抵の場合おれに直接何かをしてくることもなかったが、背中に纏わりつくような視線を時折感じて、神経を尖らせたことがある。

 あれは中学のときだったか。

 二葉とくっついて、すぐに別れた頃だ。別れたと言ってもお互い友達のままだったから、よく一緒にいて…、ああそうだ。あのときが一番きつかったっけ。

 その知らない誰かは直接おれに言えない好意を真逆に歪め、異性としておれの一番傍にいた二葉に向けたのだ。

『ちょっと! またあんたの信奉者ファンが私に嫌がらせするんだけど!』

 放課後、おれがひとりになった隙を見計らって、二葉は部室に入ってきた。ドアも閉めずに大声で放った言葉が、廊下に響き渡る。

 おれに見えるように突きだした手には、綺麗にふたつに折られたペンがあった。二葉の好きなキャラクターの描かれたそれは、アミューズメントパーク限定商品で、しかも数量限定販売のやつだった。付き合わされて一緒に買いに行ったのはついこの間で、朝から長い行列に並んでやっと買うことが出来たものだ。

『うわ…、またかよ』

『どーなってんのよもおおおっ、もう買えないのにいいい』

『ごめん二葉、おれのやるから』

 珍しく泣きそうな顔をした二葉にそう言って、おれは自分の鞄を漁った。並んだとき、せっかくだからとおれも同じものを買っていたので、それを渡そうとしたが、開けたペンケースの中のどこにもペンは見当たらなかった。

『…あれ?』

 ない。

 確かに入れていたはずのそれは、なくなっていた。

『ないの?』

 戸惑いつつも、俺はうんと頷いた。

『あんたも変なのに好かれてるわよね』

 あちこち探すおれに同情したように、二葉は言った。

『こういうのもさあ、どっかで聞いてんじゃないの?』

 ばっと振り向き、開け放したドアの向こうに向かって、二葉は声を張り上げた。

『迷惑だからっ、やめて欲しいんですけど!』

『ふたばっ、おいやめろ…っ』

 慌てて止めたおれを、二葉は呆れた目で見返した。

『だって同じ学校の中にいるの、気持ち悪いよ!』

『分かったから』

『立夏っ』

『もういいから、そこ閉めろよ』

『そういうの、優しさでもなんでもないわよ、はっきり言わなきゃ! こういうことするやつはね、分かんないのよっ』

『二葉っ』

『自分がどんだけ性もないことしてるか、あんたに言えば済むことなのに、ほんと馬鹿じゃないの!』

『ちょっ…っ!』

 バタン、と立ち上がったおれはドアに駆け寄って思い切り音を立てて閉めた。閉めたところで二葉の大声はもう取り返しがつかないけれど、このまま話すより少しはましだ。

 きっとその誰かは外で聞いている。

 このときの誰かは、学校の中にいた。

 そうでなければこんなことは出来ない。

 同級生やクラスメイトや、見も知らない他の学年の誰かだ。

『もういいから、あんな言い方するなよ』

『なんでよ』

『またおまえに何かあったらおれ嫌だもん』

『……』

『な?』

 刺激して挑発して、ペンで済まなくなったらそれこそ冗談ではなくなってしまう。

 二葉は強いけれど。

 いつも強いとは限らないのだし。

 黙り込んだ二葉は不貞腐れたような顔をおれに向けた。

『……じゃあ、なんか、代わりの立夏が買ってよ』

『おう、いいよ』

 何がいい? と訊くと、二葉は代わりのペンが欲しいと言った。

『おっけ、ペンな』

『今から! 今日買いに行きたい、それで甘いの食べたい』

『あーはいはい…』

 荷物を纏め、帰り支度をして部室を出た。

 そのあともずっと、二葉を家まで送り家に帰り着くまで、おれは背中に誰かの視線を感じていた。

 その行動の心理はよく分からない。けれど、でも──どこか、共感出来てしまうのだ。

 そのときはもう、おれも誰にも言えない気持ちを抱えていたから。

『ただいま…』

 家の中から、おかえり、といつものように俊臣の声が聞こえてきた。リビングに入り顔を見たとき、心底ほっとしたのを今でも憶えている。



「ありがとうございました。またお越しください」

 おれの頬に触れた女性客を見送り、彼女の姿が完全に見えなくなってから、おれは手の中の紙片を開いた。そこには電話番号とメールアドレスが記されている。女性客が会計のときに紙幣と一緒におれに握らせたものだ。あからさますぎる好意に思わず苦笑してしまう。

 どうせならあれくらい分かりやすい方がいいよな。

『よかったら連絡してね』

 まあしないけど。

 ──ずっと、先輩のこと好きでした。最後に伝えておきたくて、あの、ネクタイ貰ってもいいですか?

 卒業式のときに教室までおれを尋ねて来て、ネクタイを欲しいと言ってくれた後輩のことを、ふと懐かしく思い出した。

 彼女はあれをどうしたんだろう? 大事そうに受け取っていた後輩は、今も俺のことを想ってるんだろうか?

 まあ、そんなわけないか。人の気持ちなんて、すぐに変わっていくのに。

「お疲れ神崎くん、休憩入ってー」

「はーい」

 奥のスタッフ専用のドアからチーフが顔を出した。おれは振り向いて返事をする。

 手の中の紙を握り潰して、そこにあったごみ箱に捨てた。


***


 バイトを終えてアパートに着くと、もう二十四時に近かった。今夜はあれからも何かと面倒な客が来て、ひどく疲れてしまった。

 ホールに変わってから今日で一週間が過ぎた。

 帰り際にチーフから明日には新しいバイトが入ると言われたが、結局その子のトレーニングが終わるまで、おれはホールにいるしかなさそうだった。

「はあ…」

 早く人目につかない厨房に戻りたい。

 階段を上りかけて、郵便受けを見ていないことに気づいた。最近全く確認していなかったから、多分一週間分くらいはあるはずだ。

「わっ」

 引き返して小さな扉を開けた途端、溜まりに溜まっていたチラシやDMが雪崩のようにばさばさと足下のコンクリートに落ちた。

「あーあー…もう」

 要らないのになんでこんなに入れるかなあ。

 学生アパートに分譲マンションのチラシ入れるってどういう心境なの…

 散らばったそれを掻き集めて一纏めにし、郵便受けを閉めた。階段を上がってドアの前に立ち、深呼吸してから鍵を開ける。

 入るまえに気持ちを落ち着かせるのが、もう習慣になってしまった。

「…ただいまあ」

 奥から物音がする。ドアが開いて俊臣が顔を覗かせた。

「おかえり」

 部屋着に着替えている姿に、内心でほっと安堵した。

 今日はちゃんと帰ってた。

 こっちに来てからずっと、俊臣は帰りが遅かった。自習室に寄って勉強してるみたいだけど、昨日はおれよりも遅く帰って来て、さすがにいい加減にしろと怒ってしまった。

『言っとくけどおまえまだ高校生なんだからな、何かあってからじゃ遅いんだぞ!』

 俊臣は何か言いたげな目でおれを見つめたあと、分かった、と頷いた。

「飯喰った?」

「食べたよ」

「そっか」

 手を洗いリビングに入ってキッチンを覗くと、綺麗に片付いていた。

 朝用意した夕飯の皿が洗って伏せられている。

 抱えていた郵便物を、おれはキッチンの調理台の上に置いた。部屋の隅には引っ越しの準備のために近所のスーパーから貰ってきた段ボールが数枚、立てかけてある。

 ああ、片付けもしないと。

 荷物はさほどないけれど面倒なことに変わりない。

 やることがいっぱいだと思った瞬間、感じていた疲れがどっと倍になったような気がして、ずしりと体が重くなった。

「おれ風呂入るから、もう寝てろよ」

 俊臣はおれが出てくるまで待ってることが多い。

 コートを脱ぎ着替えを持って背中を向けると、りつ、と呼び止められた。

「ん?」

「何かあった?」

 一瞬言葉に詰まる。なにもないけれど、色々思い出してしまったからそれが顔に出てたんだろうか。

「なんにもないよ?」

 また背を向けたおれに俊臣は何も言わなかった。ドアを閉めて風呂場に入る。

 熱いシャワーを浴びながら、明日の講義が遅い時間でよかったと心底思っていたおれは、ドアの向こうで俊臣がどんな顔をしていたか、知りようもなかった。


***


 翌朝目覚めると俊臣はもういなかった。

 あれ?

 手を伸ばして携帯を手繰り寄せる。

 時計は九時を回っていた。高校はとっくに始業の時間だ。

「あー…しまった…っ」

 慌てておれは起き上がった。

 あいつ何か食べて行ったんだろうか。

 見れば、キッチンに積み重ねた郵便物の横にあった買い置きの食パンが半分減っていた。

 パンと、何食べた?

 開けた冷蔵庫の中はまるで手付かずだった。俊臣の朝食用にと買っていたハムも、昨日残り3つだった卵も、3つのままだ。

「くそ、パンだけかよ…」

 あんなでかい体していてそれはなくない?

 腹は減らないんだろうか。

 ほんとに料理しないよなあ。

 仕方がないと諦めて、おれは顔を洗って身支度を整えた。残ってい食パンを焼き、目玉焼きを作る。その合間に俊臣の夕飯を用意した。いつものように炒飯だけど、まあいいか。

 出来上がって皿に載せたところで携帯が鳴った。

 二葉だ。

「? もしもし?」

 こんな朝早くになんだ?

『立夏元気―?』

 やたら元気な声におれは苦笑した。

「元気だけど。おれ今から飯食うところだからさ」

 焼けた食パンに立ったままバターを塗りながら、おれは言った。

『ふーん、なんか俊臣くんがそっちにいるって聞いたから電話してみたのよね』

「暇だなおまえ」

『いいじゃん、今日ウチの短大休みだもん』

「こっちは休みじゃねえんだけどー?」

 もう立ったまま食べるかと、おれはバターを塗ったパンを齧った。沸かしていたお湯でインスタントのカフェオレを作る。

「で、俊臣がこっちにいるって何で知ってんの」

 熱いカフェオレを一口飲み、目玉焼きを箸で切り取った。

『後輩から聞いたのよねー。部活の。めちゃめちゃ残念がってて泣いてたからさ』

「ふーん…」

『新しい高校でしょ、あんたの大学の近くだって。皆あんたを追っかけて俊臣くんが行っちゃったって噂してる』

「…なにそれ」

 笑える。

 皆何考えてるんだか。

 可笑しそうに二葉が笑った。

『まあでも寂しくないからいいじゃん』

「よくねえよ…」

『立夏結構寂しがり屋だもんね』

「うるせえな」

 話しながら食べ終えてしまった。おれは流しに皿を入れ、カフェオレを飲みながら何気なく昨日の郵便物に手を伸ばした。ごちゃついたチラシを捲り、要るものと要らないものを選り分ける。

『それでさ、後輩たちが…』

 二葉の話す声を聞きながらそれを続けていると、ほとんど要らないものばかりの中に、大きめの封筒を見つけた。

「…?」

 なんだろうこれ。差出人の名前がない。

 手で触ると何か布のような感触だった。

『ちょっと聞いてんの?』

 その声におれは引き戻された。

「聞いてるって…なに、おまえ部活の後輩とまだそんなに繋がってるの?」

 ずっと続いていた二葉の話は高校の部活の後輩とのやり取りだった。

『ええ? だって指導しに毎週行くし。そりゃ繋がってるわよ。なんならあんたのとこの後輩とも仲良いしね』

「ふーん」

 高校時代、おれがいた部と二葉のいた部の部室は隣同士だったから、お互いの後輩はある程度顔見知りだ。それこそ中学から、おれも二葉も互いに同じ部活を続けていたので、中には長い付き合いのやつもいる。

 二葉は書道部、おれは天文部だ。

『あ、そういえば…』

 思い出したように二葉は言った。

『立夏さあ、卒業式のときネクタイあげた子いたでしょ』

「え…」

 昨日思い出したばかりの出来事にどきりとする。

 なに、と訊く二葉に何でもないとおれは返した。

「あげたけど、それが?」

『覚えてるんだ?』

「覚えてるけど?」

『んー、まあいいわ』

「は?」

 急に話を打ち切ってしまった二葉におれは目を丸くした。

『立夏が元気ならいいし、俊臣くんもいるもんね』

 それじゃあね、と言って二葉はおれが何か言う前にさっさと電話を切ってしまった。

「な…」

 なんだそれ。

 切れてしまった通話に呆然として携帯を眺めていると、アラームが鳴り出した。

「うわまず…っ」

 もう出なければいけない時間だ。

 二葉のやつ。

「あーもうっ」

 手に持っていた封筒をその場に放って急いで皿を洗い、コートと荷物を掴んで家を出た。


***

 

 終業のチャイムが鳴ると、俊臣は席を立って教室を出た。クラスメイトの何人かとすれ違いざまに挨拶を交わす。新しい高校には一年程しか在籍しないので友人を作る気などさらさらなかったが、周りの人間は気さくな人が多かった。

 携帯を確認しながら駅に向かう。待ち合わせまではまだ時間がある。慌てなくても大丈夫だが、どこで時間を潰そうか少しだけ悩む。

 新しいメッセージが届いた。

『自習室開放してるけど来る?』

 本庄からだ。

 有り難い申し出に、俊臣は素直にありがとうとメッセージを送った。



「神崎くーん」

 事務所に入った途端、廊下から呼ばれて振り向くと、チーフがそこに立っていた。

「あ、おはよーございまーす」

「おはよう」

 バイトの挨拶は昼だろうが夜だろうが、いつでも朝の挨拶だ。

「今日新人さん入るから、来たら紹介するね」

「あーはい」

 確かシフト表ではおれと同じ時間帯に入れられていた。

「でももうちょっと人欲しいかなあ…」

「分かるけど、人件費も馬鹿にならないのよねえ」

「難しいっすね」

「ふふ、そうね」

 おれを見上げて笑っていたチーフが、あ、と視線を動かした。

 バタン、とドアの閉まる音におれも振り向く。

 そこには女の子がひとり立っていた。

「こんにちは」

「こんにちは、時間前に来てくれて助かるわ。ああ、神崎くん──」

 そう言って、チーフはおれと彼女の間に立った。

「今日から入る新人さん。よろしくね」

「はい」

 よろしく、と言いながら、おれは彼女を見たことがあるのに気づいた。

「橋本さきです。よろしくお願いします」

 にこりと笑う彼女は、いつかこの店に遠亜と一緒に来た、彼女の友人だった。


***


 時間よりも少し遅れて三沢遠亜はやって来た。

「ごめんねー、遅れちゃった。待った?」

「大丈夫だよ」

 俊臣がそう言うと、遠亜は嬉しそうに笑った。

「今日どこに行く?」

 制服の上に来たダッフルコートの袖に遠亜の腕が絡む。

 俊臣はそれを振り切らずに、どこに行こうか、と問い返した。


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