12



 バイト先の事務所のドアをノックすると、すぐに返事が返ってきた。どうぞ、と言われてドアを開けた。

「失礼しまーす…」

 開いたドアの隙間から覗き込むと、事務机に向かっていた店長が、乱雑に積み上がった書類の隙間から顔を上げた。店長は五十代半ばのえらく痩せた男性だ。

「あー入って、神崎くん」

 手招きをされておれは店長の近くに行った。

「こないだはすみません。二日も休んじゃって」

「え? ああ、風邪ね、大丈夫だよシフトも回ったし。具合はどう? もう良くなった?」

「はい、まあ」

 実はまだ少し怠かったりもするけれど、熱は完全に下がったし、咳も喉の痛みももうない。結局あれからまた二日、ベッドから出ることを固く禁止されていた。

 そのおかげか、こうして治ったのだから、俊臣の過保護にも感謝しなければならない。おれひとりだったら、今頃肺炎起こして入院していたかもしれないのだ。

「そりゃ良かったね。最近変な風邪も流行ってるって言うしさ…あ、はいこれ、新しいシフト表ね」

 話の途中で当初の目的を思い出したように、店長はおれに一枚の紙を差し出した。それを受け取って、ざっと目を通す。

 あれ?

「あの、誰か辞めるんですか?」

 シフト表の本来埋まっていなければならない箇所が空欄のままだ。名前を見れば、斜線が引かれていた。

 店長は頷いた。

「ホールの子がね。それで神崎くん、ちょっとの間だけホールに回ってもらえないかな。次の子が入るまででいいんだ。今週中にひとり面接予定なんだけど、それで決まればまた厨房に戻っていいし」

「はあ」

 にこにことそう言われてシフト表を見返せば、明後日から一週間ほど、おれの持ち場が変えられていた。尋ねてはくれているが、これはもう決定事項のようでおれには頷く以外の選択肢はなさそうだった。

「えと、分かりました」

「うん。じゃあ制服とかは余ってるの使って。近藤さんに訊けば分かるから」

 近藤とはチーフのことだ。

 はい、と返事をしておれは事務所を出た。

 閉じたドアを背にため息をつく。

 明後日からホールかあ…

 バイトのトレーニングでひと通りやったけど、接客苦手なんだよなあ。

 上手く出来るだろうか。

 とりあえずチーフを探すかと、おれは厨房に戻った。


***

 

 久しぶりの大学はどことなくよそよそしい匂いがした。すれ違う学生は皆眠そうな顔をしている。おれもあくびを噛み殺しながら、巻いているマフラーに顔を埋めた。中庭を通り、葉の落ちた銀杏の木立を抜けて西棟の教室に入ると、まばらに散らばる人の中に成瀬の姿を見つけた。

 成瀬も入って来た俺に気づいてひらりと手を振った。

「おー、おはよ」

「はよ」

「正月どうだった?」

 適当な席を見つけてリュックを下ろすと、荷物を持ってきた成瀬が隣に座った。

「どうもこうも、風邪引いて寝てた」

「まじか」

「んー、やっとよくなった感じ」

 おれも席につき、ノートや何やらを取り出す。最近ではタブレットをノート代わりにしている学生も多いけど──成瀬もそうだ──おれはまだ書く方で、それ自体を持っていない。バイト代を貯めていつか買えればいいとは思ってるけど。

「それで?」

「? それで?」

 顔を覗き込まれておれは手を止めた。成瀬はなんだかにやにやしている。

「…気持ち悪いなおまえ」

 だから、と成瀬は声を潜めた。

「クリスマスどうだった?」

「あー……」

 それ聞くの?

 一瞬遠い目をしたおれを見て、それを察した成瀬が怪訝に眉を顰めた。

「は? 失敗?」

「言うなよ…」

「ええ、なんで」

 なんでって…

 それ聞くのかよ。

「遠亜ちゃんから連絡来てんじゃねえの?」

 もう知ってるだろ、と含ませて言うと成瀬はきょとんとした顔をした。

「来てねえよ?」

「…ふうん」

 そうなのか。こういうことは、いつもならすぐに成瀬に話が行ってそうだけど。そこまで考えて、おれは思い直す。まあ今回のは言いづらいだろうな。

 というより普通誰にも言わないだろう。

 リュックに入れていた水のペットボトルのキャップを捻り、ひと口飲んだ。

「弟が来てて、家に」

 あ? と成瀬が口を開けた。

「? ん? うん?」

「鉢合わせて、現場で」

「げん…」

「キスするってときに後ろにいてさ」

「──うっわ…」

 成瀬の顔が引き攣っている。

 それで彼女は帰ってしまったのだと続けると、成瀬の口元が更に引き攣った。

「おまえのその義理のおとーとってえぐいな…」

「タイミングは悪かったよな…」

「そういう問題かよ」

「まあ…外だったし」

 部屋の中だったらまた話も違っていたのかもしれない。

 ああでも、俊臣にはもうあの前に鍵を渡していたから、それもあまり意味がないか。俊臣が何時間も外で待っていたあの夜の翌日、ホームで別れる前におれは俊臣に合鍵を渡していた。

 またこの先、何の連絡もなく外で長時間待ち伏せされるよりはずっといいと思ったからだ。

 でももう、その必要もなくなるわけだけど。

 来月には引っ越しだ。

「そういう問題かよ」

 それで、と成瀬は言った。

「ちゃんと連絡とってフォローしたわけ?」

「ああ…、それがさあ、連絡上手くつかないんだよな」

 会おうと待ち合わせを約束したけれど、遠亜は用事が出来たとすぐに断りを入れてきた。本当なら今日の夕方、バイトの前に会うはずだった。

「ふーん、そりゃもう愛想つかされたんじゃね?」

「多分」

「あっさりしてんなあ」

「だって…」

 それはきっと向こうも同じだ。

 遠亜も人恋しさや寂しさからおれといたがっていただけだ。おれじゃなければ駄目だったなんて微塵も思ってはいない。

「まあオレも連絡してみるわ」

「ああ、うん」

 成瀬が手の中の携帯を振った。おれは自分の携帯をマナーモードにする。

 気がつけば教室の中は多くの学生でざわめいていて、そろそろ講義が始まる時間になっていた。

 窓の外を冷たい風が吹いている。

 ふと出掛けるときの俊臣の顔が浮かんでくる。おれは慌てて目を瞬かせてそれを消した。



 契約上の都合から、俊臣とおれが住む部屋は今月末からでなければ入居出来ないことになっているようで、冬休み明けから新しい高校に登校する俊臣は、それまでの間、おれのアパートから通うことになってしまった。つまり、おれを看病したあれから、あのままずっと──荷物をいったん実家に取りに帰った日を除けば──俊臣はおれの部屋にいる。各々の部屋もない1DKのアパートの中に、ふたりきりだ。

 あと一年我慢すればいいと受け入れてしまったおれは、その自分の認識の甘さ加減に絶望していた。

 家に帰りたくない。

 俊臣とふたりきりの夜が来るのが怖い。

 どこまで我慢出来るんだろう。

「親って偉大だったんだわ…」

「はあ? 何言ってんのおまえ」

「いや、こっちの話」

 生クリームをパンケーキにトッピングしながらおれは首を振った。今までは家の中に必ず英里さんがいたし、それぞれの部屋もあった。空間もそれなりに広かったから何とかやっていけたのだと改めて思い知った。いるかいないか分からない父親でも、今ほどあのアパートにいてくれないかと願ったことはない。

 まあいたらいたで鬱陶しいんだろうけど。

「はあ…」

 とっくに分かってたのに英里さんに負けてしまったおれが馬鹿だ。

「はい、5番出来ました」

「はい」

 カウンターのトレイに決められた通りセッティングすると、チーフがそれを確認して運んでいった。あのいつも苛立っていたホールのバイトの子はいない。辞めたのはあの女の子だったと聞かされたのはついさっきのことだ。

「神崎、明日から接客だって?」

「まーね」

 同期のバイトがちらりと目を上げて言った。

「女に絡まれんなよ」

「それはねえよ」

 面白がるそいつに、冗談ぽくおれは言い返した。

 来客を告げるベルが鳴った。カウンターの向こうでチーフが応対している。奥から店長が出て来た。

「お、面接か?」

 入口に立ったその人の顔は店長の背に隠れてよく見えなかった。着ているものでどうやら女の子らしいと分かる。

「決まるといいな」

「うん」

「あーこっちにも誰か入れてくんねえかなあ」

 店長について奥の事務所に向かう人影を何となく目で追いながらおれは相槌を打った。



 帰りたくないと思いつつも帰る場所はひとつしかない。バイトが終わり、アパートのドアの前に立ったおれは、深く息を吸い込んだ。

 鍵を開けて中に入り、ただいま、と声を掛けた。

「おかえり」

 俊臣の声がして、廊下を仕切るドアが開く。

 部屋の中は驚くほど暖かかった。

 靴を脱いで上がる。自分の部屋なのにすごく、変な感じだ。

「飯は? おまえ食べた?」

 おれは賄いが出るから家で夕飯を食べることは殆どない。

 俊臣の夕飯は朝出掛ける前に用意して冷蔵庫に入れておいた。

「いや、食べてないよ」

「えっ?」

 その言葉にコートを着たまま急いで手を洗い冷蔵庫を開けると、朝用意したそのままの食事がそこにあった。

「さっき帰って来たところだから」

「さっきって、…え?」

 時計を見る。

 もう二十三時じゃん。

「何してんだよ、こんな時間まで」

 振り返ると、俊臣は肩を竦めた。

「学校で仲良くなったクラスメイトが、いい自習室があるからって連れて行ってもらったんだ。そこの塾生の紹介なら初回は無料だって言うから」

 それでずっと勉強をしていたのだと俊臣は続けた。

「ふーん。で、何も食べないで? 腹空かねえの?」

 呆れて言えば、俊臣は表情を和らげて、おれの手にした食事を指差した。

「空くよ。でもりつの用意したのがあるから」

 帰ってそれを食べようと思って。

「はあ? 買って喰えば…」

「不味いから嫌だよ」

「コンビニとか、マックとか」

「りつのがいいよ」

 息が詰まりそうだ。

「……馬鹿か」

 はあ、とおれはため息を落とした。

 あああ、もう、こいつはっ。

 あのなあ、とおれは声を張り上げた。

「おれの飯なんてテキトーだし、明日喰えばいいんだよっ、ちゃんと腹空いたときにしっかり食べろよ、身体に悪いだろ!」

 持っていた皿を勢いよくレンジに入れてスイッチを押す。突っ立っている俊臣の横を抜け、コートを脱いでハンガーに掛けた。

「おれシャワー浴びるから、それ喰ってもう寝ろよっ」

 そのまま背を向けて風呂場に逃げ込んだ。

 なんだよ、なんでそんな顔すんだよ。

 そんな、誰にも見せない顔で微笑むの、ずるくない?

 あああああもう、もう…っ

 そんなの、まるでおれの手からしか食事を摂らない野生の動物みたいじゃん。

 俊臣はなんであんな──

「……くそっ」

 力任せにカランを捻った。熱いシャワーが勢いよく迸る。

 頭からそれを浴びながら、おれは両手で顔を覆った。


***

         

 シャワーの音を聞きながら、俊臣は自分の携帯に目を落としていた。

 立夏よりも先に帰って来れたのはよかったが、今日は何の成果も得られなかった。

 三沢遠亜は違っただろうか?

 いや、そんなはずはないと俊臣は思い直す。

 もう一度。まだ機会はある。

 大丈夫。必ずいるはずだ。

 楽しかったと来ていたメッセージに、俊臣はメッセージを返した。

『俺も楽しかったよ』

 それはすぐに既読になり、また彼女から返ってくる。

『また遊ぼうね』

 俊臣はそれに適当な言葉を返し、それから追加でまたメッセージを送った。

『ねえ、今日の事、立夏には内緒にしてくれる?』

 いいよ、とスタンプが返ってくる。

 OKのサインをした熊の可愛らしい絵だ。

 それを表情一つ変えずに見つめた俊臣は、ありがとうと送って携帯を制服のポケットに仕舞った。

 レンジが音を立てて出来上がりを告げる。

 いい匂いがした。

 昔からいつも立夏が作ってくれる炒飯だ。中の具はその時々で違う。

 立夏は適当だと言うが、俊臣はこれがとても好きだった。

「…いただきます」

 立夏に言いつけられた通り、俊臣はそれを取り出してローテーブルに運び、遅すぎる夕飯を食べ始めた。






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