11



 翌日にはそれまでの高熱が嘘だったかのように体調は良くなっていた。熱は微熱まで下がり、食欲も戻って起き上がれるようになった。

 あんなに重かった身体も羽のように軽く感じて、だから俊臣の目を盗んで近所のコンビニまで買い物に行ったことは、出来れば大目に見てくれないだろうか。

「…そんなさあ、罪人みたいに扱うのやめてくんない…?」

「立夏」

「謝ってんじゃん」

「それが謝ってる態度か?」

「……」

 ベッドから見上げるおれを、俊臣は見下ろしている。表情に出さなくても怒っているのが手に取るように分かる。俊臣がおれのことを立夏と固い言葉で言うときは、決まってそういうときだ。

 確かに、今日のはおれが悪いんだけど。

「だってもういいかと思って」

「熱は昼間は下がりやすいんだよ」

 呆れたように俊臣はため息をついた。

「アイスは買ってあるはずだけど?」

「あれじゃないのがよくて」

「りつの好きなのだけど」

 小さな冷蔵庫の冷凍庫にはおれの好きなアイスがいくつも入っている。

 全部俊臣が買って来てくれたものだ。

 いや、そうなんだけど。

「だからあ…、新しい味出たって、ネットで見たからさあ」

 具合が良くなってくると布団の中でただじっと寝ているのはひどく退屈で、つい携帯をいじってしまい見つけたのだ。

 いわゆるコンビニ限定の新商品ってやつを。

 しかもすぐ近くにそのコンビニがあったことがおれを行動に移させた。

 まあアイスの為だけってわけでも、なかったんだけど。

「……」

「………ごめん」

 じっと無言で見返されてもう何も言えない。引き上げた布団で顔を半分隠した。

「俊臣のも買ってあるし」

 ため息がまた落とされる。

 ぎし、と床が鳴った。

 俊臣の足音がキッチンの方に向かっていく。おれは頭の上まですっぽりと布団に潜りこんで息を吐いた。小さなアパートの部屋の中でふたりでいることにようやく慣れてきた気がするのが、少し悔しい気がした。

「…なあ」

 呼び掛けると、なに、と俊臣から返ってきた。

「おまえ…、いつまでいんの?」

「りつが治るまで」

 なんで、と逆に聞き返される。

「だって何にも出来ないじゃん…」

 何も出来なかった父親のお陰で家事全般をこなせるおれとは違い、俊臣は意外なほどに何も出来ない。それは英里さんが何もさせなかったから──というより、本人の不器用さによるものだ。なんでも完璧に出来そうに見えるのに、掃除も洗濯もやらせれば必ず後始末の方が大変だったりする。

「洗濯はしてる」

「まあ…」

 そうだけど。

 そうだよな。

 してる。

 してるよな。

 あれが皺々じゃなければ、そうだよな?

「りつ」

 すぐそばで俊臣の声がした。

 布団をそっと捲られる。

「飯出来たけど、起きられるか?」

 おれはのろのろと身体を起こして、すぐにぐにゃりと布団の上に二つ折りに突っ伏した。駄目だ。ぶり返してきた熱で全然力が入らない。

「しょうがないな、ほら」

 ローテーブルを引き寄せてその上に食事の載ったお盆を置くと、俊臣がおれの背を支えるようにベッドに乗り上げた。

 その腕でおれの身体を起こし、自分の胸に寄りかからせる。

 背中に俊臣の体温が当たる。

「…いいって、自分で座る」

「我儘言うな」

 身体を離そうとすると、大きな手が額を覆い、後頭部を俊臣の体に押し付けられた。

「こうなったのは誰のせいだ?」

 そう言って、布団の上──正確には布団の中で足を伸ばしたおれの太ももの上に俊臣はお盆を置いた。

「……」

 これ、もう動けなくない?

 百円均一の店で英里さんが買って来たらしいチェック柄のプラスチックのお盆の上には、お粥の入った丼ぶり(見たことない。これも百均か?)と、何も入っていないご飯茶碗とスプーンが載っていた。

「誰のせい? 立夏」

「おれのせい…もうごめんって」

「口開けて」

 寄りかかったまま薄く口を開くと、お粥を掬ったスプーンが唇に触れ、そのままするりと口の中に入ってきた。

「食べて」

 唇を閉じてお粥を食む。柔らかく煮えたそれは、猫舌のおれでも難なく食べれるほどに冷まされていた。

 美味しい。

 おれがよく風邪を引いては拗らせるせいで、料理の全く出来ない俊臣は、いつのまにかお粥だけは上手く作れるようになっていた。

 前にも同じことが、何度も。

 何度もあった。

 こんなふうに食べさせてもらっていた。好きだと自分の気持ちに気づいてからは、いつも気づかれないようにと、おれは祈っていたっけ。

 今もそうだ。

 心臓が聞こえてしまうんじゃないかというほどに、どくどくと跳ねている。

 誤魔化そうと、なんでもないことを口にした。

「明日からバイトなのに…」

「休むしかないだろ」

「ええ…?」

 それは嫌だ。

 寝てるよりバイトしてるほうがいい。

「立夏」

 閉じた唇にスプーンが押し当てられる。口を開く前に、それは唇の間から少し強引に口の中に潜り込んできた。

「熱がちゃんと下がるまでは駄目だよ」

 こくんと飲み込んで、おれはため息をついた。

「おまえって、結構過保護だよな…」

 それは、と俊臣が言った。

「りつが悪い」

 おれ?

 後ろを肩越しに見上げると、俊臣は顔をわずかに顰めていた。

「…おれ、何かした?」

 そんなに心配されることをしてるだろうか?

 俊臣はそれには答えずに小さく息を吐いただけだった。

「…いいから食べて。食べなきゃ、いつまでもここにいるよ?」

「どうせ、…また一緒に住むじゃん」

 お粥を掬ったスプーンを持ち上げた俊臣の手が止まった。

「り…」

「もういいよ。ちゃんと、おまえと一緒に住むよ」

 どうせ、一年間だ。

 俊臣が高校を卒業するまで。

 それならいいと英里さんが帰る前、俊臣がいない隙に約束した。それにおれ以外の全員の中ではもう決定事項だったのだ。

 必要なのはおれの返事だけ。

『よかったあ! やっぱりりっくんはそう言ってくれると思って、もう物件契約しちゃったのよね』

『はあ?!』

 それ返事すらも要らなくない?

 あの人普段はぼおっとしてるのにこういうときだけ恐ろしく気が早いよな…

 おれの携帯が鳴った。

 どこだっけ、と見回し、ベッドの枕元に置いてあったのを思い出した。

「俊臣、携帯」

 取って、と言うと、一瞬の間の後、俊臣が携帯を差し出した。

「ありがと」

 受け取った直後に音は止んだ。

 表示されていたのは遠亜だった。急いで携帯を操作しようとしたおれの手から、俊臣がさっとそれを取り上げた。

「あっ」

「食べるのが先だろ」

「いや、やっと連絡来たから」

 具合が悪くなってから全く来なくなっていた遠亜からの着信だ。もともとそれ以前に連絡を取り合うことは少なくなりつつあったけれど、それでも一日何もないことはなかった。だから、コンビニに出たときに、おれは遠亜に電話を掛けた。生憎彼女は出なかったから、メッセージを送っておいた。

 体調を崩していることと、連絡が出来なくて悪かったことを謝って、それから彼女はどうしているのかと訊いた。

 最近連絡ないけど元気?

 今度ゆっくり話したいんだけど。

 本当にあれからメッセージだけで話をしていない。話をしなければいけないと思って送ったメッセージに、せっかく折り返してきたのに。

「ちょっとだけじゃん…っ」

「……」

 手を伸ばすと、俊臣は無言で携帯をおれに返した。

 おれは怠い体を起こし、俊臣にもたれ掛からないように気をつけて手早くメッセージを送った。俊臣がそばにいるところでは話せないから、出来るだけ近い日時と場所を指定して会いたいと送った。

「もういい?」

「あ」

 送信した途端、俊臣が携帯を取り上げた。

 自分の体におれを寄りかからせる。

「りつの彼女?」

「まあ…」

 まだ多分、そうだ。

「そんなに会いたい?」

「そういうわけじゃ…」

 ふうん、と俊臣は言った。

「早く治したいなら、こっちが先だよ」

 スプーンを目の前に突き出される。おれは抗議するように大きく口を開けてそれを食べた。



 ほんの少し目を離した隙に外に行くなんて。

 本当にどうかしている。

「これか…」

 冷凍庫の中には立夏が買って来た、俊臣の分のアイスがきちんと一番上に置かれていた。

 これが食べたかったのか。側のごみ箱にはそのアイスの包みが捨てられていた。

 人の気も知らないで。

 バナナプリン味って何?

「……」

 ため息を落とし、俊臣はちらりとベッドの方を見た。お粥を半分ほど食べた立夏は薬を飲んでまた眠ってしまった。せっかく下がっていた熱も、また八度台にまで上がってしまった。座ることさえもままならないほど、身体が辛いのだろう。

 冷凍庫を閉め、俊臣はそっとベッドに近づいた。枕元に置かれた立夏の携帯を取り、廊下に出てドアを閉める。音を立てないように玄関を開けて外に出た。

 夜の暗がりが目の前に広がっている。薄暗い通路の電灯の下で、俊臣は立夏の携帯を開いた。

 立夏の携帯はモデルが古く、未だにロックは暗証番号だ。そして立夏は昔から同じ数字を設定する──しかもそれを俊臣にたまに言ったりするので、何の意味もなしていない。

 本当に無防備だ。

 メッセージが来ていた。

 三沢遠亜だ。それは未読のままだった。

 あのとき、立夏から携帯を奪った後素早くマナーモードに切り替えていたのが役に立ったみたいだ。

 助かった。

 それを既読をつけないように確認してから、俊臣は自分の携帯をポケットから取り出して、素早く操作した。

 相手はすぐに出た。

「…もしもし、俺だけど」

 相手の声が分かりやすく変わった。

 俊臣くん、と甘い声で言う。

「そう、今こっちにいる。立夏は具合が悪いから…、ねえ」

 吐いた息が白く凝り、暗く澄んだ空気の中に溶けていく。

「そんなに暇なら、俺と遊ばない?」

 え、と一瞬迷った気配がしたが、相手はすぐに頷いた。

 そうだ、と俊臣はさも思い出したように付け足した。

「友達がいるんだけど、誰か紹介してくれない? 出来れば四人で──うん、そう、…本当? よかった」

 よかった。上を向くと、こつん、と冷たい鉄のドアに後頭部が当たった。

「じゃあ、日にちは──」

 俊臣は立夏の携帯の画面を見ながら指定する。時間をわざとずらして言えば、相手は少し戸惑ってから、その日は立夏と約束があると言った。

「そうなんだ? でも具合悪いから、どうだろうな…、じゃあ、またにしようか」

『待って』

 切ろうとした瞬間、引き留めるように三沢遠亜が言った。

『じゃあ、立夏くんのは断るから』

「そう? いいの?」

『いいの。具合が悪いのに無理させたら可哀想だもん』

「わかった」

 遠亜の気を引けたことに俊臣は満足した。

 これで、上手くいったら──

「そっちから立夏に断ってくれると助かるよ。まだ安静にさせておきたいから」

『うん、そうだね』

 嬉しそうな三沢遠亜の声に一瞬顔を顰めた俊臣は、それじゃと短く言うと、汚いものを振り切るかのように通話を切った。

 ドアを開けて中に戻る。簡素な鍵を掛けながら、三沢遠亜が俊臣の願いを間違いのないように聞き届けてくれることを願った。


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