10


 沈んでいた水の底から浮かび上がるように、ゆっくりと意識が水面から顔を出した。

 重い瞼を開く。そのとたん、見ていた夢がおれの手を離れて、代わりのように沈んでいった。

 …あれ?

 何を。

 何を見てたんだっけ…

 ぼんやりとした白い光。

 天井だ。

「……」

 布団の中でもぞもぞと寝返りを打った。身体の節々が気怠くて、腕は鉛のように重い。

 あー…、今日帰れるかなあ。

 もう一日寝てれば治る気がするから、帰るのは明日にしようかな…

 携帯、どこだっけ。

 いつも置いてあるはずの枕元に手を伸ばす。けれどシーツの上をいくら探っても、指先にあの感触が当たらない。

 あれ?

 手を止めて、ああそうかと思い出した。昨夜はきつくてあのまま寝てしまったから、ベッドまで持って行かなかったんだ。

 うつ伏せの姿勢からシーツに手をついてのろのろと身体を起こした。暖かい布団の隙間に部屋の空気が入り込んで、肌を撫でた。

 暖かい。

 部屋、全然寒くないな。

「……」

 そうだ。なにもかもやりっぱなしだったんだ。エアコンも付けたままだった。

 ベッドに身を起こして、暖かな部屋におれはほっと息を吐いた。

 何か飲みたい。

 冷蔵庫に水が入ってたはずだ。立ち上がろうとして、かくん、と膝が折れた。

「…わっ」

 力が入らない。ぺたんと床に座り込んだとき、部屋と廊下を仕切るドアが開いた。

「──え」

 え、な──

 なんで?

「起きた?」

 なんで、ここにいんの?

「な…、え? 俊臣…?」

「喉乾いた?」

「え…?」

「待ってて」

 ベッドの横に座り込むおれに言い、俊臣は持っていたレジ袋をそこに置いた。キッチンに入り、冷蔵庫を開け閉めする音がして俊臣が戻ってきた。手にはペットボトルのスポーツドリンクを持っている。

「大丈夫か? 立てる?」

「た、…立て、…ない」

 疑問で頭が混乱する。

 立ち上がろうとしたけど、全く体に力が入らない。体の芯がふにゃふにゃにふやけてしまったみたいに、自分ではどうにもならなかった。

「ほら」

 そう言って、俊臣はおれを抱え込んだ。

「ど…、え、わっ…っ」

 そのまま軽々と持ち上げられてベッドに戻される。

 息が。

 息が止まる…っ

 一気に全身の血が沸騰したみたいに熱くなる。

「熱まだあるな」

 ひやりとした手に額を触られて、おれは振りほどくように身を引いた。

「なんでっ、なんでおまえ、ここにいるんだよ…っ、っ!」

 声を上げると、肺の奥が軋んだ。

 喉の奥からせり上がってきた咳に、けほけほ、と咳き込むと、蓋を開けたペットボトルが目の前に差し出された。

 いつのまにかストローが差さってる。

「……」

「飲んで、りつ」

「…っ、ん、」

 ストローに口をつけて吸い上げる。乾いて荒れた喉に冷たいスポーツドリンクが染み渡るように流れて行き、ほっとおれは息を吐いた。

 もういいの、と俊臣が言った。

「…今日、おれ、ちゃんと帰るって…、なんでいんだよおまえ」

 離れて欲しくて睨みつけると、俊臣は無言で傍のローテーブルの上のリモコンを手に取り、それをテレビに向けた。

 ぱっ、とテレビの画面が明るくなる。場違いに賑やかな声が部屋中に響き渡った。

『…けまして、おめでとうございます! さあ本日はここ、**にある**神社から中継でお送りしまーす!』

「………は?」

 今、なんつった?

 おめ…

 おめでとうって──嘘。

 画面の中では、よく晴れた空の下、大勢の人たちが神社に集まっている姿が映し出されている。

 これ、初詣だ。

「明けましておめでとう、立夏」

 俊臣がおれを振り返って言った。

「……ハア!? なんっ、なんでっ」

 だって、昨日の翌日だろ?

 だって。

「おれ…、ッ、っ!」

 大声を上げた途端、また咳込んだ。ぎゅっと丸まったおれの背を俊臣の手がそっとさする。

 その感触に、目覚めるまで見ていた夢が残像のように頭の隅を掠めた。

「──」

 誰かが大丈夫だよとおれに言っていた。

「…り」

「ただいまあ」

 何か言いかけた俊臣を遮り、やけに明るい声が玄関から聞こえた。

 近づいてくる足音。

「ねえ俊臣りっくんまだ──、あ」

 顔を上げると、ちょうど部屋に入ってきた英里さんと目が合った。



 どうやらおれはあの夜から今日までほぼ二日間、高熱でほとんど意識がなかったようだ。

 本当にぷっつりと、あれから目が覚めるまでのことは何も覚えていなかった。

「だって帰ってくるって言ってたのに時間になって駅に迎えに行ってもいないし、連絡もつかないから、こっちに来てみたら──部屋の中でぐったりしてるじゃない? もう吃驚したわよ、なんで言ってくれなかったの、具合悪いって」

「ええ…? でも、寝れば治ると思って」

「寝て治ったためしないでしょ」

「…う、そう?」

「そうでしょ! もー毎年この時期に風邪引いてひどく拗らせて寝込んじゃうのりっくんでしょ? へいきーとか言っちゃって、病院行かないの相変わらずだし。甘く見過ぎ」

 風邪で死んじゃう人だっているんだから、と駄目押しのように言われて、おれはもう言い返す言葉もない。確かに、この時期──年末年始、学校が長い休みの時期にはよく風邪を拗らせて寝込んでいた。

 そんなことは、すっかり忘れてた。

「ごめん」

「年末で病院閉まってるし、大変だったんだから! まあ往診に来てくれる先生がいてよかったけど」

「…はい」

 あとちょっと遅かったら入院だったのだときつく叱られておれは身を小さくした。

「ひとり暮らしだからって、ろくに大したものも食べてないでしょう? 悪いと思ったけど冷蔵庫の中見たら何にも入ってないから。もう呆れちゃって──はい」

「…スミマセン」

 渡されたお椀を受け取ると──うちにこんなのあったか?──いい匂いがした。出汁と醤油の混ざり合った香り。

 御雑煮だ。

「うわ、…」

「咳出るから、お餅は駄目だけど」

「うん。いただきます」

 ベッドの中でお椀を啜ると、荒れた喉に染み渡っていく。ここ二日間食事も摂れなかったおれの胃が、きゅう、と音を立てた。

 美味い。

「おいしー、英里さんありがと」

「ああ、ほんと、目が覚めてよかった」

 大きく息を吐いて、英里さんはマグカップに淹れたお茶を飲んだ。俊臣は今英里さんが買い忘れたものを買いに、近くのスーパーにおつかい中だ。

「心配かけてごめん」

「間に合ってよかった」

 あのさ、とおれは言った。

「英里さんが、最初におれを見つけたの?」

 思いついて、おれは訊いてみた。

 くすりと英里さんは笑う。

「頼博さんは休みとかないから」

「そっか」

「心配はしてたけど、勿論」

 うん、とおれは頷いた。父さんのことはよく分かっているからそれは大丈夫だ。

 あの人は仕事以外何も出来ない人で、愛情表現も不器用だ。

 よく英里さんと恋愛出来たなと、子供のおれが思えるほどに。

 英里さんは苦笑して、マグカップをテーブルに戻した。

「あのね、俊臣と同居の話なんだけど」

「うん」

「私はそうしてくれると本当に嬉しいと思ってる。頼博さんもそう」

 おれは持っていたお椀を、お盆代わりの本の上に置いた。

「りっくん案外身体弱いし、無理するし、辛くてもあんまり言わないし、こういうことがあると尚更そう思うんだけど」

「えー…と、うん…、でも」

 つけっぱなしのテレビから、賑やかな声が部屋の中に溶けていく。お正月の午後の晴れやかさと気怠い空気が混じり合った、あの何とも言えない感じが、窓から差し込む光に踊っている。

「お互い、その、…好きな人が出来たりしたらさ、ひとりじゃないと都合が悪いことも…ない、かな? みたいな…?」

「…」

 実の母親ではないとはいえ、こんなこと言うの恥ずかしすぎる。

 英里さんは一瞬目を丸くした後、何かを悟ったかのように、ああーと間延びした声を上げた。

 これは察したな。

 よし。

 ここぞとばかりにおれはたたみかける。

「ね? お、女の人には分かんないかもだけどっ、その、おれも彼女いるし」

「へえりっくん彼女いるの」

「い…いる、…うん」

 多分まだ。あれから何度か遠亜には連絡を入れているが、どれも短い一言が返ってくるだけになった。

 駄目になるのも──そもそも付き合ってたかどうかさえ怪しい認識で──そう遠くないと思うけど。

「じゃあそのときは俊臣を追い出せばいいでしょ」

「いや…、いやいやいや…っ」

 そんなにさらっと言うのやめてくれる?

 この人は…っ

「おれもかもしんないけどっ、俊臣だって、そーゆー歳じゃんっ? あいつモテるし! こないだまで彼女いたって言うし、新しい学校で! また分かんないじゃんっ」

 自分で言って心臓が軋む。そうだ、また新しい女の子があのときのように玄関の中にいて──

「──」

 あの子が振り向くシーンが、スローモーションのように目の奥に蘇る。

 ぱちんと何かが閃いた気がした。

 ──何だ?

「こないだ?」

 英里さんの声に、おれは瞬いた。

「こないだ、別れたって」

 小さく咳き込むと、英里さんがテーブルに置いていたおれの分のお茶を取ってくれた。

「へえ? あの子付き合ってる子とかいたの」

「は?」

「へーあの仏頂面がねえ…。え? あれのどこがいいのかしら。面白いかしら」

「…いやいや」

 自分の息子の魅力に欠片も気付いてないのは昔からだけど、おれは確かに英里さんから俊臣と彼女の話を聞いていた。そのはずなんだけど…?

「あいつモテるでしょ?」

「え、聞いたことないけど」

「は?」

「りっくんのほうが上じゃない?」

「そんな優劣いらないし…」

「ええ? だってよく来てたわよ?」

「え?」

 よく来てた?

「ほら、うちに」

「何が?」

 何のことか分からずに首を傾げると、ほら、と英里さんはもう一度言った。

「りっくんを好きな子たちよ。私よく…」

 がたん、と玄関のほうから音がして、ドアが閉まる音がした。

「あー、もう、やっと帰ってきた」

 どこまで行ってたのかしら、と英里さんが笑った。

 レジ袋を手に帰ってきた俊臣を見上げながら、ふとどこか引っ掛かる。

 おれを好きな子?

 よくうちに──来てた?

 そんな話は初耳だった。

 おれ知らないんだけど。

「おかえり…」

「ただいま」

 りっくんアイスあるよ、と英里さんが言った。



 俊臣の手がおれの額に当てられる。

 やけに冷たくて気持ちいい。

「薬は?」

「さっき、飲んだ…」

 夕方からまたおれは熱が上がっていた。

「…英里さんは?」

「帰ったよ」

「……」

 食事とアイスを食べるとひどく眠くなった。熱にうなされ起きれば、もう英里さんの姿は見えなくなっていた。

 部屋にはおれと、俊臣だけだ。

 それと小さな声でついている、テレビの向こうの人たちの声。

「消そうか?」

「んん…、いい」

 つけといて、とおれは目を閉じて言った。

 ふたりきりのこの空間に別の誰かの声が欲しい。

 じん、と痺れた眼球の奥が熱を持っている。

 熱い。

「いて欲しかった?」

 俊臣の声に、おれは思わず目を開けた。

「……え?」

 俊臣はベッドの横に座り、じっとテレビの方に目を向けていた。

「母さんに」

 いや、と首を振った。

「心配させるから、いい」

 おまえも、と続けると、俊臣がおれを向いた。

「おまえも風邪移るから、いいよ? …」

 こんなに近くにいて、移らないわけないと思う。マスクの中で吐いたおれの息は、自分で驚くほど熱くて、体が溶けてしまいそうだ。

 開けているのが辛くて目を閉じた。

「帰っていいよ、俊臣」

「…嫌だ」

 ぽつりと俊臣が言った。

 顔が見えないから、不貞腐れたみたいな声に聞こえてちょっと可笑しかった。

「風邪、移っちゃう…」

「もう移ってるよ」

「……え?」

 顔を向けると、俊臣の手がおれの瞼を覆った。

 大きな手だな。

 まだ高校生なのに。

「おれはここにいるよ」

 なんか、似たようなことが前にもあった…?

 どこで?

「どこにも行かないから」

「…ん」

 帰っていいと言ったくせに、おれはほっと安堵していた。

 身勝手だ。

 眠って、と言う俊臣の声がだんだんと遠くなっていく。


***


 眠ってしまった。

 目を覆っていた手をそっと外すと、熱に赤く腫れた目元に、うっすらと涙が滲んでいた。

 時折掠れるような呼吸音に、苦しいのだろうと思う。

 目元に唇を寄せて、舌先で温かな涙を拭った。

 移るのならもうとっくに移っているよ。

 立夏の携帯が、ローテーブルの上で小さく震えた。それはすぐに止み、画面に一瞬履歴が映し出された。

 三沢遠亜。

 俊臣は手を伸ばして素早く操作し、その履歴を立夏の携帯から消去した。

 ため息をついて眠る立夏を振り返る。

 気づいてない。

 柔らかな髪を撫でる。熱がまた上がった気がする。少し冷やしたほうがいいかもしれない。

 俊臣はそっと立ち上がり、氷水を作りにキッチンに向かった。

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