9


「…っ、くしゅっ」

 マスク越しにくしゃみをすると、やだ、とおれの後ろにいたチーフが言った。

「神崎くーん、風邪?」

「あー…、いや、大丈夫です」

 両手に調理器具を持ったままおれは頷いた。早くオーダーを仕上げろとせっつかれていて、手っ取り早くコック服の袖でむずむずする鼻先を擦った。

「花粉症かなあ」

「今冬だけど」

「ですよねえ」

 よし、よしっ、出来た。

「はい、お待たせ、17番」

 出来上がった皿を受け渡しカウンターまで持って行く。置いたとたんに待ちかねていたホール係の女の子がそれをひったくるようにして持って行った。軽く息を吐きながら、おれはオーダー票にチェックを入れる。

 気を抜くと足下がふわりとする。

 下腹に力を入れてやり過ごした。

「きついなら無理しないで休んでよ?」

「はい。でもどうせ、おれ明日から休み入れてるんで」

 ああ、とチーフが思い出した顔をした。

「そうだった。帰省するんだっけ、三が日まで」

「そうっすね。でももう少し早く切り上げるかも」

 英里さんと話し合い──というよりほぼ一方的に決められた予定は明日の三十日から三日までというものだったが、出来ればもっと早くに戻って来たい。

「まあゆっくりしてくれば? 神崎くんよく入ってくれて助かるけど、学生なんだしたまには休まないとね」

「はあ…」

 返事をしたところにホールのほうから呼び出しがかかる。インカムから漏れ聞こえてくる声でなにかトラブルが発生したのだと分かった。

 チーフはおれと目を合わせて小さく肩を竦めた。

「まただ。ちょっと行ってくる」

「大変っすね」

「まあ仕事だからね」

 そう言うと、くるりと背を向けて厨房を出て行った。小柄な体、温厚そうな見た目に反して、彼女は所謂クレーマーと呼ばれる人たちにも一歩も引かない胆力の持ち主だ。そうでなければやっていけないし、そうでなきゃいけないといつか言っていたことを思い出す。

 男の社員がもっと仕事してくれればいいんだけどね、と冗談交じりでいつか零していた。

 人は見た目では分からないものだ。

 あの人にもきっと苦手なものもあるだろうし…

 なあ、とおれは向かいにいたバイト仲間に声を掛けた。

「おれちょっと見てこよっかな」

 盛り付けをする手を休めて、そいつは眉を顰めた。

「あ? 大丈夫だろ、あの人強いぞ」

「そうだけどさあ…」

「ちょっとお! オーダーまだですかあ?」

 厨房からそっとホールの様子を窺う。それを咎めるように、カウンターの向こうから、ホール係の苛立った声が投げつけられてきた。



 くしゅん、と今日何度目か分からないくしゃみが出た。

「っ…」

 明日帰るための荷造りをしながら、おれは、ぐす、と鼻を啜り上げた。

 頭ぼんやりする。

 先日のクリスマスの翌日からおれは体調を崩していた。熱もなく大したことないと様子を見ていたら今朝ついに発熱してしまい、でも今年最後だからとバイトに出た。

 厨房はずっとマスクしてるし、動いてれば汗もかく。汗をかいたら熱が下がると小さいころから信じているおれは、まあ大丈夫かと思っていた。

 あわよくばこれで治るかも、と。

 でも甘かった。

 朝より熱上がってる気がする。

「あー、だっるう…」

 原因は分かっている。あの夜、風呂上りに濡れ髪で、長い間寒いところにいたせいだ。

 自業自得だな。

 これはバチが当たったんだろうなあ。

 あんなことしちゃって。

 あんなことしたから。

『神様に怒られたんだ』

 いつかの声に、おれは小さく苦笑した。

 そうかも…

 きっとそうだ。

「──…はあ」

 関節ぎしぎしする。

 とりあえず、もう寝よう。

 おれはバックの中に適当に服を入れ、這うようにしてベッドに潜りこんだ。寒い。寒い。エアコン入れてんのに、なんでこんなに寒いの。

 体をきつく丸めて目を閉じる。眼球の奥が熱い。じんわりと体中が痺れている。深く息を吐いたその瞬間に、おれは泥のような眠りに沈み込んでいた。

 どこか遠くでサイレンの音がした。


***

 

 りつ、と呼ぶ声に振り返ると、俊臣がいた。

『りつ、帰ろう?』

『…うん』

 うん、ともう一度頷いて、おれは落ちていたカードを拾った。土にまみれてぐちゃぐちゃで、あちこち折れて、それはとても汚かった。

『帰ろ?』

 すぐそばで、俊臣がおれの顔を覗き込んで言った。

 うん、とまた頷く。

 俯いたまま、おれの足は地面にくっついたみたいに動けなかった。

 夕暮れ間際の光が、だんだんと滲んでいく。視界いっぱいにそれが広がったと思った途端、ぽたぽたと汚れたカードの上に涙が落ちた。

『…っう、ううっ』

 こんなはずじゃなかった。

 こんなんじゃなかったのに。

 ただ、皆と同じように、遊びたかっただけ。

 混ざっておれも遊びたかっただけ。

『りつ』

『……っ』

 それは当時流行っていたカードゲームのカードだった。

 レアカードと呼ばれていたそれが欲しくて──他の皆は何枚も持っていたのに、おれだけが持っていなくて──だから。

 近所の中古ショップのガラスケースの中に飾られていたのを見つけたとき、欲しくてたまらなくなって。

 父さんが風呂に入っている間にこっそり財布の中からお金を抜いた。貰っていた小遣いと合わせて買いに行ったのは、ほんの数時間前のことだった。

 でも。

 一緒に遊んでいた同級生から生意気だと取り上げられ、挙句の果てには隠されてしまった。

 必死に捜して見つけたのは、公園の隅にある、枯れ葉の詰まった用水路の中だった。

 もうこんなの使えない。

 どうしよう。

 どうしよう。

 父さんのお金盗ってまで、買ったのに。

 ぼたぼたっとまた溢れた涙がカードに落ちた。泥が滲み、茶色い染みが広がっていく。

『う、うっ、うーっ、も、やだああっ、あーっ』

 たまらなくなって大きな声が出た。胸の奥を締めつける罪悪感と、悔しさが一気に押し寄せてくる。

『なんでえっ、なんでっ、買ったっ、ばっかっ、なのに…っこんな、もう、もう遊べないいいっ…っ』

『…りつ』

『ひっ、う、うう…っう』

『りつ、貸して』

 貸して、と俊臣はもう一度言って、強張るおれの指の間からゆっくりとカードを抜き取った。

『洗ったらきれいになるよ?』

『あらっ、洗っても、もうダメだもんっ、もうこんなにぐちゃぐちゃじゃ、あそっ、遊べない…っ』

『大丈夫だよ』

『だい、じょばないっ…だって、だってえ』

 止まらない涙を服の袖で拭った。拭っても拭っても、涙は全然止まらなくて、嗚咽もひどくなった。

 ひくっひくっ、としゃくり上げながら、おれはその場にしゃがみ込んだ。

『父さんにも、おこっ怒られるっ、おれ、悪いことしたから、これは、バチが当たったんだあ…』

 顔を腕の中に埋めると、そばで俊臣がしゃがむ気配がした。

『そうかもしれないけど、悪いのはあいつらでしょ?』

 まだ同居する以前、その日は学童もなく、下校時間がずれていて先に帰った俊臣はおれがなかなか家に帰って来ないのを心配して、公園まで探しに来てくれていた。それはちょうど、同級生にカードを隠され、必死に捜すおれを同級生たちが笑いものにしているところだったのだ。

 ちがう、とおれは首を振った。

『だってっ、最初に悪いことしたのおれだもん、だから、神様が怒ったんだよ…っ』

 神様は寛大じゃない。

 だから悪いことをしたら、悪いことが起きるのだと、本気でおれはそう思っていた。

 それは遠い日の記憶なのに、これは夢の中だと分かっているのに、おれは苦笑してしまう。

 そうだよ、今でもおれはそう思ってる。

 いいことをしたらたくさんのいいことが。

 悪いことをしたらそれだけの悪いことが、見知らぬギフトのように届けられる。

 自分で気づいていなくても。

『神様なんていないよ』

 俊臣はそれだけ言うとぱっと立ち上がり、駆けて行った。

 呆れて帰ったんだ。

 俊臣にも見限られたと涙がまた溢れたとき、駆けてくる足音が近づいて来た。

『りつ。ほら、見て』

『……え?』

 俊臣の声に顔を上げると、目の前には俊臣の顔があった。

 あれ…、帰ったんじゃなかったの?

『見て、きれいになったよ』

 差し出されたハンカチを受け取ると、その中には少し濡れたカードが包まれていた。泥はきれいに落ち、くしゃくしゃだったそれは丁寧に広げられていた。

『あ…』

『お母さん、こういう紙をきれいにフィルムで包む機械持ってるから、それでしてもらおうよ。ね?』

『え、……、でも』

 戸惑うおれに、俊臣は微笑んだ。

『おじさんには、一緒に謝ろうよ』

 ね、と言われ、頷いた。

『……っ、うん』

『もう帰ろう?』

『…うん』

 先に立ち上がった俊臣に手を取られ、のろのろと立ち上がった。

 手を繋いだまま、歩き出した俊臣について行く。ハンカチに挟んだカードを持つ手の甲で腫れぼったい目をごしごしと擦った。

『俊臣、ありがと…』

『りつには俺がいるよ』

 笑って俊臣がおれを見た。

 今ではあまり見せなくなった笑顔。

『神様がいて、怒ったって、俺がいるよ』

『…うん』

 ああ、こんなふうに笑うんだった。

 こんなふうに優しい、滲むような笑顔で。

 握り合った手から伝わる温もりが嬉しくて、ぎゅっと握り込むと、俊臣も同じように返してくれた。

 それは遠い、遠い日の思い出だ。

「りつ…?」

 どこか遠くで俊臣の声がした。

「…ごめん」

 夢の中でおれは何度も謝っていた。

 あの日の夜、珍しく早く帰ってきた父さんに謝ったこと。

 驚く父さんに、英里さんの帰りを待ってうちにいた俊臣が、昼間のことをおれに代わって話してくれた。

 それからすぐに英里さんがうちに俊臣を迎えに来て…

 おれは泣きべそをかきながら皆と夕飯を食べたんだっけ。

 懐かしいな。

 暖かな手がおれの髪を撫でている。

 今ではもう手さえ握れない。

 寂しい。

 こんなに好きでいるのに。

 ごめん、ごめんな。

 ごめんなさい、好きになってしまって。

「りつ」

 好きになってごめん。

 普通に出来なくて。

 寂しい。

 でも一緒にいたら、きっとまた、こないだみたいなことをしてしまう。

 俊臣が今は誰のものでもないと知ったおれは、きっと、浮かれていたんだ。

「……ってる」

「大丈夫だよ」

 安心させるように囁く声は俊臣のものだ。

 …あれ?

 まだ、家に帰ってないのに、どうして聞こえてくるんだろう。

 これは夢の続きなんだろうか。

「……」

 暗がりの中にぼんやりと浮かぶ姿は、幻に見えた。

 熱があるから変な夢を見てるのか。

 ここにいて欲しいと、おれがどこかで願ってるから。

「……としおみ」

 自分の息がひどく熱い。

 苦しくて両手を伸ばすと、背中を掬い上げて抱き締められる。

「立夏」

 その腕の力強さに涙が出た。

 ずっとこうしていたい。

 出来ることなら、ずっと。

「……いで」

「ならないよ」

 よかった。

 よかった。

「嫌いになんかならないから」

 ほんと?

 本当だよ、と俊臣が言う。

 心臓の音が分け合うみたいに重なって、心地いい。

「少し眠って」

 眠ってるよ。

 だってこれは夢だろ?

 変なの。

 くすりと笑うと、大きな手がおれの両目を覆った。

 夢の中でおれは瞼を閉じる。何か柔らかなものに乾いた唇を濡らされて、気持ちがいいと思った。






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